居待月 月の塔
ノックスは月の塔を上る。そこで思いもよらない出来事が起こるとも知らずに―
「はぁ……試験もやばいし、こんなことしてる場合じゃないんだけどな……」
ノックスは重い足取りで、月の塔の階段をのぼる。
世話係といっても、やることがたくさんあるわけではなく、夜の間に1回食事を運んで天女の様子を観察するだけだ。
ただ、月の塔は王宮の北側にあり、塔に行くだけで時間がかかる。しかも月の塔は階段が多く、天女の部屋まで上るのが面倒なのだ。
コンコンコン。
「失礼しまーす……」
返事はない。いつも通りの無視だ。
天女は窓際の椅子に腰かけ、静かに月を眺めている。
武器と本棚、机や椅子、寝具などの必要最低限の家具だけが置かれた、質素な部屋だった。だがよく見ると、ベッドは一人で眠るには持て余すほど大きく、調度品はどれも比較的新しく、細工が凝らされていた。
月明かりだけが室内を照らし、息を呑むほどの静寂が支配している。
月光を浴びたその横顔は、白磁のように透き通った肌と、絹糸のようなシルバープラチナの髪で形づくられている。腕には白くて長い手袋をはめている。
特段、珍しい容姿をしているわけではない。銀髪の影人も普通に存在する。
だからこそ――その瞳だけが決定的に違っていた。
赤い瞳の影人たちとは正反対の、深いサファイアの青。
月明かりを受けたその瞳は、月と同じ形に発光し、夜空に落ちた一粒の星のようにきらめいていた。
――見惚れてる場合じゃない。
試験もやばいし、ここで時間を潰してる暇なんてない。
さっさと置いて帰ろう。
彼女はまったくこちらを見ていない。
けれど、なぜか背中に意識を向けられている気がした。
言葉ではなく、視線でもなく――空気が、違っていた。
「……食事を持ってきました。ここに置いときます」
ノックスは足早に机へ向かい、さっさと帰ろうとした。
その時――
「そなた、名を何という?」
静寂を裂くような、涼やかな声。
思わず振り向くと、天女の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
ノックスは驚いて顔を上げた。今まで何度も塔に来ているが、天女に話しかけられるのなんて初めてだ。
「……お、俺ですか? ノックスと言います」
天女は軽くまばたきし、退屈そうに口元を緩めた。
「そう……わたくしは退屈ですの。どうせあなた方はわたくしには一生勝てませんし……せめて、暇つぶしの相手くらいにはなってもらいますわ」
「……え、暇つぶしって……何……?」
月光に浮かぶその笑みは、不思議な冷たさと妖しさを帯びていた。
その笑みが、この先の運命を大きく狂わせることになるとも知らずに――




