最終話 氷の公爵様の融解と、恋するフォンダンショコラ
嵐のような騒動が去った店内には、穏やかな静寂と、まだ微かに残るクリームシチューの優しい香りが漂っていた。
カイル殿下が連行されていった扉は固く閉ざされ、もう二度と、私の平穏を脅かす者が現れないことを物語っているようだった。
「……レティシア」
テーブル越しに、ジークハルト様が私を見つめている。
先ほどまで王太子を圧倒していた覇気は消え、その瞳にはどこか少年のように純粋で、それでいて熱っぽい光が揺らめいていた。
私は、高鳴る心臓をエプロンの上から押さえながら、彼の言葉を待った。
「障害は消えた。……改めて、君に伝えたいことがある」
彼は一度言葉を切り、テーブルの上に置かれた自身の手を、ぎゅっと握りしめた。
氷の公爵ともあろうお方が、緊張している。
その事実が、私の緊張をさらに加速させる。
「俺は……不器用な男だ。剣を振ることと、魔獣を狩ることしか知らずに生きてきた。食事など、ただの燃料補給だとさえ思っていた」
彼は、食べ終えたばかりのパンシチューの皿に視線を落とした。
「だが、君に出会って変わった。君の料理が、凍りついていた俺の味覚を、そして心を溶かしてくれた」
「ジークハルト様……」
「最初は、君の『料理』に惚れ込んだのだと思っていた。だが、違う」
彼は顔を上げ、ブルーグレーの瞳で私を射抜いた。
逃げ場なんて、どこにもない。
「俺が欲しているのは、料理だけじゃない。……その料理を作ってくれる、君自身だ」
ドクンッ。
心臓が大きく跳ねた。
それは、明確な愛の告白だった。
「専属料理人になってくれ」でも「店ごと抱え込みたい」でもない。
レティシアという人間を求めているという、混じり気のない言葉。
「レティシア。君を愛している。……俺の妻になってくれないか」
直球すぎるプロポーズ。
頭が真っ白になった。
嬉しい。どうしようもなく嬉しいけれど、同時に私の中の臆病な部分が顔を出す。
「……でも、私は婚約破棄された傷物ですよ? それに、今はただの平民で、食堂の女将です。公爵様のお相手なんて……」
「そんな肩書きに何の意味がある?」
彼は立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して、私の頬を両手で包み込んだ。
大きくて、温かくて、少しざらついた武人の手。
「俺が見ているのは、君だ。王都の腐った貴族社会で懸命に働き、理不尽に追放されてもなお、この辺境で笑顔で鍋を振るう、強く美しい君だ」
親指が、私の頬を優しく撫でる。
「それに、俺の胃袋はもう君なしでは機能しない。……責任を取ってくれると言っただろう?」
「それは……言いましたけど」
「なら、観念してくれ。俺は一度噛み付いたら離さないタチなんだ」
悪戯っぽく、けれど最高に色気のある笑みを向けられて、私の完敗だった。
これ以上拒む理由なんて、どこにもない。
だって、私もとっくに――。
「……食いしん坊な公爵様ですね」
私は涙が滲むのをこらえて、微笑んだ。
「食費、高くつきますよ?」
「望むところだ。俺の財産は全て君の食材費にしてくれて構わない」
「ふふっ。……わかりました。謹んで、お受けいたします」
私が頷くと、ジークハルト様は心底安堵したように息を吐き、そのままテーブル越しに私の額にキスを落とした。
触れた唇の熱さが、脳天まで響く。
シチューよりも、焼きたてのパンよりも熱い、愛の熱量。
こうして、私たちは「店主と常連客」から、「婚約者同士」へとクラスチェンジを果たしたのだった。
◇
それから数日後。
『陽だまり亭』は臨時休業の札を掲げていた。
とは言っても、何かトラブルがあったわけではない。
カイル殿下とミリアの件が片付き、王都とのゴタゴタが完全に収束したことを祝うための「内輪のパーティー」を開くことになったのだ。
招待客は、もちろんジークハルト様ただ一人。
ちなみに王都の状況だが、ジークハルト様の予想通り、悲惨なことになっているらしい。
北からの物資が止まったことで食糧難は加速し、ついに民衆の不満が爆発。
国王陛下は事態を重く見て、カイル殿下を廃嫡し、幽閉処分にしたとのことだ。
聖女ミリアも詐欺罪で修道院送り。
彼らの末路を聞いても、不思議と心は痛まなかった。
因果応報。
それよりも、今の私には、これから来る大切な人のために何を作るかの方が重要だ。
「メインディッシュは奮発してステーキにしたし……デザートはどうしようかな」
厨房で腕組みをして悩む。
今日は特別な日だ。
二人の門出を祝うような、甘くて、少し大人で、とびきり幸せな気分になれるドルチェ。
ジークハルト様は甘いものが苦手だったはずだが、私の作ったスフレパンケーキ以来、「君の作る菓子なら別腹だ」と甘党に覚醒しつつある。
「……よし。あれを作ろう」
私は冷蔵庫から、とっておきの製菓用チョコレート(カカオ分高めのビター)を取り出した。
今の私たちの状況にぴったりの、熱い想いが溶け出すケーキ。
『フォンダンショコラ』だ。
まずはチョコレートと、無塩バターをボウルに入れ、湯煎にかける。
ゆっくりと、丁寧に。
カカオの芳醇でほろ苦い香りと、バターの濃厚な乳臭さが混ざり合い、艶やかな黒い液体へと変わっていく。
これだけでも舐めたい衝動に駆られるが、我慢。
別のボウルで卵と砂糖を白っぽくなるまで泡立てる。
そこへ、溶かしたチョコレートバターを投入。
ゴムベラで艶が出るまで混ぜ合わせる。
ここで重要なのが、小麦粉の量だ。
極限まで少なくする。
そうすることで、焼いた時に外側はケーキ、中身はとろとろのクリーム状という魔法のような食感が生まれるのだ。
型にバターを塗り、カカオパウダーをはたいておく。
そこへ生地を流し込み、冷蔵庫で冷やし固める。
この「冷やす」工程が、焼き加減の明暗を分ける。
中心部まで火を通さず、周りだけを焼き固めるための秘訣だ。
その間に、付け合わせの準備。
冷たいバニラアイスクリーム。
そして、酸味の効いたラズベリーソース。
チョコレートの重厚さを引き立てる名脇役たちだ。
夕刻。
約束の時間に合わせて、オーブンを予熱する。
温度は高めの二百度。
短時間で一気に焼き上げるのが勝負だ。
コン、コン。
裏口のドアがノックされた。
ジークハルト様だ。
「いらっしゃいませ。……ふふ、今日はまた一段と素敵ですね」
出迎えた私は、思わず見惚れてしまった。
今日の彼は、堅苦しい正装でも騎士服でもなく、深い紺色のシャツにグレーのスラックスという、洗練された大人のデート服だった。
髪も少しセットされていて、色気が増している。
「……君こそ。エプロンを外した姿を見るのは新鮮だ」
彼もまた、少し照れくさそうに私を見た。
私は今日、淡い水色のワンピースを着ている。
料理中は汚れるから着られない、お気に入りの服だ。
店内の照明を落とし、キャンドルの明かりだけでディナーが始まった。
前菜、スープ、メインのステーキ。
どれも彼のお気に入りで、私たちは会話を楽しみながら、ゆっくりと食事を進めた。
そして、いよいよデザートの時間。
私は席を立ち、オーブンへ向かった。
チーン♪
焼き上がりの合図。
扉を開けると、濃厚でビターなチョコレートの香りが、熱波と共に押し寄せてきた。
型から慎重に取り出す。
ぷっくりと膨らんだ表面は、少しひび割れている。
これこそが、中がトロトロである証拠だ。
白い大きなお皿の中央に、黒いケーキを乗せる。
隣にバニラアイスを添え、真っ赤なラズベリーソースを芸術的に描く。
仕上げに粉砂糖を雪のように降らせ、ミントの葉を飾れば――。
「お待たせしました。『恋する・熱々フォンダンショコラ』です」
テーブルに置くと、甘く危険な香りが二人の間を満たした。
ジークハルト様が目を丸くする。
「……ただのチョコレートケーキに見えるが、熱いのか?」
「はい。冷めないうちに、真ん中にナイフを入れてみてください」
彼は頷き、ナイフをケーキの中心に当てた。
サクッ。
表面の薄い層が割れる感触。
その直後だった。
とろぉぉぉぉぉぉぉぉッ……。
割れ目から、黒いマグマのようなチョコレートソースが、溢れ出してきたのだ。
湯気を上げながら、ゆっくりとお皿に広がり、冷たいバニラアイスへと迫っていく。
「な……ッ!?」
ジークハルト様が息を呑む。
「中が、溶けている……!?」
「外はふんわりケーキ、中は熱々の生チョコソースです。アイスと一緒に食べてみてください」
彼はスプーンですくい上げた。
熱いケーキと、冷たいアイス、そして濃厚なソースが混ざり合う、最高の一口を。
パクッ。
「――――ッ!!」
言葉を失った彼の表情が、その味の凄まじさを物語っていた。
口に入れた瞬間、熱いチョコレートソースが舌に絡みつく。
ビターな苦味と、濃厚な甘み。
そこへ、ひんやりとしたバニラアイスが溶け出し、温度差のコントラストが口の中で踊り狂う。
温かいと冷たい。
苦いと甘い。
全ての感覚が揺さぶられる、官能的ですらある味わい。
ラズベリーソースの酸味が、後味をキュッと引き締め、次の一口を誘う。
「……すごい」
彼は夢遊病者のように呟き、二口、三口と止まらなくなった。
氷の公爵様が、今は完全にチョコレートの熱に浮かされている。
「こんな菓子は初めてだ。……まるで魔法だ」
「ふふ、私の『好き』を詰め込んだ魔法ですよ」
私が意味深に言うと、彼は手を止めてこちらを見た。
口の端に、少しチョコがついている。
あの完璧超人の公爵様が、こんなに無防備な顔を見せるなんて。
「……レティシア」
「はい」
「美味い。……今まで食ったものの中で、一番甘くて、熱い」
彼はナプキンで口を拭うと、真剣な瞳で言った。
「まるで、君への想いのようだ」
――ブッ!!
私が飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
な、なんて歯の浮くようなセリフを真顔で!
この人、恋愛に関してはむっつりだと思っていたけど、タガが外れると天然ジゴロになるタイプだったのか。
「……そ、それは光栄です」
「顔が赤いぞ」
「誰のせいですか、誰の!」
彼が楽しそうに笑い、私もつられて笑った。
キャンドルの灯りが揺れる。
窓の外では雪が降っているけれど、この店内は、そして私たちの心は、暖炉の火よりも熱く燃えていた。
フォンダンショコラを食べ終えた後、私たちは並んでコーヒーを飲んだ。
手と手が触れ合い、自然と指を絡ませる。
「……結婚式は、春にしようか」
彼が唐突に言った。
「雪が溶けて、花が咲く頃に。この店の中庭で、身内だけでやるのはどうだ? 料理はもちろん、君の監修で」
「私の監修って……花嫁が厨房に立つんですか?」
「君ならやりかねないだろう? それに、俺は君の作ったウェディングケーキが食べたい」
確かに。
自分の結婚式の料理を他人に任せるなんて、私のプライドが許さないかもしれない。
最高の食材で、最高のフルコースを作って、みんなを驚かせたい。
「……いいですね。やりましょう、最高の結婚式を」
「ああ。楽しみにしている」
ジークハルト様が私の肩に頭を預けてきた。
彼の銀髪が頬をくすぐる。
幸せすぎて、なんだか夢を見ているようだ。
王都を追放され、絶望の淵にいた私。
でも、勇気を出してフライパンを握り、自分の足で歩き出したからこそ、この幸せな場所にたどり着けた。
美味しいご飯と、大切な人。
それさえあれば、人生はいつだって最高に輝くのだ。
「……おかわり、あるか?」
「えっ、まだ食べるんですか!?」
「君と一緒なら、いくらでも入る気がする」
呆れる私と、悪びれない公爵様。
『陽だまり亭』の夜は、甘い甘いチョコレートの香りと共に、どこまでも更けていくのだった。
◇
数ヶ月後。
雪解けの季節を迎えた辺境ベルクにて。
「本日のおすすめはー! 公爵夫人特製、春野菜の彩りパスタでーす!」
元気に呼び込みをする私の指には、シンプルな銀の指輪が光っている。
厨房の奥では、エプロン姿のジークハルト様が、不器用ながらも皿洗いを手伝ってくれている姿があった。
「おいレティシア、この皿の汚れが落ちにくいぞ」
「あーっ! ジーク様、洗剤使いすぎです!」
ドタバタと騒がしく、けれど笑顔の絶えない日常。
『婚約破棄されたので、辺境で『ご飯が美味しい喫茶店』はじめます。』
私の第二の人生は、どうやら大成功だったようです。
これからも、美味しいご飯でみんなを、そして愛する旦那様を幸せにしていきます!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
★~★★★★★の段階で評価していただけると、モチベーション爆上がりです!
第2章も考え中ですので、ブックマークしてお待ち下さいー!!
ぜひよろしくお願いいたします!




