第2章 第4話 王都からの黒い手紙と、黄金色のフレンチトースト
嵐の前の静けさとは、まさにこのことだろう。
獣人の少女ニーナが新しい家族として加わり、山菜天ぷら蕎麦で春の味覚を堪能した翌日。
『陽だまり亭』は、朝から穏やかな空気に包まれていた。
「おねえちゃん、テーブル拭きおわったよ!」
「ありがとう、ニーナ。隅々までピカピカね」
「えへへ、しっぽもつかったからね!」
ニーナは自慢げにふさふさの尻尾を揺らしている。
どうやら彼女の尻尾は、優秀なモップ代わりにもなるらしい。衛生的にどうなのか一瞬考えたけれど、彼女自身が【洗浄魔法】で常に清潔に保たれているので良しとしよう。
窓の外は快晴。
雪解け水が流れる音と、小鳥のさえずり。
今日も平和な一日が始まる――はずだった。
カラン、コロン……。
開店準備中のドアベルが鳴る。
お客さんにはまだ早い時間だ。
「はい、どちら様でしょう……か?」
私が顔を出すと、そこに立っていたのは全身黒ずくめの配達人だった。
街の郵便屋さんではない。
胸元に刻まれた紋章は、王家直属の早馬便のものだ。
「レティシア・ローズブレイド様、およびジークハルト・オルステッド公爵閣下宛ての書状です」
配達人は事務的にそう告げると、一通の封筒を差し出した。
それは、見るからに高級な、厚手の黒い紙で作られた封筒だった。
封蝋は、オルステッド公爵家の紋章である「氷雪の剣」。
ただし、色がいつもの銀色ではなく、ドス黒い赤色だった。
「……受領いたしました」
受け取った手が、わずかに震えるのを感じた。
ただの手紙なのに、まるで呪いのアイテムのような禍々しいオーラを放っている。
配達人が去った後、私はその封筒をカウンターの上に置いた。
ニーナが遠巻きに鼻をひくつかせる。
「おねえちゃん、その手紙……なんか『つめたい』においがする」
「冷たい匂い?」
「うん。雪山で遭難しそうなときの、こわいにおい」
野生の勘が警鐘を鳴らしているらしい。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
差出人の名前を見るまでもない。これは、間違いなく「あの人」からの手紙だ。
◇
昼下がり。
公務の合間を縫って、ジークハルト様が店にやってきた。
「レティシア、変わったことはないか? ……ん?」
店に入った瞬間、彼の視線がカウンターの上の「黒い封筒」に釘付けになった。
途端に、彼の美しい顔から表情が抜け落ちる。
氷の公爵が、さらに凍りついたようだった。
「……あれは」
「今朝、届きました。オルステッド家からのようです」
「赤の封蝋……。祖母上か」
ジークハルト様は重い足取りでカウンターに近づき、封筒を手に取った。
魔獣討伐の時ですら見せないような、悲壮な覚悟を決めた顔をしている。
彼はペーパーナイフで封を切ると、中の便箋を取り出し、目を通した。
読み進めるにつれて、彼の眉間の皺が深くなっていく。
最後には、ハァーッ……と、この世の終わりのような深いため息をついた。
「……なんて書いてあったんですか?」
「『明日、到着する』と」
「明日!?」
早すぎる。
昨日の今日で、もう到着?
王都からこの辺境までは、馬車で一週間はかかるはずなのに。
「祖母上は魔法使いではないが、魔導具の扱いに長けている。おそらく、軍用の高速馬車を乗り継いできたのだろう。……あの人の執念深さを甘く見ていた」
ジークハルト様はガックリと椅子に座り込んだ。
あの最強の騎士団長が、ここまで消耗するなんて。
相手は一体、どんな人物なのだろうか。
「あの……ジークハルト様のお祖母様って、どんな方なんですか? 『氷の女帝』なんて呼ばれているとは聞きましたけど」
私が恐る恐る尋ねると、彼は遠い目をした。
「一言で言えば……『完璧主義の化身』だ」
彼が語ったエリーゼ・オルステッドという人物像は、想像以上に強烈だった。
先代公爵夫人として、若くして亡くなった夫の代わりに領地を取り仕切り、傾きかけていた財政を立て直した鉄の女。
幼くして両親を亡くしたジークハルト様を、厳しくも立派な公爵に育て上げた教育係。
王家に対しても物怖じせず意見し、国王陛下すらも「エリーゼ殿には頭が上がらん」とこぼすほどの重鎮。
「俺が剣を握るきっかけになったのも、幼い頃に祖母上に『男なら自分の身と領民くらい守ってみせよ』と、冬山に放り込まれたからだ」
「スパルタすぎませんか!?」
「食事作法、礼儀作法、帝王学……全てあの人に叩き込まれた。俺にとって彼女は、家族であると同時に、絶対的な支配者でもあった」
ジークハルト様は頭を抱えた。
「その祖母上が来る。……間違いなく、君を値踏みしにな」
手紙の文面には、こう書かれていたそうだ。
『由緒あるオルステッド家の次期当主が、どこの馬の骨とも知れぬ商売女に入れ込んでいると聞いた。私の目が黒いうちは、勝手な真似はさせない』
完全に敵対モードだ。
しかも、相手は私の「元公爵令嬢」という身分など歯牙にもかけないだろう。
彼女にとって重要なのは、「現在の私が公爵夫人に相応しいか」という一点のみ。
そして現状、私は「辺境の食堂の女将」だ。
「俺が盾になる。君には指一本触れさせない」
ジークハルト様は力強く言ってくれたけれど、その声にはわずかな震えがあった。
トラウマレベルで恐れている相手と戦おうとしてくれているのだ。
その気持ちは嬉しい。
でも、彼だけに戦わせるわけにはいかない。
私も、彼のパートナーになると決めたのだから。
「ジークハルト様。まずは、落ち着きましょう」
「しかし……」
「お腹、空いてますよね? そんな青い顔をしていては、勝てる戦も勝てませんよ」
私はニッコリと微笑み、彼の手から手紙を抜き取った。
「甘いものでも食べて、脳に糖分を補給しましょう。作戦会議はそれからです」
私は彼を席に座らせ、厨房へと向かった。
こんな時に必要なのは、複雑な料理じゃない。
一口食べれば誰もが笑顔になり、肩の力が抜けるような、優しくて甘い「おやつ」だ。
取り出したのは、少し日が経って硬くなりかけたバゲット。
本来ならスープに浸して食べるものだが、今日はこれを魔法で蘇らせる。
ボウルに卵を三つ割り入れる。
牛乳と生クリームをたっぷりと注ぎ、砂糖を多めに加える。
隠し味に、バニラエッセンスを数滴。
よく混ぜ合わせれば、黄金色の卵液の完成だ。
厚めに切ったバゲットを、この液に浸す。
普通なら一晩漬け込まないと中まで染みないけれど、ここはもちろん【時短魔法・浸透】を使う。
一瞬にして、バゲットはスポンジのように卵液を吸い込み、ずっしりと重くなる。
フライパンを弱火にかける。
バターをひとかけら落とす。
シュワァ……。
バターが溶けて泡立ち、芳醇な香りが広がる。
そこへ、卵液をたっぷりと含んだバゲットを並べる。
ジューーーッ。
優しい音が響く。
焦がさないように、じっくりと、蓋をして蒸し焼きにする。
中まで熱を通し、卵を固めることで、あの「プルプルふわふわ」の食感が生まれるのだ。
片面がきつね色になったら裏返す。
両面が焼けたら、一度皿に取り出す。
まだ終わりじゃない。
空いたフライパンに、グラニュー糖をさらさらと広げる。
火にかけると、砂糖が溶けて茶色いキャラメル状になっていく。
そこへ、輪切りにしたバナナと、追いバターを投入!
バチバチッ!
キャラメルがバナナに絡みつき、甘く香ばしい、少し焦げたような大人の香りが立ち上る。
「キャラメリゼ」だ。
焼き上がったフレンチトーストの上に、とろとろのキャラメルバナナを乗せる。
さらに、冷たいバニラアイスを添え、仕上げに粉砂糖とシナモンパウダーを振る。
ミントの葉を飾れば、カフェ風スイーツの完成。
「お待たせしました。『とろける黄金のフレンチトースト~キャラメルバナナ添え~』です」
テーブルに置くと、甘い香りが爆発的に広がった。
バター、バニラ、焦がし砂糖、シナモン。
幸せな匂いのオンパレードだ。
ジークハルト様だけでなく、ホールの隅で掃除をしていたニーナも、鼻をひくひくさせて寄ってきた。
「いいにおい……! これ、パンなの?」
「ええ。硬くなったパンが、魔法みたいに生まれ変わるのよ」
ジークハルト様は、フォークとナイフを手に取った。
ナイフを入れると、サクッという表面の音のあと、スッと抵抗なく沈んでいく。
切り分けた一片に、キャラメルバナナと、溶けかけのアイスを乗せて口へ運ぶ。
「…………」
彼の目が、ゆっくりと閉じられた。
強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのがわかる。
口の中で、バゲットが解けていく。
硬かったはずのパンが、まるでプリンのようにトロトロになっている。
卵とミルクの優しい甘さがじゅわりと溢れ出し、そこへキャラメルのほろ苦さとバナナの濃厚な甘みが絡みつく。
熱々のトーストと、冷たいアイスの温度差。
シナモンの香りが、甘ったるさを引き締め、上品な余韻を残す。
「……甘い。でも、優しい味だ」
「フレンチトーストは、元々硬くなったパンを美味しく食べるための知恵なんです。どんなに厳しい状況でも、工夫次第で甘くて幸せな時間に変えられるんですよ」
私が伝えたかったメッセージを、彼はしっかりと受け取ってくれたようだ。
彼は一口食べるごとに、表情が柔らかくなっていった。
「……美味い。不安で冷えていた腹の底が、温かいもので満たされていくようだ」
ニーナも横で、私があげた小さなフレンチトーストを頬張っている。
「ふわふわ~! あまあま~! おねえちゃん天才!」
「ふふ、ありがとう」
完食したジークハルト様は、最後にコーヒーを飲み干すと、真っ直ぐな瞳で私を見た。
その目には、もう先ほどのような怯えはない。
「レティシア。……俺は、逃げない。君との未来を認めてもらうために、祖母上と正面から向き合う」
「はい。私も一緒に戦います」
「いや、君は……」
「逃げませんよ。だって、これから家族になるんでしょう?」
私が左手の婚約指輪を見せると、彼はハッとして、それから嬉しそうに破顔した。
「そうだな。……君は強いな」
「強くないと、辺境で飲食店なんてやってられませんから」
私たちは笑い合った。
最強の「氷の女帝」が来る。
でも、きっと大丈夫。
美味しい料理と、この人の隣にいるという覚悟があれば、どんな相手だって「おもてなし」してみせる。
◇
そして、翌日。
『陽だまり亭』の前の通りが、異様な静けさに包まれた。
小鳥のさえずりすら止まり、風も息を潜めたかのようだった。
通りの向こうから、一台の馬車が現れた。
漆黒の車体に、銀の装飾が施された、巨大で威圧感のある馬車。
それを引くのは、四頭の黒馬。
護衛の騎士たちすらも、緊張で顔を強張らせている。
馬車が店の前で止まる。
重厚な扉が開かれた。
コツン、という杖の音と共に降り立ったのは、一人の老婦人だった。
背筋は定規が入っているかのように伸び、白髪は一糸乱れぬシニヨンにまとめられている。
着ているドレスは深い藍色で、無駄な装飾はないが、最高級の生地であることが一目でわかる。
そして、その顔。
刻まれた皺の一本一本が威厳を放ち、片眼鏡の奥にある瞳は、ジークハルト様と同じ、いやそれ以上に冷たいブルーグレーだった。
「……ここが、愚かな孫を惑わしている店か」
彼女が一言呟くだけで、周囲の気温が五度は下がった気がした。
店の中にいたニーナが、「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて私の後ろに隠れる。
氷の女帝、エリーゼ・オルステッド。
彼女の視線が、店先に立つ私を射抜いた。
まるで、値踏みをするように。
「はじめまして、オルステッド様」
私は震える膝をドレスで隠し、精一杯の笑顔でカーテシーをした。
「ようこそ、『陽だまり亭』へ。お待ちしておりました」
さあ、ゴングは鳴った。




