第2章 最終話 氷の女帝の融解と、純白の豆乳レアチーズケーキ
大豆ミートのハンバーグによる衝撃が冷めやらぬ中、晩餐会はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。
厨房に戻った私は、大きく深呼吸をした。
ここまでは完璧だ。
野菜嫌いの叔父様を唸らせ、健康を気にする叔母様を喜ばせ、そして何より、難攻不落のエリーゼ様に「完敗」と言わせた。
だが、まだ終わっていない。
フルコースの最後を飾るデザート。
ここで失敗すれば、これまでの評価が全て水泡に帰す可能性だってある。
「終わりよければ全てよし」という言葉があるけれど、逆に言えば「終わりが悪ければ全て台無し」なのだ。
「ニーナ、冷蔵庫からケーキを出して。ソースの準備は私がやるわ」
「りょーかい! ……うわぁ、ふるふるしてる! 崩さないように……そーっと、そーっと……」
ニーナが慎重に運んできたのは、バットに冷やし固められた純白の生地だ。
見た目は完全に、濃厚なクリームチーズの塊。
けれど、その正体は――。
「ふふ、まさかこれが『お豆腐』だなんて、誰も思わないでしょうね」
そう、今回のデザートの主役は、市場のおじさんが「家畜の餌」と言っていた黄色い大豆から作られる『絹ごし豆腐』と『豆乳』だ。
本来、レアチーズケーキはたっぷりのクリームチーズと生クリームを使う。
それは間違いなく美味しいけれど、カロリーも脂質もモンスター級だ。
今のエリーゼ様に出せば、一口食べた瞬間に医者の顔がチラつき、罪悪感で素直に楽しめないだろう。
だから私は、クリームチーズの半分を「水切りした豆腐」に置き換えた。
さらに生クリームの代わりに、濃厚な「無調整豆乳」を使用。
甘みは白砂糖ではなく、血糖値の上がりにくい蜂蜜と、メープルシロップでつけた。
豆腐独特の青臭さを消すために、レモン果汁を多めに加え、バニラエッセンスで香りを纏わせる。
土台には、小麦粉のクッキーではなく、砕いたナッツとドライフルーツを敷き詰めた。
徹底的に「低糖質・低脂質」にこだわり抜いた、奇跡のケーキだ。
「仕上げのソースは、これね」
小鍋で煮詰めたのは、ミックスベリーのソース。
砂糖は使わず、ベリー本来の酸味と、少しの赤ワインで大人味に仕上げてある。
切り分けた純白のケーキを皿に乗せ、鮮やかな真紅のソースを流れるように描く。
ミントの葉を添えれば、それはもう高級パティスリーの逸品と変わらない輝きを放つ。
「よし、行くわよニーナ。これが最後の一撃!」
「おーっ! おばあちゃんをメロメロにしちゃえー!」
私たちはトレイを掲げ、戦場であるダイニングルームへと足を踏み入れた。
◇
ダイニングルームの空気は、開始当初のピリピリした緊張感とは打って変わって、どこか弛緩した、満腹感に満ちたものになっていた。
「いやぁ、まさか豆があんなに美味いとはなぁ」
「お酒にも合う味付けだったわね」
親族たちが口々に感想を言い合っている。
そこへ、私たちがデザートを運んでいくと、再び視線が集まった。
「本日のデザートをお持ちしました。『雪解けの口どけ・純白のソイ・レアチーズケーキ~大人のベリーソースを添えて~』です」
ニーナと給仕たちが、各席に皿を置いていく。
白と赤の美しいコントラスト。
その優美な見た目に、女性陣から「まぁ、綺麗……」と感嘆の声が漏れる。
しかし、エリーゼ様だけは複雑な表情を浮かべていた。
彼女の視線はケーキに釘付けだが、手はナプキンの上で固く握りしめられている。
瞳の奥に、「食べたい」という渇望と、「食べてはいけない」という理性が激しく火花を散らしているのが見えた。
「……レティシア」
彼女が静かに口を開いた。
「貴女の料理の腕は認めました。ですが……これは、いけません」
「いけない、とは?」
「見ればわかります。これほど濃厚そうなチーズケーキ……間違いなく美味しいでしょう。ですが、今の私の体には毒です。医者からも、乳製品と砂糖の塊は厳禁だと言われています」
彼女は辛そうに視線を逸らした。
「目の前に出されて、手をつけないのは失礼にあたりますが……こればかりは、命に関わりますので」
拒絶。
しかしそれは、私の料理への否定ではなく、自分自身への戒めだ。
彼女はずっと我慢してきたのだ。
甘いものが大好きなのに、公爵家の当主代行として健康を維持するために、好きなものを切り捨ててきた。
そのストイックさが、彼女を「氷の女帝」たらしめている所以なのだろう。
私は、そんな彼女の目の前にあえて一歩踏み出した。
「エリーゼ様。毒見役の私が保証いたします」
「……何を?」
「このケーキは、貴女様のために作った『魔法のケーキ』です。医者に止められている方でも、毎日食べていいお菓子なのです」
私の言葉に、エリーゼ様がバッと顔を上げた。
「毎日……食べていい? そんな馬鹿な。お菓子はお菓子でしょう?」
「いいえ。騙されたと思って、一口だけ召し上がってみてください。もし、一口食べて『重い』と感じられたら、残していただいて構いません」
私は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
そこには自信と、そして彼女への敬愛を込めた。
ジークハルト様も横から口を挟んだ。
「祖母上。レティシアを信じてください。……俺も食べましたが、これは貴女が知っているケーキとは別物です」
「ジークハルトまで……」
孫と婚約者にそこまで言われては、無下に断ることもできない。
エリーゼ様は意を決したように、震える手で小さなデザートスプーンを手に取った。
「……一口だけ、ですよ」
彼女はスプーンの先を、ケーキの角に入れた。
スッ……。
抵抗がない。
まるで新雪に触れたかのように、音もなくスプーンが沈んでいく。
その感触だけで、生地のきめ細やかさが伝わってくる。
すくい上げた白い欠片には、赤いベリーソースがとろりと絡んでいる。
彼女はそれを、ゆっくりと口へと運んだ。
パクッ。
舌の上に乗せた瞬間。
彼女の動きが、完全に停止した。
「…………ッ」
目を閉じ、全神経を味覚に集中させる。
口に入れた瞬間、ふわっと広がるのはレモンの爽やかな香りと、バニラの甘い香り。
そして、舌の熱で生地がほどけていく。
滑らかだ。
どこまでも滑らかで、クリーミー。
濃厚なコクがある。
チーズ特有の酸味と旨味がしっかりと感じられる。
それなのに――消えるのだ。
飲み込んだ瞬間、あのチーズケーキ特有の「喉に張り付くような重さ」や「脂っこさ」が一切なく、淡雪のようにスゥッと消えてなくなる。
後に残るのは、蜂蜜の優しい甘さと、ベリーソースのキリッとした酸味だけ。
「……何……これ……?」
エリーゼ様が目を開けた。
その瞳が潤んでいる。
「甘い……美味しい……。濃厚なのに、空気みたいに軽い……」
「お豆腐と豆乳で作りましたから」
私が種明かしをすると、彼女は「えっ?」と素っ頓狂な声を上げた。
叔父様や叔母様たちも、スプーンを止めてこちらを見ている。
「これも、先ほどの大豆です。クリームチーズを半分に減らし、代わりに水を切った豆腐と豆乳をたっぷりと使いました。甘みは蜂蜜だけです」
「豆腐……? あの、ハンバーグに使った?」
「はい。大豆は変幻自在なんです。お肉にもなれば、こうしてチーズの代わりにもなる。脂肪分は極めて低く、タンパク質は豊富。これなら、お体の負担になることはありません」
その説明を聞いた瞬間、エリーゼ様の中で何かが弾けたようだった。
彼女はもう、迷わなかった。
二口目、三口目と、スプーンを動かす速度が上がっていく。
「んっ……美味しい……。ああ、甘いものが食べられるなんて……」
彼女は夢中で食べた。
ボトムに敷いたナッツのカリカリとした食感も楽しんでいる。
長い間、厳しい食事制限で「甘いもの」を敵視してきた彼女にとって、この罪悪感のないケーキは、まさに救済(魔法)だったのだろう。
あっという間に、彼女の皿は空になった。
最後のソース一滴まで綺麗にすくい取り、彼女は名残惜しそうにスプーンを置いた。
そして、ナプキンで口元を拭うと、深く、長い息を吐いた。
それは満足のため息であり、長年の重荷を下ろしたような安堵の息でもあった。
彼女は立ち上がり、杖をついて私の元へと歩み寄ってきた。
会場中が静まり返る。
ジークハルト様が緊張して腰を浮かせかける。
エリーゼ様は私の前で立ち止まり、じっと私を見上げた。
その瞳からは、もう「氷の女帝」としての冷たさは消え失せていた。
あるのは、一人の女性としての、心からの感謝の光。
「……レティシア」
「はい」
「貴女の勝ちです」
彼女は、公爵家の人間としては異例なことに、私の手を取った。
皺の刻まれた、温かい手が、私の手を包み込む。
「ただ美味しいだけではない。食べる者の心と体をここまで深く思いやり、不可能を可能にする……これぞ、真の『おもてなし』です。王宮の料理人たちにも、貴女の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだわ」
「もったいないお言葉です」
「私が間違っていました。……貴女は、ただの商売女などではない。立派な『食の魔術師』であり、何より……」
彼女はチラリとジークハルト様を見て、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「私の大事な孫を託すに足る、賢く優しい女性です」
「お婆様……!」
「祖母上!」
ジークハルト様が駆け寄ってくる。
エリーゼ様は孫に向き直り、ビシッと言い放った。
「ジークハルト、何をボサッとしていますか。こんな素晴らしい女性を捕まえておきながら、まだ結婚式の日取りも決めていないのですか?」
「い、いえ! 春のうちにと考えてはおりますが……」
「遅い! 善は急げです。オルステッド家の総力を挙げて、最高の式にしなさい。費用は全て私が出します」
「ええっ!?」
急展開に、私が声を上げてしまった。
全額負担!?
「当然です。これは、私からの詫びと、祝いです。……それに、これからも貴女の料理を食べさせてもらうための『先行投資』でもありますからね」
彼女は私の耳元に顔を寄せ、こっそりと囁いた。
「(……あとで、あのケーキのレシピを教えてくださる? 屋敷の料理人に作らせますから。……それと、余っていたらもう一つ、部屋に持ってきてちょうだい)」
「(……ふふ、かしこまりました。特大サイズでお持ちしますね)」
私たちが内緒話をして笑い合うと、会場は温かい拍手に包まれた。
叔父様や叔母様たちも、満足げな顔で拍手を送っている。
どうやら、胃袋だけでなく、心まで完全に攻略してしまったようだ。
ジークハルト様が、涙ぐみながら私を抱きしめた。
ニーナも「やったー! おねえちゃんすごい!」と飛びついてくる。
こうして、最強のラスボス・エリーゼ様との対決は、私の完全勝利――いや、全員が勝者となる大団円で幕を閉じたのだった。
◇
翌朝。
『陽だまり亭』の厨房に、意外な人物の姿があった。
「そこ、火が強いですわよ! 焦がす気ですか!」
「ひぃっ! すみませんエリーゼ様!」
なんと、エリーゼ様がエプロン姿(!)で、ニーナに野菜の皮むきを指導していたのだ。
どうやら彼女、すっかりこの店が気に入ってしまい、しばらくベルクに滞在することに決めたらしい。
「レティシア、このお茶の淹れ方はなっていません。貸してごらんなさい、公爵家に伝わる極意を教えてあげます」
「は、はい! お願いしますお義祖母様!」
「ふふ、素直でよろしい」
まさかの「お義祖母様」呼びも公認となり、私たちの関係は良好そのもの。
彼女は厳しいけれど、その知識と教養は本物だ。
マナー講座や紅茶の淹れ方、経営のノウハウなど、彼女から学ぶことは山のようにある。
そしておやつタイムには、二人でこっそり「豆乳スイーツ」の研究会を開くのが日課になった。
「おねえちゃん、これなにー?」
「ん?」
平和な日常の中、ニーナが裏口から駆け込んできた。
その手には、見たことのない赤い実がついた枝が握られている。
「裏山の奥で見つけたの! なんか、苦いけどいい匂いがする実!」
「苦い実……?」
私はその実を受け取り、【鑑定】スキルを発動させた。
――名称:コーヒーチェリー(野生種・最高品質)
私の目が飛び出そうになった。
こ、これは……!
「ニーナ! あなたって子は本当に天才ね!」
「えっ、えっ? すごいやつ?」
「ええ、すごいやつよ! これで『陽だまり亭』は、また一つ進化できるわ!」
カフェの王様、コーヒー。
今はまだ代用品で凌いでいたけれど、本物の豆が手に入れば、カフェオレも、エスプレッソも、アフォガートだって作れる。
エリーゼ様も興味津々で覗き込んでくる。
「まあ、新しい食材? レティシア、また何か驚くようなものを作る気ね?」
「はい! 期待していてください!」
春のベルクに、芳醇なコーヒーの香りが漂う日は近い。
私のスローライフは、まだまだ美味しく、楽しく続いていくのだ。




