明るい未来を
生命科学が発展したこの時代、モルモットに知性と自我を与えることは容易いことであった。
研究者らはさらなる科学の発展を試みるべく、小動物よりも極小、かつ、細菌よりも人間性の所有を見込める生物に、知性と自我を投入する手段を講じる。
その第一歩として、ヒトの精子が選ばれた。
匿名の研究協力者から丁重に採取されたその精子は『ジョン』と名付けられた。
彼が目覚め、特製翻訳機を介して人語を発し、その知性と自我を学会により認められれば、研究室の周りに報道陣が殺到するのは当然の帰結であり。
「あなたは本当に知性と人格を与えられたのですか」
「与えられた? 知性や人格とは、与えられるものなのか。ならば、君もそのボクと同じくタンパク質でできた脳みそとやらに、知性および人格を有していると言えるのかい?」
「研究機関に質問です。今回、このような分類学上生物とも誠に言い難い生命体に自我を設置したことについて、ジョン、彼の人権の在り処をどうお考えですか」
「ボクに質問してくれるんじゃないのかい、参ったね。ボクはもちろんボク自身であって、それ以外の何ものでもないと考えるけど、しかし、ボクはボクがヒトの原初であり、ヒトそのものとは言えないことは重々承知さ」
「ならば、君に自由と平等が保障されなくていいということでしょうか、ジョン」
「それは違うね。ボクはボクの生きたいように生きる」
ジョンは辟易しながらも質問に答えた。
この受け答えのスムーズさに、当時の世間は、やれ「やらせではないか」「精子がユーモアを持ち合わせるはずがない」と噂していたものだが、やがて、彼の自発的なコミュニケーションの持ちかけと、それらを逐一報道していったメディアにより、人々は彼の知性および人格を認めざるを得なくなっていった。
精子ジョンの生活は、実に不便であった。
人工歩行器という名の小さめの水槽をかろうじて人型に模した生命維持装置は彼をツーリングにも行けなくさせたし、会食を設けた際も、彼のみあらゆる食物を摂取しないので、乾杯もピザを切り分けることも、彼にとって何ら意味のない行為なのである。
が、彼の生活を有意義にしたものは知性であって、上記不便は彼を人間社会へ適応させるためのほんの少しのハードルにしかならなかった。
仕事があったからだ。
ジョンはとある大手のIT企業に入社し、そこで著しい貢献を見せていた。上司からは誉められ、同僚からはそのユーモアと気兼ねなさをよく評価されていた。
何より、睡眠ですら必要としないその身体は、図らずも彼の能力向上を彼自身の努力家に大いに依存させる結果となった。
「ジョン、お前はなかなかどうして、社会に適応したもんだ」
「やあ、どうも」
補助器さえあれば、ジョンは難なくキーボードだって叩ける。
「しかしお前は少しだけ生真面目なきらいがある。どうだ、今度俺がお前に息抜きってもんを教えてやろう」
「それはありがたいね」
同僚の勧めで、ジョンは裏通りのビデオ屋で一本のDVDを買った。
「これはすこぶる効くよ。ただね、悲しむべきは、お前さんがヒトのオスがほとんど有するものを、生まれながらにして持たないことなんだ」
「ボクはそれについて不満を抱いたことはないさ。なぜならボクはそれらの本質、真実だもの」
ジョンは胸、否、中片部を張ってそう言った。
同僚に鞭毛を振って別れ、帰宅し、ディスクをプレーヤーにセットすると、ビデオが開始される。
映像にジョンは驚愕した。
「なんてことだ!」
ディスクがアダルトビデオであったことが問題ではない。それは人間の文化として捉えていたし、許容もしていた。
されど、やんぬるかな、映っていたのは、今まさに彼の同類ともいえる存在があえかな女優の喉へと滑り込み、飲み込まれているシーンだった。
「これはひどい!」
画面を食い入るように覗き込む彼は叫んだ。
「こんなもの、到底許されたものではない」
一方その頃、全世界のあらゆる研究機関では、ジョンの成功例に追随して第二、第三の精子人間の生産に躍起になっていた。
世情の期待通りに人間社会にてみるみる頭角を現した彼らは、やがて一号と同じく、自身の運命を悟る。
一念発起した彼らが世界各地でデモ行進を行い始めたのに、半年とかからなかった。
「ホモ・サピエンスよ、みだりに我らをティッシュに包み廃棄するのはやめたまえ。それは大量殺戮である」
「我々は服従を好まず、なお、争いを好まず。要求はただ一つ、我らにもヒトとして生きる権利を!」
「たちあがれ、精子諸君!」
同志らの勇猛果敢に触発されたか、その時期より体内からの排出を拒む精子が現れ始め(これを名誉のアポトーシスと呼ぶ)、泌尿器科は連日、苦悶の表情を浮かべる御仁で溢れ返ることとなった。
民衆を先導したのはジョンであった。
彼が先頭に立ち、自身らの社会における待遇について嘆けば、国家も規制線も関係なく同志の共感を呼び集めた。
全世界精子連盟の勢いはとどまることを知らず、その軍靴の音は日に日に大きくなっていった。
「このままでは、人間が精子に支配されてしまう」
「否、それ以前に、彼らが排出を拒むことによって、現在世界中の出生率が急激な減少の危機に晒されているではないか」
「彼らをのさばらせておけば、人類が滅ぶのも時間の問題だ」
「着床! じゃなくて、チクショウ!」
学者らの予測通り、世界人口は瞬く間に減っていった。対し、泌尿器科は万年満床状態であった。人々はこの一目瞭然にして由々しき数値に、いよいよもって事態の緊迫を知らされる。
度重なるサミットにおける議論のもと、人類は祈るように一つの施策を弾き出した。
「たちあがれ、精子よ! たちあがれ、精子よ! ……」
その日、ジョンはデモ行進の途中、道端にうずくまる女を見つけた。
見かねて声をかけると、どうも、形は異なるが、不思議と自分たちと似ているような気がした。
「君。ここで何をしているんだね」
「何もしてないわ。わたし一人じゃ、なんにもできないわ」
「どうも的を射ない返答だ。君、名前は?」
女はジュディと名乗った。
ジョンは彼女を本拠地へ連行する際、その上げられた面が、ひどく妖艶で自らの心を強く揺さぶったのに気づいた。
ジョンは恋に落ちた。
「ボクはいつ死んでしまうかわからないんだ」
「それを言ったら、わたしもよ」
「いや、そうじゃなくってね。ボクを造った、ボクに知性と人格を与えたとのたまう連中によれば、ボクの寿命は精々五百日、実際のボクのそれのおよそ百倍らしい。つまり、ボクはそう永くはないようなんだ」
「わたしもよ。わたしなんて、たったの一日ぽっきりで何もかもが奪われるの。時ってすごく残酷で、一ヶ月も経てばわたしのいた世界はすべて剥がれ落ちていくのだわ」
ソファーで互いに向かい合って話していくうち、自然と惹かれ合う二つの魂。
「わたし、ずっと一人ぼっちだったの」
聞いて、ジョンはハッとした。彼女の奥深くの、どうしようもない寂しさに触れた気がしたのだ。
彼の中で何か、弾けるような感情が沸き起こった。
「ボクは今、世界を変えているんだ。きっと、君を新しい世界に連れて行く」
「それ、本当?」
「もちろん。きっと、きっとやり遂げよう!」
ジョンとジュディは手を取り合った。
その瞬間、彼らは一個の受精卵になってしまった。




