第2話 魔法のリフォームと、黄金色の爆弾コロッケ
小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。
カーテンのない窓から差し込む朝日が眩しい。
一瞬、いつものように「王太子殿下の執務室へ行く準備をしなきゃ」と身構えてしまったけれど、すぐにここが見知らぬ天井の下だと気づいて、体の力がふっと抜けた。
「……そっか。私、追放されたんだった」
煎餅布団のような薄い布団の上で、私は大きく伸びをした。
背中の骨がポキポキと鳴る。
昨夜は興奮と満腹感で気絶するように眠ってしまったけれど、目覚めは驚くほど爽快だ。
これまでの人生で、こんなにぐっすり眠れたことがあっただろうか。いや、ない。
壁時計を見る必要もない。誰に急かされることもない朝。
最高だ。
「さて、と!」
私は勢いよく起き上がり、部屋を見渡した。
昨日は厨房と寝室だけを魔法で掃除したけれど、この元商館は二階建てで、部屋数は多い。
一階は広いホールになっていて、そこをカフェスペースにする予定だ。
二階は私の住居スペースと、倉庫。
現状は、廃墟一歩手前のボロボロ屋敷である。
「今日中にリフォームを終わらせて、ご近所さんに挨拶回り。……よし、やるわよレティシア!」
私は気合を入れるために頬をパンパンと叩いた。
まずは身支度だ。
ドレスなんて動きにくいものはアイテムボックスの肥やしにして、シンプルな麻のシャツと、足首丈の動きやすいスカートに着替える。
長い銀髪は高い位置でポニーテールに結い上げた。
鏡に映った自分は、どこからどう見ても「街の食堂の看板娘」だ。
元公爵令嬢の面影は……うん、品の良さが隠しきれていないけれど、まあいいとしよう。
一階のホールへ降り立つ。
床板は腐りかけている部分があるし、壁紙は剥がれ落ち、蜘蛛の巣がシャンデリアのようにぶら下がっている。
普通なら業者を呼んで一ヶ月はかかる惨状だ。
でも、私には魔法がある。
それも、王宮魔導師たちが「無駄な才能」と呆れた、生活特化型の魔法が。
「まずは、修繕からね。【リペア・ウッド】!」
私が指先を床に向けると、緑色の淡い光が走った。
魔力が木材に浸透し、腐った部分が再生していく。ギシギシと音を立てていた床板が、新築のように艶やかで頑丈なオーク材へと生まれ変わる。
ついでに壁の穴も塞ぎ、窓枠の歪みも矯正。
「次は内装! 【クリーン・オール】!」
風魔法の応用で、部屋中のゴミと埃を一箇所に集めて圧縮し、塵にして消滅させる。
さらに水魔法で雑巾がけの効果を再現。
仕上げに光魔法で殺菌と漂白。
シュオオオッという音と共に、薄汚れていたホールが劇的に変化した。
壁は温かみのあるクリーム色に。床は飴色に輝き、窓ガラスは外の景色をそのまま切り取ったかのように透明になった。
「うん、完璧。これなら飲食店として保健所の許可も一発ね(この世界に保健所はないけど)」
最後に、アイテムボックスからテーブルと椅子を取り出す。
これは王都の古道具屋で「いつか店を持つ時のために」とコツコツ買い集めていたアンティーク調の家具だ。
四人掛けのテーブルを四つ、二人掛けを二つ。
窓際にはカウンター席も設けた。
配置を終えて入り口から見渡すと、そこには私の夢見ていた「喫茶店」の姿があった。
落ち着いた色調で統一された店内。窓から差し込む陽光が、木の床に柔らかな影を落としている。
「店名は……『陽だまり亭』にしよう」
誰でも気軽に入れて、陽だまりのように温かい気持ちになれる場所。
そんな願いを込めて。
◇
午前中のうちに屋敷の大掃除と家具の配置を終えた私は、街へ繰り出すことにした。
目的は二つ。
食材の現地調査と、ご近所への挨拶だ。
屋敷の外に出ると、冷たくて乾いた風が頬を撫でた。
ベルクの街は、王都とは違って質実剛健な雰囲気だ。
すれ違う人々は分厚いコートや毛皮を身に纏い、足早に歩いている。
私の姿を見ると、少し驚いたような顔をするけれど、すぐに興味を失ったように視線を外す。
(王都みたいにジロジロ見られたり、陰口を叩かれたりしないのは楽ね)
市場は街の中央広場にあった。
露店には、この土地特有の食材が並んでいる。
王都では見たこともないような巨大な根菜類や、毛皮のまま吊るされた野ウサギや鹿。
私は目を輝かせて、野菜売りの屋台に駆け寄った。
「おじさん、これなあに?」
「ん? ああ、それは『大地のリンゴ』だよ。泥臭くて硬いから、スープに入れて煮込むくらいしか使い道がねぇがな」
無愛想な店主が指差したのは、泥だらけの拳大の芋だった。
私はそれを手に取り、【鑑定】スキルを発動する。
――名称:キタアカリ(異世界種)
――特徴:糖度が高く、加熱するとホクホクとした食感になる。ビタミン豊富。
(これ、ジャガイモじゃない! しかも一番美味しいやつ!)
泥臭くて硬い? 使い道がない?
なんてことだ。この世界の人たちは、この黄金の食材のポテンシャルを知らないなんて。
茹でてよし、焼いてよし、揚げてよし。万能野菜の王様なのに。
「これ、十個ください! あと、そっちの玉ねぎも!」
「はあ? そんなに買ってどうするんだ? お嬢ちゃん、身なりはいいけど料理なんてしたことないだろ」
おじさんは呆れ顔だが、私は構わず銀貨を渡した。
続いて精肉店へ。
ここでは合挽き肉を大量に購入。北行牛の赤身と、豚肉の脂身のバランスが絶妙なひき肉だ。
両手いっぱいの紙袋(中身はすぐにアイテムボックスへ収納)を抱えて、私は市場を後にした。
心の中はすでに、今日のメニューで決まっていた。
この寒空の下、冷え切った体を温め、かつ小腹を空かせた人々の胃袋を鷲掴みにするもの。
そう、揚げたてのコロッケだ。
◇
『陽だまり亭』の厨房に戻った私は、さっそく調理に取り掛かった。
まずは買ってきたばかりの「大地のリンゴ」ことジャガイモを洗う。
皮付きのまま鍋に入れ、たっぷりの水で茹でる。
竹串がスッと通るくらい柔らかくなるまで、じっくりと。
その間に、具材の準備だ。
玉ねぎを極限まで細かい微塵切りにする。
フライパンに油をひき、玉ねぎが透き通って飴色になるまで炒める。
そこへ合挽き肉を投入。
ジュワジュワという音と共に、肉の脂が溶け出し、玉ねぎの甘みと混ざり合う。
塩、胡椒、そしてナツメグを少々。
このナツメグが重要だ。肉の臭みを消し、洋食屋らしいプロの味に変えてくれる魔法のスパイス。
「よし、そろそろお芋が茹で上がったかな」
熱々のジャガイモの皮を剥く。
火傷しそうになりながらも、湯気の立つ真っ白な身をボウルに入れ、マッシャーで潰していく。
完全にペースト状にするのではなく、所々にゴロッとした塊を残すのが私流だ。食感のアクセントになるからね。
潰したジャガイモに、先ほどの炒めたひき肉と玉ねぎを混ぜ合わせる。
肉の脂をジャガイモが吸って、全体がしっとりとまとまっていく。
このままスプーンですくって食べても絶対に美味しいけれど、我慢だ。
タネを小判型に成形し、小麦粉、溶き卵、パン粉の順につけていく。
パン粉は、乾燥した硬いパンを自分で削って作った粗めの生パン粉だ。
これが揚げた時に、剣山のように立ってサクサクになるのだ。
「さあ、ここからが本番よ」
深めの鍋にたっぷりと油を注ぎ、加熱する。
菜箸を入れて、細かい泡がシュワシュワと上がってくる温度――百八十度。
一つ目のコロッケを、そっと油の中に滑らせる。
ジュワアアアアアァァァッ!!
厨房に、低く重厚な音が響き渡った。
水分が蒸発する音。衣が油を吸って硬化していく音。
それは食欲を刺激する最高のアリアだ。
次々と投入していく。
鍋の中でコロッケたちが踊る。
最初は沈んでいた彼らが、徐々に浮き上がってきて、衣が美しいきつね色に染まっていく。
香ばしい揚げ油の匂いが、換気扇を通って外へと流れていく。
ラードを含んだ油の匂いは凶悪だ。
空腹の人間には、抗いようのない暴力となる。
「……うん、いい色! 引き上げ!」
網の上に取り出すと、余分な油が落ちて、衣が「チリチリ」と小さな音を立てた。
黄金色の爆弾。
揚げたてのコロッケの完成だ。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が店の入り口から聞こえたのは。
「あ、あのぅ……」
私がエプロン姿のまま顔を出すと、そこには近所に住んでいるらしい男の子が二人、もじもじと立っていた。
鼻をひくひくと動かして、視線は私の背後の厨房に釘付けだ。
「いい匂いがするって、お母さんが……あ、いや、僕たちが気になって……」
「この匂い、なんですか? お肉? パン?」
あからさまにお腹を空かせている。
これは、最高の試食要員(お客様)だ。
「ふふ、ちょうど揚がったところよ。味見していく?」
私がにっこり笑って手招きすると、二人は顔を見合わせて、恐る恐る店に入ってきた。
私は揚げたてのコロッケを二つ、紙に包んで渡した。
ソースはかけない。最初は素材の味と、下味の塩胡椒だけで味わってほしいから。
「熱いから気をつけてね」
「い、いただきます!」
少年たちは、黄金色の塊にかぶりついた。
ザクッ!!
軽快で、乾いた音が店内に響く。
粗めのパン粉が砕ける音だ。
その直後、ハフッ、ホフッと熱さに悶える声。
「――!?」
「んんーっ!!」
二人の目が限界まで見開かれた。
サクサクの衣を突破した先にあるのは、ホクホクで甘いジャガイモと、肉汁溢れるひき肉のハーモニー。
熱々の湯気が口から漏れるのも構わず、彼らは夢中で咀嚼した。
「なにこれ、すっげぇ美味い!」
「カリカリなのに、中がトロトロだ! 芋なのに泥臭くない!」
「肉の味がする! すげぇ濃い味!」
あっという間に一つを食べ終え、彼らは指についたパン粉まで舐め取った。
そして、キラキラした目で私を見上げてくる。
「お姉ちゃん、これなんて料理!?」
「コロッケよ。明日からここで、お店を開くの」
「コロッケ……」
「絶対また来る! 母ちゃんにも教える!」
興奮冷めやらぬ様子で駆け出していく少年たちを見送りながら、私はガッツポーズをした。
勝った。
この反応なら、ベルクの人々の口にも合うはずだ。
その後、噂を聞きつけた近所の主婦やおじいさんたちが、「なんの匂いだ」と次々に様子を見に来た。
私は挨拶代わりに試作したコロッケを振る舞った。
全員が一口食べた瞬間に目を見開き、そして笑顔になった。
「硬いパンに挟んでも美味そうだ」
「酒のつまみに最高じゃないか」
「こんな料理、王都でも食べたことないよ」
そんな感想を聞くたびに、私の胸は温かいもので満たされていく。
王城で書類と格闘していた時には得られなかった、ダイレクトな感謝と称賛。
料理人として、これ以上の喜びはない。
日が暮れる頃には、用意した五十個のコロッケは全てなくなっていた。
手元には、ご近所さんがお返しにと持ってきたリンゴや薪が山積みになっている。
「ふぅ……疲れたけど、楽しかった」
私は店の入り口に、手書きの看板を立てかけた。
『カフェ・陽だまり亭 明日オープン。
美味しいご飯と、温かいスープあります』
準備は整った。
明日から、いよいよ本番だ。
どんなお客さんが来るだろうか。




