上弦の月 光の民の来訪(下)
カペラが誰も来ないよう廊下で見張りをしてくれている中、地下の鏡の前で待っていると、リゲルとアルトがアストライオスをつれてきた。
二百八十年を生きた影人、アストライオス王。
見た目は五十代ほどで、赤みを帯びた茶髪を後ろで束ねている。
深い皺が刻まれた顔に、琥珀の瞳が満月の光を閉じ込めたかのように強く輝いている。
この闇の世界で、ただ一人、天人の瞳を持つ男だ。
「なんと……天女以外の天人がこの世界に来るとは……有史以来の大事件だな……」
アストライオスはうつろな琥珀色の目を見開いて驚いていた。
天人の青年ソルを見つめながら、王は静かに言う。
「君は一体何をしに来たんだ? 光の王の使いか?」
「違います。光の王は僕がここにいることを知りません。僕の意思で勝手に来ただけです。」
半分だけ輝く琥珀色の瞳がヘーゼル色の瞳をじっと見つめる。
「……危険な真似を。早く一人で帰りたまえ」
「そんな……! なぜですか!? ルナはもともと、光の世界の住人なんですよ!」
丸く光る琥珀色の瞳がわずかに揺れる。
「生贄天女を光の世界に帰すことができるなら、どれだけよかったか……」
王は言葉を濁し、そっと視線を落とした。
「光の世界との約束なのだ。目を奪われていない天女を返した前例は、一度もない」
「そんな……」
アストライオスの声は冷たく、そしてどこか優しかった。
そして、黄金の鏡の前でこう締めくくる。
「帰るがいい、天人の青年。その胸に彼女の選択を刻んで」
そう言って、アストライオス王は首からぶら下げた大きな六角形の宝石をとりだした。真ん中に大きなダイヤモンドがはめ込まれている。
ドアの凹みに宝石をはめると、鏡が黄金色に光りだした。
「……すまんな、体調というか、どうもこのところ心が沈んでな……若者の眩しさが、少々きつい……。もう部屋に戻らさせてくれ」
「お供します、アストライオス王」
リゲルとアルトが左右から王を支えながらその場から去っていった。
輝く鏡面を前に残されたノックスとルナ、ソル。
「さようなら。ソル。元気でね」
「ルナ……本当に一緒に来ないんだね……昔の君はもっと笑ってたのに……」
ヘーゼル色の目から涙がこぼれた。暗闇の中で涙が真珠のようにやわらかく光る。
「……そうよ。わたくしには、ここでやるべきことがある」
ソルはおもむろにマスクをはずした。息を吸った瞬間、臭いに顔をゆがめるソル。
「……ルナ、君のことはずっと忘れないよ」
そう言うと、ソルはルナの額に優しくキスをした。
「さようなら、ルナ……この闇の中で光のご加護がありますように……」
ソルはそう言うと、黄金の鏡の中へと消えていった。
鏡が透明に戻り、静寂が訪れた。
ルナはその場に立ち尽くし、胸の奥に重たいものを抱えたまま、視線を落とした。
◇
ルナはふう、とひとつため息をついて、額を手でゴシゴシ拭いながら呟く。
「……幼なじみなんて、ろくでもないですね。……ああいう優しさのほうが、よほど残酷でたちが悪い」
ルナが冷ややかにノックスに言う。
ノックスの耳には何も聞こえていなかった。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。頭の中が空白になる。
(……え?)
(今……あいつ……ルナのおでこに……キスした……?)
まるで時間が止まったみたいだった。
体が動かない。呼吸も忘れたみたいに、ただ立ち尽くしていた。
心臓の鼓動だけが、やけにうるさい。
(……なんだよ、あれ……)
言いようのない何かが、胸の奥でざらざらと広がっていく。
怒りなのか、悔しさなのか、自分でもわからない。
(……くそっ……なんで、こんな気持ちになるんだよ……)
「あ、あいつ……ルナのこと好きだったのか……?」
「……さぁ、どうでしょう。ただの友達ですよ」
光の世界には友達の額に口づけする文化があるのだろうか?
(落ち着け……今、何か言わないと……)
ノックスは理由がよくわからないが、だんだん腹が立ってきた。
「……ていうかさ、あいつと光の世界に帰ればいいじゃん。
ルナだって、闇の世界で百年間、一人でずっと戦い続けてる。
いいかげん疲れただろ?
ルナが帰っても……また他の天女が来るんだろ?」
ノックスは何も考えず、軽い気持ちで言葉を発した。
一瞬、ルナの表情が凍りついたように動かなくなった。
「……また他の天女が来る、ですって……?
……あなたは……わたくしがどんな気持ちで、この地獄にとどまっているのか、少しでも考えたことはありますか……?」
ルナの肩がガタガタと震えだした。
「私はな……帰りたくても、帰れないのだ!!
光の民たちは、闇の世界に落ちた天女を、心底軽蔑している!
二度と手を差し伸べたりはしない……!
光の世界に帰ったところで、私の居場所などどこにもないのだ!!」
ルナの声が廊下に響き渡り、壁に反響してわんわんとこだまする。
今まで一度も聞いたことのない、魂の叫びのような声だった。
サファイアの青い目が潤んでいる。
「それだけではない!
私が、この世界で目を奪われ、いつか殺される存在でありながら……
なぜ毎月毎月……必死に抵抗し……生き続けているのか……
……お前の拙い頭で考えたことはあるか……?」
大声で怒鳴った後にわずかに沈黙して、震える声で続ける。
「……これ以上、この生き地獄を、他の天女たちに見せたくないからだ!!
私が生きている限り、次の天女が送られてくることはない!!
目が奪われ私が死んでしまったら……
いつか、妹たちの誰かが生贄として闇の世界に送られてしまう!!」
「……分かっている……私が殺される運命にあることくらい……
それでも、妹たちには一日でも長く、光の下で平和に暮らしてほしいのだ……!」
ルナの声が途中から嗚咽まじりになり、ブルブルと拳を震わせていた。
顔を見ると涙がボロボロとあふれていた。
「次の天女が来ないように……妹たちを守るために……ただそのために、私は百年間、戦い続けてきたのだ。
……それなのに、他の天女を来させて、帰れだと?……妹たちにこの理不尽を味わせろと?……よくもそんなことが言えるな……!」
ノックスはルナの言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになった。
なぜルナが百年間も戦い、生き延び続けてきたのか。
彼女が「次の天女を来させない」ために、どれほどの覚悟と孤独を抱えてきたか。
……ただの嫉妬心から吐かれたノックスの言葉が、ルナの心を切り裂いたのだ。
毅然とした青い瞳が、ノックスの赤い瞳を見つめる。
「……あなたは、わたくしをモノ扱いする他の影人とは違うと思っていました……
わたくしの孤独に寄り添ってくれる……ちゃんと人として見てくれる……
唯一の影人だと……信じていたのに……それなのに……っ……
……あなたにだけは……そんなことを言われたくなかった……」
そう言い残すと、ルナは涙を拭いながら去っていってしまった。
残されたノックスは、ルナの本音を聞いてその場を動くことができなかった。
……そんな想いで、今まで百年間も……
俺は、何もわかってなかった……ただ、近くにいたってだけで
味方になるとか言いながら、また傷つけて、怒らせて……
ただ悔しかっただけだ。あいつに触れられてるのが許せなかった。
ルナ、ごめん……俺は……
ノックスは透明な鏡に映った情けない自分の顔をぼんやりと眺めていた。
――あと七日で、また満月の夜が来てしまう。




