三景の始まり
その夜、彼は古本屋で偶然手に取った文庫本を開いていた。ページは黄ばんでおり、活字はところどころかすれていたが、確かに「プラトン」とあった。
理性、意志、欲望――人の魂は三つに分かたれる。
書き慣れぬ哲学の文体に首をかしげながら、彼はなぜかその一節だけに心をとらえられた。
「人の中の理性は、御者のように馬を導く。意志は烈しい馬であり、欲望は奔放な馬である」
その比喩を声に出してみる。自分にも、そうした三つのものがあるのだろうか。
夜更け、読みかけの本を手に彼はアパートを出た。静まり返った街路。
コンビニへ向かおうとした瞬間、光が彼の視界を白く塗り潰した。
次に気づいた時、身体はなかった。
自分が「自分」であるという実感すら、ほとんど残っていなかった。
広がる闇の中、三つの声がした。
「私は考える者。秩序を求め、真理を目指す者」
「私は立ち向かう者。恐れず、誇りをもって進む者」
「私は求める者。喜びを、甘美を、生きる理由を」
その声は彼のものでもあり、まるで他人のもののようでもあった。
やがて闇がひび割れ、光が差し込む。
三つの影が、互いから遠ざかるように落ちていった。
そこから先の世界で、再び出会うことになるとは、その時の彼らには知る由もない。
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◆理性
産声とともに、世界は始まった。
彼――いや、それはもはや「彼」ではなかった。魂の断片として、新たな肉体に宿ったのだ。
帝国の片隅にある古い学者の家。その家は、幾世代も学問を重んじてきた一族だった。
父は星を観測し、母は古代語を研究していた。幼子が何を求めるかもわからぬうちから、本と論理と秩序が周囲を満たしていた。
理性の魂は、奇妙なほど早く言葉を覚えた。
世界を説明するための言葉。
人を導くための言葉。
彼にとってそれらは、呼吸のように自然なものだった。
だが、幼いながらに違和感を覚えることもあった。
庭で遊ぶ子らの笑い声を耳にしても、何がそんなに愉快なのか理解できなかった。
小さな喧嘩で拳を交える友人を見ても、なぜそこまで熱を帯びるのか分からなかった。
心が、どこか欠けている。
その感覚は常に傍らにあり、夜ごと彼を悩ませた。
やがて少年は十歳を迎える。師から与えられた課題に答えを返す時、周囲の大人たちは「天才」と称した。
だが本人には、その言葉が空虚に響いた。
なぜなら、知識を積み重ねても、その知識がどこに向かうのか、答えを持たなかったからだ。
ある夜、机に広げられた羊皮紙に灯りを落としながら、少年はふと胸に手を当てた。
「私は……私なのか?」
その問いは、どこからともなく響く声を思い出させた。
――私は考える者。秩序を求め、真理を目指す者。
誰の声だったのか。夢か、幻聴か、それとも……かつて一つであった魂の記憶か。
少年は答えを得られぬまま、ひとつ息を吐いた。
その眼差しは、まだ冷たく澄んでいた。
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◆意志
鋼のような叫び声とともに、彼はこの世に投げ出された。
荒涼とした辺境の村。山と荒地に囲まれ、作物は痩せ、民は常に戦に備えなければならない地であった。そこに生まれた赤子は、握った拳を決して緩めなかったという。
父は戦士であり、母は狩人であった。幼子に与えられた最初の教えは「強くあれ」ただそれだけだった。
柔らかな言葉も、静かな学びの場も、この村にはなかった。
日々は鍛錬と闘争に満ち、泣くことさえ弱さと見なされた。
少年は早くから木剣を手にした。
同じ年頃の子らが泥にまみれ転げ回っている時、彼はただひたすらに叩き合い、打ち倒すことを求められた。
倒れれば父の叱責が飛び、立ち上がれば仲間の歓声があがった。
――私は立ち向かう者。恐れず、誇りをもって進む者。
その言葉が、何度も心の底で反響した。自分が「そうでなければならない」と知っているかのように。
十代半ば、少年は戦に駆り出された。
隣国の騎兵が国境を越え、村を荒らしたのだ。
剣を手にして走り出すとき、恐怖はなかった。心臓は燃えるように高鳴り、全身が歓喜に包まれていた。
初陣で敵を斬り伏せた瞬間、彼ははじめて「生きている」と実感した。
血の匂いも、呻き声も、すべてが世界を鮮烈に色づける。
自らの存在を確かめる唯一の手段が、そこにあった。
だが、その熱はすぐに試練を連れてきた。
無謀な突撃で仲間を救おうとしたとき、最も親しかった友を失ったのだ。
息絶えた友の瞳を見下ろしながら、彼は拳を震わせた。
「なぜ……俺の力で救えなかった」
理屈ではない。勝算でもない。ただ「意志」が彼を突き動かし、そしてその意志が大切なものを奪った。
年月は流れ、少年は逞しい青年へと成長した。
村を守る戦士として人々に慕われ、彼自身も誇りを抱いていた。
しかし心のどこかには、いつも影のような欠落がまとわりついた。
戦えば勝てる。仲間を奮い立たせることもできる。
だが――何のために戦うのか、と問われれば言葉が出てこなかった。
理屈が欲しかった。
喜びが欲しかった。
だが彼の内にはそれが欠けていた。
ある夜、焚き火の前で一人、剣を膝に置きながら呟いた。
「俺は……俺は誰だ?」
その時、遠い記憶の残響がよみがえった。
――私は立ち向かう者。恐れず、誇りをもって進む者。
その言葉に突き動かされながらも、彼は問い続けた。
誇りとは何か。
進むとは、どこへ向かうことなのか。
答えはまだ見えなかった。
ただ炎のゆらめきが、彼の瞳に映り、静かに夜を照らしていた。
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◆欲望
港町の夜は、昼とは違った言葉で喋っていた。灯りは揺れ、香は混ざり合い、笑い声は波と一緒に岸へ届いて消えた。
そこで生まれた赤子は、泣くよりもまず笑ったという。母は薄絹の踊り手、父は行商の連れ。屋台の燻り、香辛料の刺激、琥珀色の酒の甘さ——幼い記憶は、すべて味と音で編まれていた。
彼が最初に覚えたのは、他人の顔が変化する瞬間だった。唇が綻び、目が細くなり、肩の力が抜ける。あるいは眉が寄り、怒りが立ち上がる。彼はそれを観察することで心地よさを覚えた。人を動かす方法を学ぶのは、言葉よりも早かった。小さな手で玩具を差し出すだけで、見知らぬ人が笑った。売り声に節をつければ、客の財布は自然に緩んだ。
――私は求める者。喜びを、甘美を、生きる理由を。
その言葉は、いつしか彼の内で自然な旋律になった。欲しいものを掴むことは、世界を確かめる一つの仕方だった。夜ごと開かれる饗宴に紛れて、彼は歌い、踊り、客を引き寄せた。舌先の機知で交渉をまとめ、胸元の宝石を借りて見せ、短い時間で人の心を高鳴らせる術を身につけた。
若くして名を知られるようになると、欲望はさらに巧妙に彼を導いた。彼のもとには贈り物が集まり、寝床は暖かく、声援がいつも近くにあった。欲望は刹那の祝祭を創り出す。人は宴を忘れられない。彼もまた、自分を称賛する視線に酔った。
しかし、満たされるたびに不思議な感覚が忍び寄った。満たされた器の底にぽっかりと空いた穴のようなもの。酒の喉越しはまた乾きを呼び、歓声の余韻は静寂を残す。その静寂は、どんな言葉よりも重く、何も返さない。
ある冬の夜、彼は一人の少女に出会った。露店の影で薄い毛布をまとい、頬はこけ、しかし目は澄んでいた。彼はいつものように近づき、笑いを投げ、余り物の果実を差し出した。少女は受け取りながら、不思議そうに彼を見た。
「どうして、笑うの?」とだけ言った。
その問いに、彼はぎくりとした。笑う理由を問われたことはなかった。人を楽しませるのは当然のことで、その先に何があるのかを考えたことはなかったからだ。
「楽しんでほしいからだよ」と彼はいつもの返しをしたが、少女の目は揺れなかった。
「楽しむことは、逃げることにもなるのよ」と少女は静かに言った。そして、その言葉は火の粉のように彼の胸に落ちた。
彼はしばらくその夜のことを忘れられなかった。少女の言葉が、どこかで理屈を欠いた痛みを突いた。喜びは確かに美しかったが、そこに「理由」を持たなければ薄く揺らいで消える。彼の作り出す歓楽は、人を束の間明るくするが、その明かりの下で何が残るのか、彼は知らなかった。
年月は飾りを増し、彼はさらに巧みに人の欲を読むようになった。裕福な商人の食卓で微笑み、夜更けの客を抱きしめ、朝には帳簿をつけて利益を数えた。欲望は彼に手際と機会を与え、世界は確実に彼を報いた。だが、どれほど与えられても、彼の内側にはいつも「空白」が点在していた。満たす行為が繰り返されるほど、その空白は深くなるようだった。
やがて彼は、いくつかの関係で傷ついたことを知った。愛と称したものは、享楽の時間で区切られ、約束は朝の光とともに消えた。彼は誰かを本気で守ろうとしたが、その場の歓喜を守る術にしか長けていなかった。ある夜、もっとも親しい伴侶が静かに去って行ったとき、彼は初めて怒りとも悲しみともつかぬ感情に襲われた。守る力がなかったのだ――欲望は魅力を与えるが、留める力や耐える力は教えなかった。
その喪失のあと、彼は裏通りの小さな酒場で長く座り続けた。人の話を聞き、手元の盃の縁をずっと見つめた。何が彼をここまで導いたのか。歓楽の連続は彼に何を残したのか。ある日、彼は自分の手を見た。指先にはささくれと金。どちらも、その手が何かに触れてきた証だったが、どちらも「芯」を示してはいなかった。
――私は求める者。喜びを、甘美を、生きる理由を。
その言葉に、今、彼は違う響きを感じていた。過去は単なる歓びの積み重ねではなく、何かを欠いたまま埋めようとする動きだったのだと。欲望は確かに世界を動かす力だが、それだけでは意味を保てない。理性の枠組みがなければ過剰に走り、意志の堅さがなければ継続せず、最終的には自分自身を消費してしまう。
彼は初めて、自分が何を欠いているのかを薄く思い描いた。秩序、目的、そして守りたい何か。それらは、これまで自分の作り出す刹那の煌めきでは買えないものだった。けれども、それが何か具体的な形を取る前に、港町の夜はいつも通りに回り、饗宴はまた始まる。彼は再び鳥のようにライトの周りで踊り、客の視線を集める。だが、心の奥底で小さな問いが鳴り続けるようになった。
ある朝、港で出航する船を見送りながら、彼はほんの短い期待を抱いた。誰かが、遠方からやって来て、自分の作る虚飾の奥にある本当の欠落を示してくれるのではないか――と。しかし、波はただ同じ調子で寄せては返し、彼の期待は静かに消えていった。彼はまだ、求めることをやめられなかった。欲望は彼の生きる法則であり、同時に呪いでもあった。
夜が来れば再び灯は揺らぎ、街の音は欲望の旋律を奏でる。彼は笑い、歌い、手を差し伸べる。喜びを与えることはやめられない。だが、その目にはかつての単純な輝きのほかに、わずかな哀感が宿っていた。彼は求め続ける――満たされぬ器を抱えたまま。
それがどこへ向かうのか、彼自身もまだ知らない。