下弦の月 赤い瞳の黒馬
ノックスは黙々と鞍の手入れを続けていた。
ふと、机の端に置かれた古文本が目に入る。
擦り切れた表紙には、長い年月が刻まれているようで、その沈黙が妙に重く感じられた。
――怖い。
この本を開いた瞬間、ルナを失う未来が現実になってしまう気がする。
それに……今はまだ、この時間を壊したくない。
ルナと過ごす、小さな幸せのひとときを。
(まだ、読む覚悟ができてない……今は)
ノックスは小さく息を吐き、視線を外す。
古びた本を後にし、胸の奥にわずかなざわめきを抱えながら、ルナに会いに月の塔へ向かった。
◇
「ルナ、今日、暇?」
「あなたはいつも突然押しかけてきますね……わたくしは、週刊コスモを読むのに忙しいのですよ。というか、勉強会はしなくていいのですか?」
ルナはふかふかの椅子に座って、この前あげた週刊コスモを穴が空くほど見つめていた。
「勉強会はまた今度やろう。それより、たまには外に出たほうがいいぞ。今日休み取ったんだ。俺の馬を連れてきたから、出かけようぜ」
ページをめくるルナの手がぴたりととまり、左半分だけ輝いた青い瞳でノックスを見つめる。
「......馬ですって?」
最近知ったことだが、ルナは動物が大好きなのだ。
◇
月の塔の下に赤い目をした、黒くてたくましい大きな馬がいた。
闇の世界の生き物たちは影人同様、赤い瞳をしている。
「まぁ、立派な馬ですわね……」
ルナは馬のたてがみを優しく撫でる。黒馬も鼻を鳴らして気持ちよさそうにしている。
「ホマムって言うんだ。パワーがあって、オスだけどおとなしいんだ。俺の頼れる相棒」
「わたくしも光の世界にいた頃は、サダルバリという、青い目をした白い雌馬に乗っていました……」
「そうなのか? ……じゃあ自分で乗れるか?」
「もちろんですわ!」
自信満々に胸を張るルナ。
「そうか。……でも、ホマムは大きいから、危ないな」
言い終えるや否や、ノックスはルナの腰に腕を回し、ひょいと軽々と持ち上げた。
「きゃっ……!」
驚くルナをそのまま鞍の上に乗せ、自分も後ろに跨がる。
背中越しに感じる大きな身体と彼の体温が、ルナの鼓動を速くする。
「あなた、大剣まで持って……」
「街の外は危ないからな。……俺は護衛役だろ?」
影人が街の外に出る時、武器を置いていくことはあり得ない。
その重さは魔獣への備えであると同時に、彼の覚悟そのものでもあった。
「でも大丈夫なのですか? わたくしを連れ回して、変な噂でも流れたら……」
「北門から行けば、誰にも会わないから大丈夫」
そう言うとノックスは手綱を取り、出発した。
◇
北門を抜けると、街を取り巻く喧噪が嘘のように静まり返った。
けれど街の外は常に危険だ。森の奥には魔獣が潜み、影人たちは決して油断しない。
それでも今だけは、ノックスはルナに静かな景色を見せてやりたかった。
月光を受けた石畳の道が、影と光のまだら模様を描く。空気は澄んで冷たい。
ホマムの蹄が、土を一定のリズムで叩く。
ルナの銀髪が風になびき、時折ノックスの腕に触れるたび、彼は無意識に手綱を握る力を強めた。
「……綺麗ですわね」
ルナが小さく呟く。その声は、月明かりに溶けてしまいそうなほど柔らかい。
「だろ? 俺が一番好きな道だ」
ノックスは手綱を緩め、ホマムを丘へと導く。
丘の上からは、闇の中にぽっかりと浮かぶ湖が見えた。
下弦の月が水面を銀色に塗り、ゆらゆらと揺れている。
ルナはその光景に息を呑み、しばらく何も言わなかった。
「光の世界にも、似た湖がありましたわ」
そう言って微笑む横顔は、遠い記憶を見ているようだった。
ノックスは黙って彼女を見つめた。
初めて会った頃の警戒心や棘は、嘘のように丸くなった。
湖のほとりでホマムを木陰につなぐと、ノックスは鞄から包みを取り出した。
「ほら、腹減っただろ。魔角獣サンドイッチ、買ってきた」
「……えっ、この前も食べてた、あれですか……?」
ルナは眉をひそめながらも、サンドイッチをのぞき込む。
真っ黒なパンからのぞく漆黒の燻製肉は、香ばしい匂いと共に湯気を立てていた。
「見た目はちょっとあれだけど、うまいから食べてみなよ」
ノックスがかぶりつくと、肉汁がじゅわっと溢れた。
「……じゃあ、一口だけ……」
結局、ルナは観念して小さくかじった。
一瞬、動きが停止したが、もぐもぐと味わうと表情が緩んだ。
「……意外といけますわね」
素直な感想にノックスは思わず笑った。
「な? うまいだろ?」
二人はサンドイッチを半分ずつ分け合い、湖面に映る月を眺めながら静かな時間を過ごした。
湖面の揺らめきを見ながらも、ノックスの手は時折、無意識に大剣の柄へ伸びる。彼にとって、隣にいる彼女を守ることは戦いと同じくらい自然なことだった。
「……たまにはこうして外に出るのも、悪くありませんわね」
その言葉に、ノックスは胸の奥がじんと温まった。
「そういやさ、もうすぐ新月だけど、その日はずっと一緒にいるから」
サンドイッチを食べるルナの手がピタリと止まり、視線が彼に向く。
半分だけ輝く青い瞳が、わずかに驚きと揺らぎを帯びていた。
「……覚えていてくれたのですね」
「……この前、約束しただろ」
ルナは一瞬だけ彼を見つめ、それからふっと笑った。
その笑みは、湖面を照らす月明かりよりも温かく、ノックスの胸を静かに満たしていった。
それでも、この前のアストライオス王の言葉が忘れられない。
――光の世界に行けるようになったって意味がない。差別まみれの場所じゃ生きていけない。
でも、王になるには天人の目が必要だ。だから……奪目の儀からは逃げられない。 つまり――王を目指す限り、俺はいつかルナを殺さなきゃならない。
ノックスはルナの安心しきった横顔を見つめる。奪目の儀の時とは違って、穏やかな顔をしている。
……だけど、そんなのは嫌だ。
俺は……ルナには生きていてほしい。
奪目の儀が続く限り、それは叶わないかもしれない。
でも――俺は失いたくないって思ったんだ。あの夜、死にかけたルナを見て。
もう誤魔化せない。
俺は――ルナが好きなんだ。
月光の下、天女と影人の距離は確かに近づいていた。
水面に揺れる月影とともに、二人の影が重なり、一つの形を映していた。
――あと七日間で新月の夜を迎える。




