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寝待月 先代天女アンバー(中)

 ――満月の夜の奪目の儀。


 候補者のひとりが地を割り、轟音とともに奔流が解き放たれる。

 水の壁が観客席にまで飛沫を撒き散らし、押し流された岩は猛毒で泡を吹き、じゅうじゅうと音を立てて溶け落ちた。

 空気は湿気と硫黄の匂いに満ち、息をするだけで喉が焼けるようだ。


 アンバーは必死に逃げるが、足場は水に飲まれ、行く手を岩の矢が塞ぐ。

 背中を焦がす熱気、足元を奪う濁流。

 足元の石畳が崩れ、片足を取られながらも必死に駆けるが、天女の逃げ場はどこにもなかった。


 次の瞬間、水を纏った刀が閃き、天女の脚を深々と切り裂いた。


「っ……!」


 鮮血が飛沫に混じり、観衆からは歓喜の声が上がる。


「アンバー!!」


 狼の火砲がとどろく。アストライオスのハンマーが地を砕き、衝撃波が波のように広がる。観客席の柵が吹き飛び、他の候補者達が宙に舞う。


「アストライオスが天女を手に入れたぞー!!」

 熱狂的に盛り上がる民衆たち。


「アンバー! 大丈夫か!」 

 天女を抱きかかえる影人。


「アストライオス……足をやられた……」 


 アンバーの下半身をみると、両脚が深く切りつけられていた。

 脚はもう使い物にならず、辺り一面が血の海だ。血なまぐさい鉄のにおいが充満する。


「出血が多い……私はもう逃げられない……アストライオス、私の目をあげるよ……」


「……嫌だ……目を手に入れても……君がいない世界なんて……見たくない……」 


 アンバーは苦しそうに、でも笑いながら血を吐いて言う 


「目をあげるなら……あなたがいい……この暗い世界で唯一、私のことを大切にしてくれた、あなたに……」

 アンバーの琥珀色の瞳から真珠のような涙が流れる。


(いやだいやだ、頼む、死なないでくれアンバー……)

 アストライオスは目の前の光景が夢であってほしいと願った。

 そんな願いもむなしく、アンバーの顔はどんどん青ざめていった。



「最後に……お願いがあるんだけど……」

 琥珀色の瞳は輝きながらも、虚ろに揺れていた。

 呼吸は細く、途切れそうなほど弱い。

 命の灯火は、いまにも風に吹き消されそうだった。


「……死んだ後、この暗闇の業火で焼かれてしまうのが恐ろしい……

 だから私の亡骸を……光に一番近いあの屋上庭園に埋めて……

 ……その上に太陽の花の種を植えてくれないかな……うっ……」


「アンバー……!お願いだ、逝かないでくれ……」 


「約束だよ……ちゃんとお世話してね……この闇の世界に…光を……咲かせて……」



 そう言うとアンバーは震える右手でアストライオスの腕をつかみ、自分の目に当てた。手袋越しに感じるアンバーの体温が氷のように冷たい。


「……さぁ……私が生きているうちに……目を……」  


 一瞬、アストライオスの手が止まる。

(目を渡されたら、もう戻れない)

 けれど、天女の瞳は静かに「お願い」と告げていた。


「……アンバー……愛してるよ……」 


「……私も……だ……よ……」


 男は悲しみで心が張り裂けそうになりながら、目を閉じ、手に魔力をこめた。


 アンバーのまぶたが、アストライオスの両手が、金色に光りだす。 

 影人が目を開けると、天人の琥珀色の瞳が輝いていた。



「アストライオスが、新しい王だー!!」 

 観衆の咆哮は炎そのものだった。

 燃え盛る熱風のように押し寄せ、空気を揺らし、耳を焼き尽くす。

 天女の目を奪った者こそ、次の王。それが、この世界の決まりだ。


 アンバーの亡骸を抱きかかえながら、ふと、アストライオスは自分の目から水があふれていることに気がついた。 

 影人は涙を流せない――それは生まれながらの定めであり、この世界では常識だった。

 悲しみも痛みも、胸の奥で沈むだけで、決して形にはならない。

 だから、頬を伝う温かい雫の意味を、彼は一瞬理解できなかった。 


「これが……涙か……アンバー……」  


 生まれて初めて流す透明な雫は、頬をつたって彼女の顔へと落ちる。

 月光に照らされた涙は、まるで光そのものの欠片のように輝き、アンバーの血で濡れた頬にそっと落ちた。

 

 震える指で、光を失った彼女の瞼をそっと閉じる。

 

 観衆の熱狂の声が、まるで遠くの波の音のように霞んでいく。

 王として称えられる歓声が、ただの雑音にしか聞こえなかった。

 

 彼の腕の中にあるのは、もう何も語らない、ただの肉体だ。

 あたたかさを失いかけたその身体が、やけに重かった。


「……ずっと、私が守るはずだったのに……守れなかった……」

 

 誰にも届かぬ声が、闇に溶ける。

 

 王になったその瞬間、アストライオスはすべてを失っていた。

 胸の奥に開いた穴から、何かが絶え間なく流れ出していく。

 

 それでも、掟は変わらない。

 天女の目を奪った者こそ王。

 誰もそれを疑わない。

 

 アストライオスは、無言で立ち上がった。

 アンバーの亡骸を抱きしめたまま、まっすぐに屋上庭園へと歩き出す。

 

 ――約束だけは、果たさなければならない。

 この暗闇に、いつか……光を咲かせるために……


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