第3話 開店初日と、氷の公爵様がとろけるオムライス
記念すべき『陽だまり亭』オープンの朝は、芳醇なバターと焦がしたソースの香りで幕を開けた。
「うん、最高の仕上がり!」
厨房の真ん中で、私は大きな寸胴鍋を覗き込んで一人頷く。
鍋の中で艶やかに輝いているのは、私が前世の記憶と、この世界の魔法を駆使して作り上げた『特製デミグラスソース』だ。
牛の筋と香味野菜を焼き色がつくまで炒め、赤ワインとブイヨンで煮込むこと数日――本来ならそれだけの時間がかかるところを、【保存魔法】の応用である【熟成促進】を使って、一晩で一週間分の旨味を凝縮させたのだ。
色は漆黒に近いダークブラウン。
おたまで掬うと、トロリとした重みがあり、チョコレートのような光沢を放っている。
味見のために小皿に一滴垂らし、舐めてみる。
「んっ……!」
舌に乗せた瞬間、濃厚なコクが爆発した。
野菜の甘み、肉の旨味、ワインの微かな酸味と渋み。それらが複雑に絡み合い、喉を通った後も長い余韻を残す。
王城の晩餐会で出される「ただ高級なだけの薄味スープ」とは格が違う。
これは、白米にもパンにも合う、ご飯泥棒なソースだ。
「よし、ソースは完璧。ご飯も炊けてる。卵もたっぷりあるわ」
私は白いコックコートに身を包み、前掛けのエプロンをきゅっと締めた。
髪は清潔感のあるシニヨンにまとめ、気合十分だ。
昨日のコロッケの試食会で、ご近所さんの反応は上々だった。
きっと今日は、開店と同時にあの少年たちや主婦の方々が来てくれるはず。
「さあ、開店よ!」
カラン、コロン♪
入り口の扉に取り付けたベルが軽やかに鳴るのと同時に、私は看板を表に出すためにドアを開けた。
冷たく澄んだ空気が流れ込んでくる。
「いらっしゃいませーっ!」
満面の笑みで第一声を上げた、その時だった。
「…………」
目の前に立っていたのは、コロッケを楽しみにしていた子供たちでも、エプロン姿の主婦でもなかった。
――黒い壁。
いや、人だ。あまりにも背が高い。
漆黒の騎士服に、銀の刺繍が入ったマント。
腰には無骨だが手入れの行き届いた長剣を佩いている。
そして何より目を引くのは、その顔立ちだ。
息を飲むほど整った美貌。色素の薄い銀髪に、氷のように冷たいブルーグレーの瞳。
しかし、その瞳には一切の感情がなく、纏っている空気が恐ろしく重い。
周囲の空気がピキピキと凍りつきそうなほどの威圧感。
私の背後で、店内の温度が一度下がった気がした。
(う、嘘でしょ……!?)
私は心の中で絶叫した。
王都にいた頃、遠目から何度か見たことがある。
北方の守護者にして、魔獣討伐の英雄。
そのあまりの冷徹さと強さから『氷の公爵』と恐れられる男。
ジークハルト・オルステッド公爵、その人だ。
(なんで公爵様がここに!? ここは貴族街の高級レストランじゃなくて、場末のカフェですよ!?)
昨日の今日で、まさかこんな超大物が来店するなんて想定外すぎる。
しかも、彼の背後には、遠巻きにこちらを伺う街の人々の姿が見えた。
みんな怯えている。
「あ、あの公爵様がいるぞ……」「関わったら凍らされるぞ」なんて声が聞こえてきそうだ。
これじゃあ、他のお客さんが入れない!
しかし、元公爵令嬢として、そして何より『陽だまり亭』の店主として、客を選ぶなんてことはできない。
私は深呼吸をして、強張った頬を無理やり笑顔の形にした。
「い、いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
ジークハルト様は、無表情のまま私を見下ろした。
その視線は値踏みするようで、思わず背筋が伸びる。
「……営業中か」
「は、はい! たった今、開店いたしました!」
「そうか」
低く、地を這うようなバリトンボイス。
彼はそれだけ言うと、私の横を通り過ぎて店内へと入っていった。
マントが翻り、冬の風のような冷気が鼻先を掠める。
彼は店の一番奥、窓際の四人掛けテーブルにドカッと腰を下ろした。
長い脚を持て余し気味に組み、眉間に深い皺を刻んで腕を組む。
……どう見ても「食事を楽しみに来た客」ではない。
「地代の取り立てに来たマフィア」か「不機嫌な監査官」の風情だ。
(ど、どうしよう。メニュー渡していいのかな? というか、そもそも食べる気あるの?)
お冷(レモン水)を持って、恐る恐るテーブルへ近づく。
「あの、ご注文はお決まりでしょうか。本日のランチは……」
「何もいらない」
「へ?」
ジークハルト様は、不機嫌そうに吐き捨てた。
「部下が『新しい店ができているから休んでいけ』とうるさくてな。少し座らせてもらうだけでいい。金なら払う」
そう言って、テーブルの上にチャリと硬貨を置いた。
銀貨ではなく、金貨だ。
この店のランチが百回食べられる金額である。
(な、舐められてるーッ!)
私の料理人魂に火がついた。
座るだけで金を払う? 何もいらない?
そんなの、飲食店に対する最大の侮辱だ。
それに、よく見れば彼の顔色は悪い。目の下には隈があるし、頬もこけている。
魔獣討伐の帰りだろうか。体から微かに瘴気の残滓のような、澱んだ魔力を感じる。
疲労困憊で、食欲が湧かない状態なのかもしれない。
(わかるわ。疲れている時って、硬いパンや干し肉なんて喉を通らないものね)
でも、だからこそ。
食べなきゃダメなのだ。
人間は、美味しいものを食べて、温かい布団で寝れば、大抵のことは解決する生き物なのだから。
私は金貨には手を触れず、ニッコリと微笑んだ。
「当店は飲食店ですので、お食事をご注文いただかない方の滞在はお断りしております」
「……なんだと?」
ジークハルト様の目がすぅっと細められた。殺気が漏れている。
普通の令嬢ならここで失神しているレベルだが、私は引かない。
「ですが、食欲がないのでしたら……そうですね。スルッと食べられて、元気が湧いてくる『特製メニュー』をご用意いたします。もし一口食べてお気に召さなければ、お代は結構です」
彼は数秒ほど沈黙し、私をじっと見つめた。
やがて、呆れたように、あるいは諦めたように息を吐く。
「……勝手にしろ。ただし、不味ければ店ごと潰すぞ」
「承知いたしました(理不尽!)」
許可は取った。
私は厨房へ取って返した。
相手は疲労困憊の味覚音痴(仮)。
そんな彼に出すべき料理は一つしかない。
子供から大人まで、みんな大好き。
黄色と赤と茶色の幸せトライアングル。
「オムライス、いっくよー!」
まずはチキンライス作りだ。
フライパンにバターを落とし、細かく刻んだ鶏肉と玉ねぎを炒める。
ジークハルト様には栄養をつけてもらいたいので、マッシュルームとピーマンも細かく刻んで忍ばせる。
具材に火が通ったら、炊きたてのご飯を投入。
木べらで切るように混ぜ合わせ、全体に油が回ったところで、トマトケチャップを回し入れる。
ジュワァッ!
酸味の効いた香りが立ち上る。
ケチャップは少し焦がすことで酸味が飛び、甘みとコクが増すのだ。
塩胡椒で味を整えれば、これだけでご馳走の『チキンライス』が完成。
お皿の上に、ラグビーボールのような形にふんわりと盛り付ける。
そして、ここからがメインイベント。
『オム』の部分だ。
ボウルに卵を三個割り入れる。
牛乳と生クリームを少々、塩をひとつまみ。
白身を切るように、でも泡立てないように丁寧に混ぜる。
【鑑定】スキルで選んだ、今朝産まれたばかりの濃厚な赤玉卵だ。黄身の色が濃い。
熱々に熱したフライパンに、惜しげもなくバターを投入。
溶けたバターが細かく泡立ってきた瞬間、卵液を一気に流し込む。
ジュウウゥゥゥ……ッ!
芳醇なバターと卵の香りが厨房に充満する。
ここからはスピード勝負だ。
菜箸で大きくかき混ぜながら、フライパンを前後に揺する。
外側は固まり、内側はとろとろの半熟状態。
その絶妙なタイミングを見極め、卵をフライパンの縁を使ってトントンとリズミカルに叩き、楕円形にまとめていく。
表面はツルツル、中はプルプル。
美しいレモン色のオムレツが出来上がった。
「よし!」
チキンライスの上に、そのオムレツをそっと乗せる。
仕上げに、朝から煮込んでいた自慢の『デミグラスソース』をたっぷりと、海の如く周りに流しかければ――
「お待たせいたしました」
私はトレイを持って、ジークハルト様のテーブルへ戻った。
彼は腕を組んだまま、つまらなそうに窓の外を見ていたが、私が皿を置くと視線を戻した。
「……なんだこれは。卵焼きと、黒いスープか?」
「ふふ、まあ見ていてください」
私はテーブルに置かれたナイフを手に取り、プルプルのオムレツの真ん中に、スッと刃を入れた。
力を入れる必要はない。卵の重みだけでナイフが沈んでいく。
切れ目を入れると、左右にパカリ。
――とろぉぉぉり。
その瞬間、魔法がかかった。
内側に閉じ込められていた半熟の卵が雪崩のように溢れ出し、チキンライスを黄金色に包み込んだのだ。
立ち上る湯気と共に、閉じ込められていたバターの甘い香りが一気に解放される。
「な……ッ!?」
先ほどまで能面のように無表情だったジークハルト様の目が、驚愕に見開かれた。
氷の仮面が、一瞬でひび割れる。
「『陽だまり亭』特製、ふわとろデミオムライスでございます。熱いうちにどうぞ」
私は一礼して下がる。
さあ、実食だ。
ジークハルト様は、まるで未知の魔獣を見るような目でオムライスを見つめていたが、やがて意を決したようにスプーンを手に取った。
震える手つきで、ソースと卵、そしてチキンライスを一緒にすくい上げる。
黒、黄、赤のコントラストが美しい。
彼はそれを口へと運んだ。
「…………」
咀嚼する。
一度、二度。
そして動きが止まった。
(……どうだ?)
次の瞬間、彼は猛然とスプーンを動かし始めた。
ガツッ、ガツッ。
上品なマナーこそ守っているものの、そのスピードは尋常ではない。
口の中では、きっと素晴らしいシンフォニーが奏でられているはずだ。
濃厚なデミグラスソースのコクを、まろやかな半熟卵が優しく包み込む。
そこへ、ケチャップライスの酸味と鶏肉の旨味が加わり、噛むたびにバターの香りが鼻腔を抜ける。
ふわふわ、とろとろ、そして時々シャキッとする玉ねぎの食感。
味が濃いのに、卵のおかげで優しく、いくらでも食べられる。
ジークハルト様は、一言も発さない。
ただ、ひたすらに食べている。
眉間の皺は完全に消え失せ、頬が心なしか緩んでいるように見える。
そして驚くべきことに、彼の体を覆っていた淀んだ黒い靄が、一口食べるごとに薄れていくのが見えた。
私の【保存魔法】で鮮度抜群の食材には、微弱だが回復効果が乗っている。
美味しい食事による精神的な充足と相まって、彼の呪いのような疲労を浄化しているのだろう。
カチャ。
あっという間だった。
あんなに「食欲がない」と言っていた大男が、大盛りのオムライスをペロリと完食してしまった。
皿の上には、ソースの一滴すら残っていない。
「……おかわりだ」
「はい?」
「これと同じものを、もう一つ。……いや、二つだ」
ジークハルト様が、真剣な眼差しで私を見た。
その瞳には、もう以前のような冷たい光はない。
あるのは、獲物を狙う肉食獣のような、あるいは美味しいおやつを見つけた子供のような、純粋な熱量だけ。
「あ、ありがとうございます! すぐに!」
私は嬉しさで心が躍るのを抑えきれず、元気よく返事をした。
厨房へ戻り、再び卵を割る。
店内をチラリと見ると、ジークハルト様が満足げに水を飲んでいるのが見えた。
そして、その様子を窓の外から見ていた街の人々が、恐る恐る、しかし好奇心に抗えずにドアを開け始めている。
「あの公爵様が、あんなに美味そうに……」
「おい、俺もあれ食いたいぞ」
「いい匂いだ……たまらん」
どうやら、最強のサクラ(宣伝役)になってしまったようだ。
こうして『陽だまり亭』の初日は、氷の公爵様の胃袋を陥落させるという、とんでもないロケットスタートを切ることになったのだった。




