【第5章 第十話「誇りとは」】
初夏の柔らかな風が、まだ少し暑さを残した日。
凛は、小さな肩に覚悟をのせて城を出た。
神事のための参拝。
格式ある役目を果たすべく、駕籠に揺られての外出だった。
初めてのお役目に、凛は緊張していた。
「無事に終わりますように……」
祈るように、胸元に手を添える。
凛が乗る駕籠の周囲には、
護衛の男たちが固く取り巻き、数は十ほど。
その顔には、緊張と決意が混じり合っている。
道中、鳥の声が響く中、
凛は、ただ静かに首飾りを握りしめていた。
それでも、心の奥には、
まだ知らぬ世界への小さな恐れがちらついている。
駕篭の外から聞こえる鳥の声だけが、
凛の心を日常になんとか押しとどめてくれていた。
だが、
その静寂は、突然、鋭く切り裂かれた。
先導の騎兵が、弓の矢に胸を射抜かれ、
馬から倒れ落ちる。
「ぐはっ」
生々しい声が、夏の空気を震わせた。
「敵襲だ!」
別の騎兵が叫び、凛の駕籠を囲む護衛たちが、
一瞬にして武器を構える。
駕籠の中、凛の手が震える。
初めての体験に、心が揺らぎ
恐怖が波のように押し寄せる。
「どうして……どうしたら……」
凛は、帯に差していた短刀を取り出し、
柄に手をかけたまま、じっと息を潜める。
──母が亡くなる前、凛にくれた短刀
艶のある漆黒の柄に、
金の細工が繊細に施されている。
握るたび、母がそばにいてくれるような気がしていた。
「凛、誇りをお持ちなさい」
短刀を渡される時に言われた言葉を、思い出していた。
──護衛の男たちは、一人、また一人と倒れていく。
突然、大きく揺れる駕籠。
外で聞こえる、刀同士がぶつかる金属音。
叫び声、血の匂い……
──息をひそめたその瞬間
簾が、荒々しく跳ね上げられた。
凛の心が凍りつく。
体は硬直して、動けない。
刀を片手に、獣のような息を荒げた男と目が合う。
「ほう……姫様か。こりゃいい値がつくな」
口元には、汚れた歯を見せる下卑た笑み。
全身から漂うのは、血と鉄と、獲物を狩る獣の匂い。
その男が、ゆっくりと駕籠の中へ手を伸ばす。
凛は、短刀の柄に手をかけたまま……
恐怖で、動けなかった。
──どうしたら……どうしたら
賊の手が、凛に触れようとした瞬間、
凛は目をつぶり、ギュッと身を固める。
── かあさまっ
"ドサッ……"
── 捕まれて……ない
恐る恐る、目を開ける。
賊が、背中を斬られうつ伏せで、凛の目の前で倒れていた。
そっと周りを見渡すと、
そばに誰かの影を感じ、凛は短刀の柄を抜こうとした。
けれど、両手が硬直して、抜けない。
焦る凛の耳に、男の声が聞こえた。
「姫様、ご無事ですか」
凛は、護衛の声に……
いや
どこか懐かしく、温かい……その声に
ホッとして、意識を失った。