上弦の月 天人の涙
月の塔でノックスが生まれて初めて見たものとは―
「そこまでじゃ! 筆を置くのじゃ!」
長老メラクの声が、学問の間に響く。
上弦の月が静かに夜空を照らしている。今日は王候補者の筆記試験の日だ。
「今回はいつもと違う感じの問題が多かった気がするな〜。そう思わない、アルト?」
「やる気がない割に、そういうことには敏感に気がつくのだな、カペラ」
アルトが眼鏡の奥の瞳を光らせながら冷たく笑った。
「おい、ノックス、今回の試験の出来はどうだ? 候補者で居続けられるといいな」
リゲルはいつもどおり自信に満ちあふれた様子だ。
でもノックスの耳には届いていなかった。
――今までで一番できた気がする! ルナの勉強会のおかげだ……!
ノックスの胸が鐘のように高鳴る。
「俺、用があるからちょっと先帰るわ。じゃ!」
ノックスは三人を置いて足早に部屋を出た。
――こんなに試験がうまくいったのは人生初だ。早くルナに報告したい!
ノックスは浮足立つような気持ちで月の塔を駆け上がる。
「ルナ、聞いてくれよ、今日――」
ノックもせずに勢いよく扉を開けたその瞬間、ノックスの言葉は止まった。
ルナは窓際の椅子に腰掛けて沈みゆく月を憂い気に眺めていた。
いつもは手袋をしているのに、今日はしていない。腕は透き通るような白い肌をしている。
ルナの半分光る青い瞳から、ダイヤモンドのように輝く銀色の雫が流れていた。
「……あぁ、ノックスでしたか。気が付きませんでした。どうしましたか」
「ルナ……その、目から出てるそれは……?」
ルナは白い手でまぶたをこする。
「これは……涙というのですよ……あなたがた影人たちは涙がでないから知らないかもしれませんが……」
天人は涙が出て泣くことができるが、影人は涙を流すことができない。
知識としては知っていたが、ノックスが実際に涙を見るのは生まれて初めてだった。
「……なんで涙が出てるんだ?」
ルナの目からポロポロと涙が溢れる。
「……影人は血も涙もないといいますけど、本当にあなた方は感情というものに関心がないのですね……」
ルナはかすかに微笑んだが、その頬を雫がつたった。
「……泣いてるのか?」
「……ええ。泣いているのですよ、わたくしは」
ノックスは言葉を失った。これまで何度も世話係としてルナのことを見てきたが、ルナが泣いているのを見るのは初めてだった。
――泣くって……そんなに、つらいことなのか?
でも……何があったんだ?どうして……?
ノックスは数時間前に試験が上手くいったことなど、頭の中から吹っ飛んでしまった。
「ルナ、何があったんだ? 誰かに何かされたのか?」
ルナは首を横に振った。
「……いいえ。ただ、少し疲れただけです」
それ以上、理由を語ろうとしない。
――どうすればいいんだ。
泣いている時、俺は……何をしてあげればいいんだ?
ノックスは、どうしていいのかわからず立ち尽くしていた。
だけど、悲しそうにしているルナを目の前にして見ているだけなんて無理だった。
気づくと、ノックスの身体は勝手に動いていた――
「……!」
影人に抱きしめられた天女の身体が小さく跳ねる。
ノックスがルナに触れた瞬間。
魂の奥底に眠っていた記憶が、静かな波紋のように広がっていった。
理由もなく、懐かしくてたまらない――
もう二度と届かないはずの場所に、触れてしまったような感覚。
――な、なんなんだ……この感じは……これはただの感情じゃない……
もっと深いところ、太古の昔の記憶が震えるような……
心の奥底にある渇きが、あたたかさで満たされていく。
――心地よい……ずっとこの温もりを感じていたい……
ノックスはルナを抱きしめたまま離れることができなかった。
「……ノックス?」
「……ごめん。でも見ていられなくて……止まらなかった」
「……やはり、触れるだけで……思い出してしまうのですね‥‥‥」
ノックスはルナが言っていることが理解できなかった。
ルナはしばらくノックスの腕の中で震えていた。
「……痛いです」
「……えっ」
「苦しいくらい、強すぎますわ」
その声にはどこか安堵が混じっていた。
ルナはその腕を拒まず、静かにその胸元に顔を預けた。
ノックスは腕の中でこぼれ落ちる涙が、服を湿らせていくのをただ感じていた。
気がつくとルナの震えは止まっていた。
ルナは小さくため息をつき、ぽつりという。
「……やっぱり……あなたは変わった影人ですね……」
その一言がノックスの胸を深く刺した。
言葉の意味はよくわからなかった。
腕の中にいるルナは、影人たちが決して見ることのない太陽のようだった。
――この温もりを、永遠に感じていたい……
ノックスはルナを抱きしめながら、そう強く願った。
――満月の夜が、あと七日でやってくる。




