「吾輩は『〜』である。」構文。或いは、主人公並びに主要登場人物及びモブキャラと称される登場人物が各自目線で語る時、自己紹介から始めたりするが、誰を相手として話をしているのか?と云う疑問についての話。
大した話じゃ無いです。タイトル通りです。
各投稿サイトなどで、作品を読んで思うんですがね。
登場人物目線で話が語られる体裁のものがあるじゃないですか。
それでですね、
その中に主人公もわりと平然に自己紹介から、
有名どころだと、
「オッス。俺、『〜』。」みたいに始まって、次に自分の立場や役割なんかの設定やらを説明する。
「仕事は〜。」「年齢は〜。」
なんて。
で、以て本題、物語を始める。身に起こった事を話し始める。
そう云う形式。と言って良いのか。
漱石先生の『ねこ』以来なのか、
登場人物が冒頭に自己紹介する。
からお約束みたいに始まるんですが、
『ねこ』は人で無いので、
「ひとでなし」と書くと別の意味になるし、「人外」だと印象が。
そもそも登場.........獣?動?物。
.........なんてことはどうでも良いとして。
偶に、
誰に向かって語って、喋っているんだ?
と云う印象の文章を読む時があるんですね。
そんな経験したこと無いですかね?
筆者だけなのか。
例に出している漱石先生の『ねこ』は明確に読み手を相手に意識して、主人公が語っているのが解るんですが、
違和感が有るのが、作中の人物が名乗って身上を語り始める類の構文になっているモノ。
分かりやすくて、てっとり早いんだろうけど、
おかしくないですかね?疑問に想う人っていないんですかね。
第三者視点でなら登場人物の身上を語ったところで、説明文です。ナレーション扱いですね。
事情を知らない人に説明する登場人物達。
説明される側の、事情を知らない人はどこにいるのか。それって同じ世界の登場人物に向けてなの?
だって、それまで作品世界の中だけで完結していたのが、突如として読み手を巻き込む。
ドラマの画面の中から、演劇の上演中に舞台上の俳優さんから突如として(設定上の)身の上話とか状況説明を話しかけられる視聴者、観客席の私。
そんな感覚。
日本版「ロサンゼルス警察殺人課警部」が本編前と解決前に場面が切り替わって視聴者に語りかける。
は、受け入れられるのですが、
行進している集団を眺めていると集団の顔と目線が進行方向へ向いている中で、ただ一人がこちらを、チラ見では無くガン見、しながら行進をしている。
そんな雰囲気。
読み手に説明する手法として使っているんでしょうが、
読んでいるとニュースやドキュメンタリーなんかで背景の無い別室で関係者、当事者にインタビューしているみたいで、
あっち制作の科学や歴史系の番組で専門家とか当事者のコメントや説明とか解説を聴いている気分になるというか。証言者というか。
ドキュメンタリーなんかだと構成上なんだなと納得出来るんですが。
客観視で全体が進んでいるので。
証拠、証言による補強の意味合いというか。
物語だと流れ方から逸脱したみたいに不自然な気がするんですよ。
まるで、語り部の傍にあたかも質問者が居て、それに答えているというか。
誰の目線では無く、誰への目線。
そんな不自然さ。
感じません?
作品に色々ツッコミを入れる方々がおられるが、筆者の様な事を言う方は、申し訳ないが読んだことが無い。
違和感とか覚えたりしないのだろうか、筆者の感覚がおかしいのか。
文章製作のコツとかを伝授とかでも、そういった記述は見たことがない。
登場人物が自己紹介してから物語が始まる。それって、普通?なんでしょうか。
ご意見、お待ちしています。