第1話 こんにちは至高のステーキ丼
「レティシア・ローズブレイド! 貴様のような嫉妬深く、腹黒い女との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王城の大広間。
シャンデリアの煌びやかな光が降り注ぐ中、王太子カイル殿下のヒステリックな声が響き渡った。
音楽は止まり、ダンスを楽しんでいた貴族たちは一斉にこちらを振り返る。
彼らの視線の先には、勝ち誇った顔のカイル殿下と、その腕にしなだれかかる聖女ミリア。
そして、扇を閉じて静かに佇む私――公爵令嬢レティシアの姿があった。
「……殿下。理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
私は努めて冷静な声を出す。
内心でガッツポーズを取りたいのを、必死にこらえながら。
(き、きたぁぁぁぁぁぁぁッ!! やっと来た! 待ちに待った婚約破棄イベントォォォッ!)
表情筋を総動員して「悲壮なショックを受けた令嬢」を演じるが、心の中はお祭り騒ぎだ。
前世で日本の洋食屋の娘だった記憶を持つ私にとって、この世界での「王太子妃」という激務は地獄でしかなかったからだ。
「しらばっくれるな! ミリアを階段から突き落とそうとしたり、彼女のティーカップに毒を盛ろうとしたりしただろう! 聖女である彼女の存在が邪魔だったからな!」
カイル殿下が顔を真っ赤にして叫ぶ。
隣にいるミリア男爵令嬢が、嘘泣きをしながら殿下の胸に顔を埋めた。
「レティシア様……私、仲良くしたかったですぅ……」
「ああ、可哀想なミリア。僕が必ず守るからね」
……ええと。
ツッコミどころが多すぎて、どこから手をつければいいのか。
まず、階段の一件。あれはミリア様が自分で足をもつれさせたのを、私が風魔法で助けたのだ。
毒の一件。あれは彼女が「ダイエットにいい」と言って庭の雑草を茶葉にしようとしたのを、私が全力で止めたのだ。
そもそも、私はここ数年、あなたの尻拭いに忙殺されていたのですよ、殿下。
書類仕事の嫌いな殿下に代わって決裁を行い、聖女の祈りが足りずに弱まった結界へ魔力を供給し、さらには外交の調整まで。
朝は五時起き、夜は二時寝。
ご飯をゆっくり味わう時間すらない、ブラック企業も真っ青な労働環境だったのだ。
(でも、反論はしません。だって、ここで冤罪を受け入れれば……自由になれるから!)
「……殿下がそう仰るのであれば、私の不徳の致すところです」
私が静かに頭を下げると、周囲がざわめいた。
まさか反論しないとは思わなかったのだろう。カイル殿下も一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと口角を上げた。
「罪を認めるのだな! ならば罰として、貴様を王都から追放する! 北の果て、辺境の街ベルクへ行き、そこで生涯反省して過ごすがいい!」
ベルク!
その地名を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
北の辺境ベルク。
そこは王都の人々からすれば「魔獣が出る危険な田舎」「寒くて何もない最果ての地」という認識だ。
だからこそ、殿下は私を苦しめるためにそこを選んだのだろう。
だが、私は知っている。
私の持つ固有スキル【鑑定】によれば、ベルクは――
――脂の乗った極上の「北行牛」の産地であり。
――甘みの強い「高原野菜」の宝庫であり。
――清らかな水と、濃厚なミルクとチーズの楽園であると!
(ご褒美じゃないですかぁぁぁッ!)
膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか「絶望したふり」に見せかける。
「……謹んで、お受けいたします」
震える声(笑いを堪えているだけ)でそう告げると、私は優雅にカーテシーをした。
さようなら、過労死寸前の日々。
さようなら、味のしない冷めた食事が並ぶ王城の晩餐会。
明日からは、私の好きなものを、好きなだけ作って食べるんだ。
◇
翌朝。
王城からの「即刻出ていけ」という命令に従い、私は最小限の荷物を持って馬車に乗り込んだ。
実家の公爵家にも迷惑はかけられないので、「廃嫡」の手続きも済ませてある。
手切れ金代わりに渡されたのは、辺境ベルクにある「元商館の廃屋」の権利書と、わずかな路銀だけ。
普通なら絶望して泣き崩れるシチュエーションだ。
けれど、馬車に揺られる私の顔は、かつてないほど晴れやかだった。
「ふふっ、ふふふふっ……」
御者さんが気味悪そうにこちらを見ているが気にしない。
私の膝の上には、ショルダーバッグに見せかけた愛用のマジックバッグがある。
この中には、私のもう一つのチートスキル【保存魔法】によって、最高の状態で時間を止めた食材たちが眠っているのだ。
王都の市場でこっそり買い集めていたスパイス、調理器具、そして――
「早く着かないかなぁ。お腹すいたなぁ」
王都から馬車を乗り継ぐこと五日。
景色は徐々に石造りの無機質な街並みから、雄大な山々と深い緑へと変わっていった。
そして、ついに。
「お嬢さん、着いたよ。ここが『ベルク』だ」
馬車が止まる。
降り立った場所は、石畳がところどころひび割れた、古びた街の広場だった。
建物は木とレンガで作られていて、どこか温かみがある。空気は澄んでいて冷たく、深呼吸をすると肺の中が洗われるようだ。
「ここが……私の新しい拠点」
地図を頼りに、譲り受けた物件へと向かう。
街外れの小高い丘の上に、その建物はあった。
元は商館だったという二階建ての建物。
壁の塗装は剥げ、庭は雑草だらけ。窓ガラスも何枚か割れている。
まさに「幽霊屋敷」という風情だ。
「……うん、ボロボロね。でも!」
私は建物の前に立ち、両手を広げた。
スキル発動。
「【生活魔法・ハイパークリーン】!」
シュオオォォォッ!
私の体から放たれた魔力の風が、一瞬にして建物を包み込む。
積もった埃は消え去り、床は磨き上げられたように輝き、窓の曇りは一点の曇りもなく透明になる。
戦闘には何の役にも立たないが、掃除や調理においては最強の魔法だ。
「よし、とりあえず一階の厨房と、二階の寝室は確保できたわね」
中に入り、厨房を確認する。
古いけれど、しっかりとした石造りの竈がある。調理台も広くて使いやすそうだ。
グゥゥゥ……。
私の腹の虫が、盛大に鳴いた。
そういえば、王都を出てからまともな食事をしていなかった。干し肉と硬いパンばかりで、私の舌も胃袋も限界を迎えている。
「……お祝い、しちゃおうかな」
まだ家具もないガランとした厨房。
けれど、私には魔法の収納がある。
取り出したのは、愛用のフライパンと、魔石コンロ。
そして――
ドンッ、と調理台に置いたのは、道中の村で手に入れたばかりの『厚切りロース肉』だ。
赤身と脂身のバランスが美しい、分厚い一枚肉。
「記念すべき第一食目は……これしかないわね」
私はエプロンをきゅっと締め直す。
さあ、開店準備(自分専用)だ。
まずは肉の筋を丁寧に切り、塩と胡椒を高い位置からパラパラと振る。
これだけで肉の色気が増すから不思議だ。
熱したフライパンに牛脂を滑らせる。
チリチリ、と脂が溶け出す音。甘い香りが立ち上る。
「いっけぇ……!」
ジュワアアァァァァァッ!!
肉を投入した瞬間、厨房に暴力的なまでの「焼ける音」が響き渡った。
これだ。この音だ。
王城の厨房では、上品さが求められて、こんな風に豪快に肉を焼くことなんて許されなかった。
香ばしい煙と共に、肉の表面がこんがりとした狐色に変わっていく。
裏返せば、さらに激しい音が鼓膜を揺らす。
肉汁が溢れ出し、フライパンの上で踊っている。
「焼き加減はミディアムレア。余熱で火を通している間に……ソース作り!」
肉を取り出した後のフライパン。ここには肉の旨味が凝縮された脂が残っている。
そこに、すりおろした玉ねぎとニンニクを投入。
ジュワーッと水分が飛び、香りが爆発する。
醤油、みりん、そして隠し味の赤ワインを少々。
とろみがつくまで煮詰めたら、最後にバターをひとかけら落とす。
バターが黄金色に溶けていき、醤油の焦げた香りと混ざり合う。
暴力的なまでの食欲をそそる、「ガリバタ醤油ソース」の完成だ。
あらかじめ炊いておいた(保存魔法でほかほかの)白米を、深めの器に盛る。
その上に、一口大にカットしたステーキを花びらのように並べ……。
仕上げに、特製ソースをたっぷりと回しかける。
トロォ……ッ。
褐色のソースが肉の断面を艶やかにコーティングし、ご飯へと染み込んでいく。
最後に万能ねぎをパラリ、と散らせば。
「完成! 『自由への祝砲・特製ガリバタステーキ丼』!」
誰もいない厨房で、私は高らかに宣言した。
照明は魔道具の薄明かりだけ。テーブルもないから、調理台の端っこで立ったまま食べる。
いわゆる「立ち食い」だ。
でも、今の私にはこれが最高の贅沢。
「いただきます!」
フォークで肉と、タレの染みたご飯を一緒にすくい上げる。
大きな口を開けて、パクリ。
――んんんっ!!
噛んだ瞬間、口の中が肉汁の洪水になった。
カリッと焼かれた表面の香ばしさ。その奥から溢れ出す、肉の濃厚な旨味。
それが、ニンニクとバターの効いた甘辛いソースと絡み合い、脳髄を直撃する。
(おいしい……ッ! おいしいよぉぉ!)
噛みしめるたびに、幸せが広がる。
脂は甘く、しつこさなんて微塵もない。
そこへ間髪入れずに白米を追いかける。タレと肉汁を吸ったご飯は、それ単体でも主役級の美味しさだ。
ハフハフと熱い息を吐きながら、無心でかきこむ。
王城での堅苦しいマナーも、冷たい視線も、ここにはない。
あるのは、私と、この最高に美味しいお肉だけ。
「……幸せ」
自然と涙が滲んだ。
冤罪をかけられた悔しさも、婚約破棄された惨めさも、この濃厚な肉の味と一緒に胃袋に収まって昇華されていく気がする。
あっという間に完食。
最後に残った米粒一つまで綺麗に平らげ、私は大きく息を吐いた。
「ごちそうさまでした。……よし!」
お腹が満たされると、力がみなぎってくる。
私は空っぽになった丼を置いて、窓の外に広がるベルクの街並みを見下ろした。
今はまだ、このボロボロの屋敷に一人ぼっち。
でも、ここから始まるのだ。
私の夢だった場所。
美味しいご飯でお客さんを笑顔にする、私だけの小さなお城。
「見てなさい、カイル殿下。絶対に後悔させてやるんだから」
それは復讐の言葉だけれど、私の口元は笑っていた。
だって、この街にはこんなに美味しい食材があるのだから。




