第2章 第5話 氷の女帝、降臨す
『陽だまり亭』の前の通りに、重苦しい静寂が満ちていた。
春の陽気などどこへやら、まるで真冬のブリザードが吹き荒れているかのような錯覚さえ覚える。
その発生源は、たった一人の老婦人だった。
目の前に停車した漆黒の馬車から降り立った、ジークハルト様の祖母、エリーゼ・オルステッド様。
杖をつき、背筋をピンと伸ばして立つ姿は、小柄ながらも巨大な城壁のような威圧感を放っている。
片眼鏡の奥にある瞳は、完全に私を「敵」として認識し、ロックオンしていた。
「……ここが、例の店か」
彼女が短く呟く。
その声は低く、しかし驚くほどよく通る声だった。
彼女は店の外観――私が魔法で修繕し、ニーナがピカピカに磨いた窓や、可愛らしい手書きの看板を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「古びた商館を改装しただけの、随分と小洒落た……いえ、貧相な店だこと」
開幕一番、強烈なジャブだ。
私の後ろに隠れていたニーナが、ビクッと震えて私のスカートを握りしめる。
ジークハルト様が、慌てて私の前に出て庇うように立った。
「祖母上! 言葉が過ぎます。ここはレティシアが心血を注いで作り上げた城だ。貧相などと……」
「お黙りなさい、ジークハルト」
ピシャリ。
たった一言で、騎士団長であるジークハルト様の言葉が封じられた。
エリーゼ様は孫の方を見ようともせず、ただ私だけを冷ややかに見据えている。
「立ち話もなんです。……中へ入れていただけるのかしら?」
「は、はい! もちろんです。どうぞお入りください」
私は強張る頬を無理やり持ち上げ、営業スマイル全開でドアを開けた。
どんなに理不尽なことを言われても、お客様はお客様だ。
それに、ここで怯んでドアを閉ざしてしまえば、それこそ彼女の思う壺だろう。
コツン、コツン。
杖が床を叩く音が、店内に響き渡る。
エリーゼ様が入店すると、それに続いて数名の侍女と護衛が入ってきた。
彼女たちは無言で店の四隅に配置につき、店内を一瞬にして「公爵家の審問室」のような空気へと変えてしまった。
エリーゼ様は、店内をゆっくりと見渡した。
掃除が行き届いているか、家具の趣味はどうか、衛生状態はどうか。
まるで姑が嫁の家事をチェックするかのような、容赦のない視線だ。
やがて彼女は、いつもの特等席――ジークハルト様が愛用している窓際の席へと向かい、優雅に腰を下ろした。
「……座り心地は悪くないようね」
「ありがとうございます。椅子にはこだわっておりますので」
「ですが、所詮は平民が使う安物。公爵家のサロンにある椅子とは雲泥の差です」
褒めたと思ったら即座に落とす。
隙がない。
私はお冷とおしぼりを出しながら、心の中で深呼吸をした。
大丈夫、私は元公爵令嬢。この程度の嫌味、社交界で散々浴びてきたじゃないか。
「ご注文はいかがなさいますか? 旅のお疲れを癒やすような、温かいお飲み物もございますが」
「結構です。貴女が淹れた茶など、泥水と変わりないでしょうから」
拒絶。
彼女は組んだ両手の上に顎を乗せ、値踏みするように私を見た。
「単刀直入に申し上げます。レティシア・ローズブレイド……いえ、今はただのレティシアでしたわね」
彼女は、私の「家名」が剥奪されていることを強調した。
「貴女、我が孫ジークハルトと婚約したそうですが……本気で、このオルステッド家に嫁ぐつもり?」
「はい。そのつもりでおります」
「身の程を知りなさい」
彼女の声が、一段低くなった。
怒鳴り声ではない。静かだからこそ、底知れぬ恐怖を感じさせる声だ。
「貴女は一度、王太子殿下から婚約破棄され、国を追われた身。冤罪だったという話は聞いていますが、一度ついた『傷』は消えません。そのような醜聞まみれの娘を、由緒あるオルステッド家の当主の妻に迎えるなど、言語道断です」
正論だ。
貴族社会の常識で言えば、彼女の言うことは100%正しい。
「傷物令嬢」を受け入れるほど、名門公爵家の敷居は低くない。
「それに……」
エリーゼ様は、チラリと厨房の方を見た。
「貴族の娘でありながら、自ら厨房に立ち、油と煤にまみれて働き、客にへつらう。そのような商売女の真似事をするなど、プライドはないのですか?」
「祖母上!!」
ダンッ!
耐えかねたジークハルト様が、テーブルを叩いて立ち上がった。
その顔は怒りで赤くなっている。
「レティシアを侮辱することは許さない! 彼女は自分の力で生き抜き、この街の人々を笑顔にしている。立派な仕事だ!」
「座りなさい、ジークハルト」
「しかし!」
「座りなさいと言っています」
エリーゼ様の眼光が鋭く光った。
その目力に射抜かれ、ジークハルト様は悔しそうに歯を食いしばりながらも、ドサリと椅子に座り直した。
あの熊殺しの英雄が、完全に子供扱いだ。
これが、「氷の女帝」と呼ばれる所以か。
エリーゼ様はため息をつき、再び私に向き直った。
「孫が完全に骨抜きにされているようですね。……いいでしょう。料理上手だというのは認めます。男の胃袋を掴むのも、女の技量の一つですから」
彼女は少しだけ譲歩したような口ぶりを見せたが、すぐに冷酷な笑みを浮かべた。
「ですが、公爵夫人に必要なのは料理の腕ではありません。家を取り仕切り、社交界を渡り歩き、夫を支える『品格』と『教養』、そして『完璧な立ち振る舞い』です」
彼女は懐から扇を取り出し、パチリと開いた。
「この店を見る限り、貴女にはそれが欠けている。ただの食堂のおかみなら務まるでしょうが、公爵夫人としては落第点です」
「……では、どうすれば認めていただけるのですか?」
私が問うと、彼女は待っていましたとばかりに目を細めた。
「簡単ですわ。証明してみせなさい」
「証明、ですか?」
「ええ。明後日の夜、私が滞在している別邸にて、親族を集めた晩餐会を開きます。その全ての料理を、貴女一人で取り仕切りなさい」
晩餐会。
それはただの食事会ではない。
ホストのセンス、財力、そして客への配慮が試される、貴族にとっての戦場だ。
「条件は三つ。一つ、オルステッド家の歴史と品格に相応しいメニューであること。二つ、老いた私や親族たちの健康に配慮したものであること。そして三つ……」
彼女は意地悪く口角を上げた。
「私を、『心から』満足させること。……言っておきますが、私は王宮の料理人が作ったフルコースでも、眉一つ動かしませんよ?」
無理難題だ。
「美味しいものを作れ」ではない。「心から満足させろ」という、極めて主観的でハードルの高い要求。
しかも、彼女は「王都の甘い菓子も、脂っこい肉料理も好まない」という事前情報がある。
何をどう作ればいいのか、正解が見えない。
「もし、私が『不合格』と判断したら……即刻、ジークハルトとの婚約は白紙に戻していただきます。そして、この店も潰して、どこか遠くへ消えてもらいます」
あまりに一方的な通告。
ジークハルト様が再び口を開こうとしたが、私はそれを手で制した。
これは、私の戦いだ。
彼に守ってもらうだけじゃ、いつまで経っても「相応しくない女」のままだ。
「……承知いたしました」
私は真っ直ぐにエリーゼ様を見返し、静かに、しかしはっきりと告げた。
「その挑戦、お受けいたします。……ただし、私が皆様を満足させられた暁には、私たちの結婚を全面的に認めていただきます」
「ふふ、威勢だけはいいのね。……よろしい、約束しましょう」
エリーゼ様は立ち上がった。
用件は済んだとばかりに、出口へと向かう。
その時だった。
「――お待ちください」
私が呼び止めると、彼女は不快そうに振り返った。
「まだ何か? 命乞いなら聞きませんよ」
「いいえ。……せっかく来ていただいたのですから、手ぶらでお返しするわけにはいきません。『おもてなし』をさせてください」
私はニーナに目配せをした。
ニーナはビクビクしながらも、私の意図を察して厨房へ走り、用意しておいたトレイを持ってきた。
「……これは?」
エリーゼ様が眉を寄せる。
トレイの上に乗っているのは、湯気を立てる小さなティーカップと、一口サイズの焼き菓子が二つ。
「当店自慢のハーブティーと、焼き立てのフィナンシェです。……お代はいただきません。試食だと思って、おひとついかがですか?」
彼女は一瞬、拒絶しようとした。
だが、その鼻先を、焼けたバターとアーモンドの香ばしい匂いがくすぐった瞬間、ピクリと眉が動いたのを私は見逃さなかった。
彼女は甘いものが好きなはずだ。
医者に止められているとしても、目の前に出された「焼き立て」の誘惑に、完全に無反応でいられるはずがない。
「……毒見もさせていないものを口にする趣味はありませんが」
「私が先に食べましょうか?」
「……いいえ、結構。そこまで言うなら、一口だけ味を見てあげます」
彼女は手袋を外し、フィナンシェを一つ摘み上げた。
それは、私の前世の記憶にある「黄金の延べ棒」の意味を持つ、金塊の形をしたお菓子。
表面はこんがりと濃いキツネ色に焼けていて、角はカリッとしているのが見て取れる。
彼女はそれを、上品に口へと運んだ。
サクッ……。
静寂の中に、繊細な音が響く。
焦がしバター(ブール・ノワゼット)の濃厚で芳醇な香りが、口の中で爆発する。
外側はサクサクと香ばしく、内側は驚くほどしっとりと、ジュワリと甘みが染み出す食感。
アーモンドプードルのコクが、バターの風味をさらに引き立て、最後にふわりと香る蜂蜜の余韻。
小さいけれど、その一粒に凝縮されたリッチな味わい。
「…………」
エリーゼ様の動きが止まった。
無表情を貫こうとしているが、頬がわずかに緩み、目が泳いでいる。
美味しい。
間違いなく、美味しいと思ってくれている。
彼女は無意識のうちに、二口目を口に放り込んだ。
そして、備え付けのハーブティー(ミントとレモングラスのブレンド)を一口飲む。
バターの濃厚さを、爽やかなハーブが洗い流し、口の中をリセットする。
完璧なペアリングだ。
あろうことか、彼女はもう一つのフィナンシェにも手を伸ばしかけ――ハッとして手を引っ込めた。
「……ふん。悪くはない、味ですわね」
彼女はハンカチで口元を拭い、再び冷徹な仮面を被った。
だが、その声には先ほどまでの絶対的な拒絶の色は薄れている。
「平民の菓子にしては、上出来です。……ですが、晩餐会ではこの程度では済みませんよ?」
「はい、肝に銘じます」
「では、明後日。楽しみにしていますわ」
彼女は再び杖をつき、コツン、コツンと足音を立てて店を出て行った。
従者たちが慌てて後に続く。
馬車が走り去るまで、私たちはその場から動けなかった。
「……ふぅぅぅぅぅ」
馬車の姿が見えなくなった瞬間、私はその場にへたり込んだ。
足が震えている。
背中は冷や汗でびっしょりだ。
「レティシア! 大丈夫か!?」
「おねえちゃん!」
ジークハルト様とニーナが駆け寄ってくる。
ジークハルト様が私を抱き起こし、強く抱きしめてくれた。
「すまない……俺が不甲斐ないばかりに、君にこんな重荷を背負わせてしまった」
「ううん、大丈夫ですよ。むしろ、チャンスをもらえたんですから」
私は彼の胸の中で、小さく笑った。
震えは止まった。
代わりに湧き上がってくるのは、料理人としての闘志だ。
「あの氷の女帝を、私の料理で溶かしてみせる。……燃えてきました」
「君という人は……本当に頼もしいな」
ジークハルト様は苦笑しつつ、私の頭を撫でた。
「でも、どうする? 祖母上の味覚は気難しいぞ。甘いものは好きだが、医者に止められているし、脂っこいものも好まない。そのくせ、味にはうるさい」
「ええ、観察してわかりました。……彼女は、本当は食べたがっているんです。甘いものも、美味しいお肉も」
私は立ち上がり、厨房の方を見た。
「我慢しているストレスが、あの方を不機嫌にさせている。だったら、答えは一つです」
「答え?」
「『罪悪感のない、極上のフルコース』を作ればいいんです」
私の頭の中で、メニューの構想がパズルのように組み合わさっていく。
春野菜、大豆、そして低糖質のスイーツ。
前世の知識と、この世界の魔法を組み合わせれば、不可能はない。
「ジークハルト様、ニーナ。手伝ってくれますか? 明後日までに、最高の準備をしましょう」
「ああ、もちろんだ。俺にできることなら何でもする」
「あたしも! おいしい食材、いっぱい採ってくる!」
チーム『陽だまり亭』の結束は固まった。
目指すは、最強の姑の胃袋攻略。
負けられない戦いが、今始まる。
その夜、私は深夜まで灯りを消さずに、レシピノートと睨めっこを続けた。
エリーゼ様が最後にフィナンシェを食べた時の、あの一瞬の「ほころび」。
あれをもっと大きな笑顔に変えてみせる。
それが、私の勝利条件だ。




