【第5章 第十三話「決意」】
残暑も明け、風がやや涼しさを帯びてきた九月初旬。
庭の草木もほんの少し色を変えはじめ、
蝉の声に代わって、虫の音が静かに聞こえてくる。
そんな初秋の朝──
凛は、朝からそわそわしていた。
ようやく、
霧丸に「ありがとう」を伝える機会をもらえたのだ。
「ねぇ、志乃。これ、変じゃない?
ちょっと地味すぎるかな……
もう少し明るい色の方がいいかなぁ?」
鏡の前で、着物の衿を何度も整えながら凛が振り返る。
志乃は、溜め息まじりに苦笑した。
「姫様、これは遊びの席ではありませんよ。
あの日の状況を改めて伺うという建前のもとで、
呼んでいるのですから」
凛が霧丸を屋敷に呼び出すため、
志乃がわざわざ“事情聴取”という体裁を整えてくれた。
「だからこそ、きちんとしなくちゃ。
……お礼を言いたいだけなのに無理言ってお願いしたんだから」
凛は口元をぎゅっと引き結び、
いつもよりほんのり明るめの紅をひいた。
髪には、母の形見である薄紅色の簪を挿している。
志乃は、やれやれといった顔で、
支度がほぼ整った凛の姿を見てから静かに頭を下げた。
「それでは、霧丸を中庭に案内して参ります。
姫様は、こちらでお待ちを」
「はいっ!」
張りのある返事を聞いて、志乃は肩をすくめながら、ふと心の中で呟いた。
── そんなにやる気満々なお返事、私の稽古では一度も聞いたことがありませんが……
志乃が扉を静かに閉めたあと、
凛は鏡越しに自分の顔をもう一度確かめ
小さく息を吐いた。
──
屋敷の中庭には、
簡素ながらも風雅な茶席が設えられている。
白砂を敷いた小径の先、涼を呼ぶ竹の簾が風に揺れ、几帳のかかる軒下には、手水鉢と一対の桔梗の花が控えめに添えられていた。
そこに、志乃に導かれ、霧丸が現れた。
────
「なんで、オレが!?」
霧丸は、組頭の前で声を荒げた。
「姫様、直々のお達しとの事だ。」
「で、でもオレなんかが姫様と直接会うなんて……
こ、断ってくださいよ!
お役目があるとか、なんとか言って……」
「その“お役目”の中でも、
あの日の状況に詳しい者と言われたらな……
お前しかいないだろ!」
「……でも」
「もう決まったことだ!いいな!
くれぐれも姫様の前で粗相はするんじゃないぞ」
「……はい」
霧丸は、渋々と頭を下げたながら途方にくれた。
「……どうしたらいいんだよ」
────
目の前を歩く侍女は、見るからに怖そうだ。
それでも、
命じられるがまま志乃に連れられて歩くうち、
彼女の背中ばかりを見つめていた。
まっすぐな姿勢、乱れのない足取り。
振り返りもしないのに、どこか全てを見透かされているような気がした。
緊張で手のひらが汗ばむ。
── 早く終わってくれ
志乃の緊張感に、歩みはどこか逃げ腰だった。
茶席に着くと、志乃は静かに手を差しのべ、霧丸を座らせる。
「こちらで、しばしお待ちくださいませ。
姫様を、お迎えにあがります」
そう言い残して、屋敷の方へ向き直ると、すっと風のように立ち去っていった。
取り残された霧丸は、ぽつんと茶席に残され、
視線のやり場にも困ったように周囲を見渡す。
「はぁ……つかれた」
まだ、何も始まってないのに
ふと、口に出てしまった。
── しばらくして、凛が姿を現した。
淡い紅の小袖に薄紫の帯を結んだその姿は、
震えていたあの日の彼女とは、まるで別人のように見える。
背筋を伸ばし、ゆったりとした歩みで茶席に近づき、霧丸の正面に静かに膝を折って腰を下ろした。
凛が、話しかける。
「ねぇ? 緊張してる?」
いきなりの言葉に、霧丸はびくりと肩を揺らす。
「い……いえ、そんな……ことは……」
── あたりまえだろっ!
「ほらぁ、それが緊張してるっていうのよ!」
── なんなんだ?姫様って、皆こんな感じなのか?
霧丸は戸惑いながらも、
咄嗟に話を本筋に戻そうとした。
「あ、せ……僭越ながら、姫様。
先日の事をお聞きになりたいのでは……?」
「あ、それは、もういいの。建前だし……」
「えっ!?」
思わず、声を漏らす霧丸。
「実は、あなたに助けてもらったのに、
ちゃんとお礼も言ってなかったでしょ?
だから……志乃にお願いして、来てもらったの」
霧丸は、慌てて姿勢を正すと深く頭を下げた。
「建前などなくとも……お呼びくだされば、いつでも参ります」
「そんな風にしょっちゅう呼んでたら、周りから色々言われちゃうでしょ!……あなたもそうじゃない?」
── 確かに
理由もわからず呼び出されてたら、
何を言われるかわかったもんじゃない……
「だからね…… ちゃんと、お礼を伝えたかったの」
「霧丸、私を助けてくれてありがとう」
凛は、まっすぐ霧丸を見つめながら深々と頭を下げた。
──空気が、一瞬止まったような気がした。
霧丸は、驚いて立ち上がりかけた。
「お、おやめください、姫様っ!
頭をっ、どうか頭をお上げください!」
── もし、この姿をあの侍女頭に見られたら、何をされるかわからない。
そういえば、さっきから姿は見えない……
ホッとして、
ふと、凛を見るとまだ頭を下げたままだった。
霧丸は、更に慌てて、声を張り上げる。
「姫様っ! 姫様! お願いです!
もう、頭をお上げくださいっ!」
凛は、顔だけをゆっくりとこちらに向け、
いたずらっぽく笑った。
「大きな声……初めて聞いた。」
そう言って、ようやく姿勢を戻した。
霧丸は安堵のため息をついた。
「でも、本当にありがとう……
これからもよろしくお願いします」
言い終えると凛は、すっと立ち上がり、
風に揺れる几帳の向こうへ足早に戻っていった。
霧丸は、呆然とその背を見送る。
「これ……からも……」
── その言葉の意味を、考えながらも
霧丸の顔は、自然とほころんでいた。
霧丸が、凛の背を見送るころ──
凛はすでに、茶席を離れ屋敷の奥を抜けていた。
向かった先は、
練兵場の近くにひっそりと佇む、
戦で命を落とした兵たちを祀る供養碑。
人の気配はなく、
草の揺れる音と、風の通り道だけがそこにあった。
凛は静かに膝をつき、
供養碑を真剣な眼差しで見つめる。
そして、三つ指をつき、深々と頭を下げる。
「……私を守ってくれてありがとう。
あなた方からいただいた命──
国のために尽くします」
── それは、決意の言葉だった。