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『魂の階(きざはし)』


 理性は、思索の果てに「論理では説明できない既視感」に悩む。

 意志は、戦場の夢の中で「知らぬ誰かの涙」を見る。

 欲望は、酔いの果てに「自分の名を呼ぶ声」を聞く。

三つの魂はそれぞれ異なる時代・異なる世界に生きている。

しかし、その夜だけは、ひとつの夢が彼らを包んだ。

——「わたしは、あなたたちだ。」


 理性の魂は目を開ける。

夢の中で見たのは、見知らぬ男が手を差し伸べる光景。

その瞳の奥には、力強い炎と、揺らめく欲の色があった。


 意志の魂は、戦場で胸騒ぎを覚える。

敵も味方もなく、ただ心の奥で、

“もう一人の自分が悲しんでいる”という確信だけが燃えていた。


 欲望の魂は、目覚めたあとも泣いていた。

理由もなく、胸が空っぽになっていた。

満たされるたびに失っていく——

その循環が、自分の欠片を探す旅だったのだと気づき始める。


 夜が明ける。

それぞれの朝が訪れ、それぞれの世界で彼らはまた歩き出す。

だが心のどこかで、誰もが“もう一人の自分”の存在を知っていた。


 理性は言葉で、意志は行動で、欲望は感情で——

互いを知らずに、互いを求めはじめる。


やがて三つの魂は、

それぞれの道の果てで再び交わるために、

静かに運命を動かし始める。


______________________________________


◆理性

 夜が深まるほどに、彼は思考の海へ沈んでいった。

窓辺に置かれたランプの灯が、積み上げられた書物の影を長く伸ばしている。

紙の擦れる音と、ペンのかすかな走りだけが、静寂の部屋を満たしていた。


論理。

秩序。

真理。


 その三つの言葉が、彼の生の支柱だった。

思考は彼にとって呼吸のようなものであり、考えることをやめれば、存在の輪郭が曖昧になる気がしていた。

だが最近、言葉では説明のつかない感覚が、思考の隙間に差し込んでくる。

たとえば、夜明け前の冷気に触れた時の懐かしさ。

夢の中で誰かが笑う声。

そして、胸の奥に広がる、理由のない痛み。


 ある夜、彼は机に突っ伏したまま、眠りに落ちた。

夢の中で、広い原野に立っていた。

風が吹くたび、草原が波のように揺れる。

その中央に、黒い影がひとつ、ゆっくりと歩いていた。


 近づくと、それは鎧を纏った男だった。

顔は見えない。

だが、彼の歩みには確かな意志があった。

彼は戦いの中を生きてきた者のように、静かに前を見据えていた。


 声をかけようとしたその時、別の影が現れた。

赤い衣をまとい、唇に微笑を浮かべた女。

その瞳には、夜のような深い欲があった。


三人は言葉を交わさなかった。

ただ、風が吹き抜ける。

そして、彼の胸の中で、何かが震えた。


——これは、わたしだ。


 その瞬間、夢は砕け、光の粒となって消えた。

目を覚ますと、窓の外には夜明けの気配があった。

冷たい空気を吸い込みながら、彼は手帳を開く。

そこに震える文字で、こう書き残した。


「理性は、何かを思い出している。

しかし、それが何かを説明できない。」


 ペンを置く。

彼はただ静かに目を閉じた。

胸の奥で、微かな声が聞こえた気がした。

「まだ、終わっていない」と。


そして彼は、次の論文の冒頭にこう記す。


「もし魂が三つに裂かれたとしても、それらは再び一つへと還ろうとする。

それは理性の導きによるのではなく、記憶の深みに眠る“共鳴”によってだ。」


 朝の光が机を照らした。

理性の魂は、初めて“思考では届かない何か”の存在を知った。


______________________________________


◆意志

 夜明け前の空は、まだ闇の名残を留めていた。

焚き火の炎が、剣の刃に反射して赤く揺れる。

風が砂を巻き上げ、遠くで獣の声がした。


 男は背中を壁に預け、静かに目を閉じていた。

血の匂いも、焼けた鉄の臭いも、もはや彼の感覚を刺激しなかった。

戦うことは、呼吸の延長のようなものになっていた。

だが今夜、彼の胸には奇妙なざわめきがあった。

何かを思い出そうとしている。

けれど、それは言葉にも形にもならない。


 夢を見た。

草原の中に立つ、見知らぬ男。

彼は鎧も剣も持たず、ただ光に包まれていた。

その瞳を見た瞬間、胸が締めつけられた。


——この人を知っている。


そう思ったが、記憶には何もない。

ただ、心の奥のどこかで、

“その人のために剣を振るったことがある”という確信だけが残っていた。


 火の粉が風に散る。

彼はゆっくりと立ち上がり、剣を握った。

仲間たちは眠っている。

夜明けが来れば、また戦いが始まる。


 空を見上げると、雲の隙間に星がひとつ瞬いていた。

その光は、不思議なほど温かかった。

それを見ているうちに、

彼の中で「怒り」や「恐れ」といった感情が、少しずつ溶けていった。


代わりに、静かな決意のようなものが生まれていた。


——守らなければならないものがある。

——まだ見ぬ誰かのために。


 その思いは、戦いの理由でも、信仰でもない。

もっと深い場所から湧き上がる声だった。

「帰れ」と言われている気がした。

だが、“どこへ”なのかはわからない。


 夜が明け始める。

風が少し暖かくなる。


彼は剣を鞘に戻し、息を吐いた。

そして小さくつぶやいた。


ことわりを求める者よ……お前の声が、確かに届いた。」


 誰もいない草原に、朝の光が降り注いだ。

彼はその光に手をかざしながら、見えぬ誰かの瞳の色を思い出そうとしていた。

それは、理性の夢の中にいた“あの男”の瞳だった。


______________________________________


◆欲望

 夜の街は、濡れた石畳の匂いがした。

雨上がりの空気の中を、香水と煙草と、微かな音楽が流れていく。

彼(彼女)は、その真ん中でグラスを傾けていた。


氷が鳴る音が、やけに静かに響いた。

周囲の笑い声も、視線も、手の温もりも、

すべてが遠くにあるように感じた。


——なぜ、何も満たされないのだろう。


欲望は、いつも彼の中で生きている。

手を伸ばせば触れられるものを求め、

口づけを交わしても、なぜか心は乾いていく。


その夜、

音楽が止まり、停電のように店の灯がふっと落ちた。


暗闇の中で、ひとつの声が聞こえた。

誰のものともわからない。

低く、静かで、懐かしい声。


「君は、まだここにいるのか」


鼓膜に触れるようなその響きに、

胸の奥がきしむように疼いた。

その瞬間、彼の脳裏に光景が走った。


広い原野。

風に揺れる草。

遠くに立つ二つの影。

ひとりは鎧を纏い、

ひとりは白い衣をまとっていた。


——誰だ、あれは。


 心臓の鼓動が速くなる。

理性の男と、意志の戦士。

彼には知らないはずのその二人が、なぜか“自分の中にいる”と確信した。


 胸に、強い熱が走る。

それは欲望ではなかった。

もっと深く、もっと静かな「渇き」だった。

彼は席を立ち、夜の通りへ出た。

雨の匂いがまだ残っている。

見上げた空に、星が一つだけ光っていた。


その星を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。


「誰かが、呼んでいる。」


 その声は、理性の書斎にも、意志の戦場にも届いていた。

三つの魂が、それぞれの世界で、同じ夜に空を見上げていた。

そして、誰も知らぬままに、

彼らの魂はゆっくりと再び結び始めていた。


______________________________________


夢を見た。

それは、誰の夢でもあり、誰のものでもなかった。


草原が光に溶けていく。

風が吹き、木々が揺れる。

遠くで鐘が鳴り、白い鳥が一羽、空へ舞い上がった。


その下に、三つの影が立っていた。

ひとりは書を手に。

ひとりは剣を携え。

ひとりは、何も持たずに微笑んでいた。


彼らは、互いの名を知らなかった。

だが、再会の喜びを知っていた。

それは記憶ではなく、存在の深みに刻まれた懐かしさだった。


光が強くなる。

声がする。


「わたしたちは、もともと一つだった。」


理性は思考をやめ、

意志は剣を下ろし、

欲望は静かに目を閉じた。

三つの魂のあいだに、

言葉を超えた沈黙が流れる。

それは、長い孤独の果てに辿り着いた“帰還の静けさ”だった。


——


朝、理性の男は書斎で目を覚ました。

夜通しの思索のあと、机の上には一枚の紙が残されていた。

見覚えのない筆跡で、そこにはこう書かれていた。


「意志と欲望が、理性のもとへ帰ろうとしている。」


彼は紙を見つめながら、なぜか涙がこぼれた。

理由はわからない。ただ、胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。


——


遠く離れた戦場の片隅で、意志の戦士もまた、同じ夢から目を覚ましていた。

彼の頬にも、知らぬ涙の跡があった。

それを指で拭い、空を見上げる。

同じ星が、まだそこにあった。


——


欲望の魂は、薄明の街を歩いていた。

人影のない路地で立ち止まり、胸に手を当てる。

心臓の鼓動が、

まるで他の誰かと呼応しているように感じた。


「……帰る、のか。」


その言葉が漏れたとき、空が少しずつ白み始めた。

夜と朝の境目。

夢と現実のあいだ。


三つの魂は、その境界の上でひとつの存在へと近づいていく。

それは再会ではなく、もとの“かたち”を思い出すことだった。

やがて光が満ち、すべてが静かに溶けていった。

——魂は、再び一つへ。



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