【第5章 第十ニ話「蕾」】
あの襲撃の後──
凛は、すっかり塞ぎ込んでしまっていた。
志乃が毎日つけてくれる稽古や礼法の指南にも、
どうしても身が入らない。
筆を握っても、手は止まり、声を出しても、
心が追いつかない。
頭の中に、あの日の光景が繰り返し浮かんでくる。
── 崩れる簾、血に染まった護衛たち、
獣のような目。
そして、命が消えていく音。
あの時、初めて感じた…………死への恐怖。
「かあさまがいれば……相談できるのに」
凛は、座敷の窓のそばに佇み、ぽつりと呟いた。
視線の先には、庭木の向こうに霞む城の白壁。
凛の住まいは、
城の本丸から少し離れた「御殿」と呼ばれる屋敷の一角。
格式ある姫の居所として整えられた場所ではあるが、城そのものの喧騒とはやや距離がある。
「こうしていてもしょうがない……」
凛は、自分に言い聞かせるように小さく呟き、
ふすまを開けた。
遠慮がちに廊下を歩き、そっと庭に出る。
外の風は気持ちよく、敷石を踏みながら、
城の外郭に沿った植え込みを抜け裏手の方へ足を向ける。
そのとき──
「えいっ!」「やぁっ!」
鋭い声が、聞こえてきた。
凛は、思わず足を止め、石塀の影からそっと覗き込む。
城の練兵場──
そこでは数人の若い侍たちが、木刀を交えて稽古をしていた。
「あれは……稽古?」
その光景を、凛は息を潜めて見つめる。
「お役目……かぁ」
ふと、志乃に言われた言葉が脳裏をよぎる。
── 皆、お役目を全うしようと、真剣なんだ。
それに比べて、私は……
下唇を噛みそうになったその時──
「うわっ! 参りました!」
ひときわ大きな声が上がった。
一人の侍が尻もちをつき、木刀を地面に落としている。
その前に立つ侍は、腰を落とした構えのまま動かず、じっと相手を見下ろしていた。
「……あの人が、勝ったんだ」
── 強いのかな。
凛はもう少しだけ近づいてみる。
すぐそばの植え込みのかげに身を隠すようにして、膝をついて座り込む。
尻もちをついた侍と入れ替わるように、
別の男が前に進み出る。
二回戦が始まるらしい。
次の相手は、先ほどより体格もよく、
声にも威勢がある。
それでも──
さっき勝った男は、少しも揺るがないまま、静かに構えを取った。
「はじめっ!」
掛け声がかかり、後から出てきた大男は、
大きく振りかぶり、威嚇をするかのように大声を出した。
「うぉーっ!」
先程勝った男の人は、
目を瞑り、ピクリとも動かない。
「どうしたぁーっ!かかってこい!」
焦れた大男は、更に威嚇する。
── その瞬間、
男の目がカッと見開き、大男を見据えた。
「あっ……あの目……」
以前、昔の河原で見かけた
真剣で、真っ直ぐな眼差し……
あの時…… 目を離せなかった
一心不乱に木刀を打ち込む姿を思い出した。
そして今、
その男は、一瞬の動きで大男を倒していた。
「ま、参った」
片膝をつき項垂れる大男が、そう言うと
立ち会い役の侍が、叫ぶ。
「勝負あり! 霧丸!」
どよめく周囲の歓声を他所に、
霧丸は、一礼をして静かに皆の列に戻る。
── あの人が、霧丸……
凛は、河原で見た人物が、襲撃された日に
凛を助けてくれた護衛の者だったと知った。
あの眼差し……
あの優しい手……
凛はまたも、皆の列に並ぶ霧丸を目で追わずにはいられなかった。
「姫様っ!」
ビクっとして、振り向くと志乃が立っていた。
見るからに、怒ってる様子がわかる。
「こんなところにいらして!稽古の時間です!」
「……ごめんなさい」
でも、どうしても気になり志乃に尋ねた。
「ねぇ、志乃。
あの人がこの前、私を助けてくれた霧丸って人?」
志乃は、凛が指差す方向にいる霧丸を見た。
「そうですが…… それが何か?」
あまりにピシッと言われて
凛は、二の句が繋げず焦った。
「えっ!?……えっと……その……この前、
た、助けてもらったでしょ?」
「そうですが…… 何か、ご不満でも?」
またもピシッと言われてしまう。
── もう、ほんとお堅いんだから!
「え、えと、あっ!お礼!
お礼した方がいいかなって」
ようやく、それっぽい理由を捻り出した。
「お礼……ですか?」
訝しがる志乃に、凛は畳み掛ける。
「そう!お礼!
私をたった一人で守ってくれたんだもの。
お礼しなくちゃって思ってたの」
「家来にお礼など、志乃は聞いた事がございません」
── お堅すぎる……
凛はハッとして、
ほくそ笑みながら、志乃に言った。
「霧丸は、私を助けるってお役目を全うしたって事でしょ?亡くなった方達は、本当に残念で、
きちんと弔って、お祈りを捧げられるけど……
霧丸には、私、なにも出来てないから」
凛は、志乃の目を真っ直ぐに見つめた。
「そうですね……。
確かに姫様のおっしゃる事にも一理あります」
── やった!
凛は畳み掛ける。
「そうでしょ!
だから……その……少しだけでいいの。
お礼を伝える時間を頂戴!
飛ばしたお稽古は、後で必ずやるから!」
志乃は、呆れた顔をして、
「姫様のおっしゃりたいことはわかりました。
いいでしょう。ですが!一度だけですよ」
凛は、嬉しさのあまり思わず志乃に飛びついた。
「ありがとう!志乃!」
驚いた志乃は、凛の頭を優しく撫でながら
── そんな知恵を授けたつもりは……
全く無いのですけどね。
ふっと微笑みを浮かべた。