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はしゃがない作品

幸せの画

作者: 砂礫零

初期作品です。

 才能、というものは、それがない人間にとっては呪いにしかならない

 好きなだけでは、ダメなのか。

 努力しても、どうにもならないのか。

 小さなコンクールでいくつか賞を貰っても、才能がなければ何の意味もないのか。

 手を抜いたことなどない。ひとつひとつ、自分に描ける限界まで。文字通り、寝食を忘れて取り組んできたはずだ── あの日、父に言われるまでは。


「いかがでしょうか」

 スタイリストの声に、はっと我に帰る。

 黒いスーツをスマートに着こなした彼女の口から出た 『新人だけど才能あるデザイナー』 というひとことで、心が過去へ飛んでしまっていたようだ。

「ええ、いいですね」

 返事をしながら、鏡の中を確かめる。

 右肩が開いたマーメイドタイプのウェディングドレス。膝上までのタイトなラインと海の波のように広がる裾が美しい。控えめなレースとスパンコール、真珠の使い方が上品で華やかだ。 …… デザイナーは本当に才能のある人なんだろう。

(いつだって夢を叶えるのは才能)

 ここにきて、畑違いの人まで羨むなんて、私はどうかしている。

「素敵です。これが一番合うみたい」

「よくお似合いですよ」

 スタイリストの微笑みに応じ、私も笑みを顔面に貼り付けた。

「これにします」

「ほかのご試着は」

「もう、いいです」

 才能ある人たちが作ったドレスをいくら着たところで、私の道はもう決まってしまっている。

「こらこら、真弓さん」 苦笑したのは、付き添ってくれていた婚約者だ。

「お色直しは二回はするよう、母さんたちが言ってたろ。一着は和装だからいいとして、もう一着選らばなきゃ」

「気が進まないもん」

 全く、冗談ではない。嬉しそうに着飾って、集まった古い友人たちに 『過去の夢は諦めました』 と喧伝するだなんて。

 ジミ婚でいいじゃない、と言ったら、周囲から寄ってたかって 『社会的信用に関わる』 と古くさいことを言われ、 『お父さんに花嫁姿を見せてあげて』 と泣かれ…… 仕方なく、この茶番に付き合うハメになったのだ。

 親戚の紹介でお見合いし、 『せめてその程度の親孝行はしなさい』 と迫られて、結婚を決め── しかも父は、結婚式を待たずに先日、逝った。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 けれども、私は世間的には物凄く恵まれていて、不満など漏らしたら世の中からバッシングされる立場で、そして 『何ひとつ私の意思じゃない』 などと拗ねるのは子どものすることだから、 『どんな道も自身の選択の結果』 と無理に自分を納得させるしか、できない。

「克美さんが選んで」

 どうでもいい、を甘えるような物言いに変えるのは、やってみると意外と簡単だった。

 当然かもしれない。ここ十年ほどずっと、私は演技して生きてきたのだから。なに不自由のない生活を送らせてくれる両親に、申し分のない婚約者…… 私の幸せを望む優しい人たちのために、誰もが羨ましがる環境に相応しい演技を。

「カラードレスはこちらです」

 スタイリストに案内されていく婚約者に手を振り、誰も居なくなった部屋で、再度、鏡を確認する。

 鏡の中にいるのは、おしとやかなドレスに包まれ、幸せいっぱいのお嬢さん。顔には、おっとりとした笑みがまだ残っていた。 ── 父に 『才能がない』 と絵を諦めるよう言われた、その時から十年間。

 私は、自分の意思で笑ったことがない。


 父がそれなりに売れている抽象画家だったおかげで、私が絵を描きはじめたのは、記憶にないほど幼い頃からだった。長い間、描くことは私にとって、息をすることと同義だった。

 緻密に正確に描いた事物を組み合わせ、幻想的な風景を創るのが好きだった。二科展にも他のコンクールにも、何度も入賞している。

 飛び抜けてはいなくても、そこそこの才能はあると信じていた。将来は美術大学で教員免許を取り、美術教師になって絵を描きながら暮らそうと…… そうなるのが当然だと、高校生だった私は悩むことなど一切なく、進路を決めていたのだ。

 だが、父は言った。

「大学は普通の学部にしなさい。美術に関わりたいなら、そうだな…… 建築か工業デザイン、CGあたりを学ぶと良いだろう」

 愕然とした。

 まさか父に、そんなことを言われるとは。

 どうして、と尋ねる私に、父は言った。

「情熱も野心も執念も無い者には、芸術の道は厳しい」

「あります。絵が好きだもん。描きたいものが、あるもん」

「趣味で描くといいよ」

「絵を描く以外の将来なんて、考えたことがないです」

「では今から考えなさい」

「いやです。もっと上手くなりたいし、いつも絵を描きたいもん。絶対、美大に行くから」

 私はいつまでもそう主張し、父は、最後にあのひとことを発したのだ。


「お前には才能が無い」

 もしそれが、ほかの教師の言ったことなら、鼻で笑えていたかもしれない。

 けれど、私に絵の手解きをしたのは父だった。私たちは無口な親子で、一緒にお喋りしている時間より、一緒に絵を描いている時間の方が長かった。相手が子どもだからといって安易にほめず、きっちりと 「色使いは良いが構図はもっと良くできると思う」 と批評してくれる父が好きだった。

 私にとって、父は尊敬する画家であり一番の教師だったのだ。

 その父の 「才能がない」 は、私を一撃で絶望させるだけの力を持っていた。

 それは、心のどこかで自覚しつつ、目を逸らし続けていたこと ──

 コンクールでも、入選はするがトップに立てたことはない。どれだけ入念に描いても、どれだけ妥協を省いたつもりでも、百%理想通りに描けたことも、ない。

 美大で学び、努力を重ね続ければ、いつか到達できるのだ、と信じていた。けれども、それがただの夢に過ぎないと、叩きつけられた気分だった。

 そうだ。私には、才能なんてない。だから 『画家』 ではなく美術教師を目指したのだ。 『才能がない』 という事実に蓋をして──。

 数日後、私は泣きながら、それまで描いてきた絵と画材を、ゴミ袋に詰め込んだ。

 以来、一度も絵は描いていない。

 大学はさほど考えずに経済学部を選んだ。陰で 『ナンパサークル』 だなんて言われている、交流が主目的のテニスサークルに入り、バイトをしてオシャレして遊んで、男の子と気軽な恋をして、いわゆる青春を謳歌した。大学卒業後は派遣会社に登録し、気が向いた仕事があれば応募してしばらく働き、仕事がない時は旅行に行った。

 将来のことなど、どうでも良かった。絵を描かない人生は、余生だ。幸い実家は裕福。精一杯楽しんで、暇潰しのために適当に働く。その何が悪い。

 私は、幸せなのだ。幸せじゃないだなんて言ったら、一生懸命に働いてる人たち、その日暮らすのもやっとな貧しい人たち、今この瞬間にも暴力をふるわれて泣くことさえできない人たち、世界中の今にも死にそうな子どもたちに申し訳ない。私を産み育て飼ってくれている両親にも、申し訳ない。だから私は、幸せなのだ。

 たとえ、感情をどこかに落としたように、何をするにも、心が全く動かなくなっているとしても。


 楽しく幸せに余生を過ごして、十年経った頃、父に癌が見つかり余命宣告された。そして、私の将来を心配し始めた両親に、親戚から見合い話が持ち込まれるようになった。

 結婚相手? まともな人なら、誰でもかまわない。適当に話を合わせ、適当にニコニコしていれば、見合い相手は皆、私と結婚してもいいと言ってくれた。たぶん彼らの方も、結婚相手なんか、同居するのに邪魔じゃなければ誰でも良かったのだろう。

 だから私も、克美さんがプロポーズしてくれた時、大して深く考えずにうなずいたのだ。

 

「僕と一緒に、幸せになりましょう」 

 なぜ彼だったか、と聞かれたら、そう言われた時に、ほんの少し心が動いたから、としか答えようがない。嬉しい、などではなく、憐憫の情ではあったが。つまり 「かわいそうに」 と思ったのだ。

 ── かわいそうに、この人は、私が何も感じず何も考えない人形であることも知らず、私との幸せな未来とやらを夢見ているらしい。

 ならば与えてあげてもいい。何をしようと、どうせ余生なのだから。

 そんな傲慢な気持ちで、私はプロポーズをOKしたのだった。


 それからは、両親への挨拶、親戚同士の顔合わせに式場の手配…… と、結婚に関する一連の行事が忙しなく続いた。私は貴重な人並みの幸せとやらを手に入れるために、それらを滞りなく処理し、いただく祝福と羨望とお世辞のいずれもに、笑顔で応じる── いかにも、幸せな花嫁らしく。


「旦那様、あれもこれも似合いそう、ってこんなに。どれから試着なさいますか?」

 愛されてらっしゃって本当に羨ましいです、と、スタイリストが両腕いっぱいにドレスを抱えて戻ってきた。赤系統の色が目に飛び込んできて、思わずぎゅっと目蓋を閉じる。

 昔、絵の下地によく使っていた色…… 私の絵は青や緑など寒色系にまとまることが多かったが、その下には必ず赤を置いていたのだ。自然の光は目に見えなくても、必ず赤を含んでいる。そして、生き物の皮膚の下には赤い血が流れている。 ── けれども今の私には、その生命の色は眩しすぎるように思えた。

 もちろん、婚約者の方は、そんなこと知る由もないのだが。

「お家に、お父さんが描かれた、赤いドレスの女の子の絵を飾っていたよね。あれ、真弓さんじゃないかと思って」

 亡くなった父の描いた絵の通りに私を装わせてくれよう、ということらしい。

 私の婚約者は、嘘つきで傲慢な私にはもったいないほど、素直で善良で良い人なのだ。


 ── 父が亡くなったのは、つい数週間前のこと。それまで自宅で療養していたのが、容態が急変して病院に担ぎ込まれ、その夜のうちに息を引き取った。

 驚いたことに、私は目の前で逝った父に取りすがり、「お父さん、死なないで」 と叫ぶという芸当を、感情を以てすることができた。私の中にもまだ、悲しみ嘆き、寂しさといった心が存在していたらしい。

 葬式の読経の中で思い出したのはやはり、父の隣で絵を描いていた日々で、私は唐突に、その時間はどうあがいても、もう二度と得られないことを理解した。その途端に、涙が溢れて止まらなくなった。

 きっと、傍目には父の死に悲嘆する親孝行な娘に見えていることだろう。親戚の人も克美さんも、肩を抱いて慰めてくれた。

 けれども実は、私はこのとき、自分がまだ普通の人間であったことにホッとしていた。

 ── 父は、たったひとことで私の未来と心を奪った人だったから。 『亡くなる時、嬉しかったらどうしよう』 とさえ、私は危惧していた。

 実際には、嬉しくはなかった。解放も、されなかった。

 父の死は重く悲しく寂しく、そして、父が死んだ後も、 『才能がない』 という呪いは私を縛り続けている。 ──


「これがいいんじゃないか」

「じゃ、これにする。克美さん、ありがとう」

 いくつか試着した後、お色直しのドレスは簡単に決まった。婚約者の選んだものが特に似合うとは思えなかったが、どちらにしろ、赤は私にはしっくり来ない色だ。ならば、何でもいい。早く終われる方がいい。

 スタイリストに恭しく頭を下げて見送られ、ドレスショップを出た後、私は克美さんに、父の遺品整理のため、しばらく会えないことを伝えた。


 父の遺品は、日常の細々とした愛用品や衣服、画材、そして大量の作品である。

 遺作は、指定があるものはお弟子さんに譲り、母と私の肖像は自宅にまとめて保管、残りは回顧展で売ることになっていた。

 お弟子さんに譲るものは、いかにも父らしい、広大な宇宙を連想させると同時にリズム感のある抽象画が多い。 『ザ・芸術』 という感じではなく、画面から迸るようなエネルギーがありつつも、スタイリッシュで軽やか。個人宅に飾っても違和感のない作風は、父の得意とするところだった。

 回顧展でも恐らく、こうした作品から売れていくだろう。


「こうして見ると、具象画が多いね」

「お父さんはもともと、建物とか静物が描きたかった人だから」

 母によると若い頃の父は、具象画も随分と描いていたが、さほど売れなかったらしい。

「別に悪くないと思うけど」

「具象画は、幸せな絵じゃなければ売れないのよね。大体の人は壁に飾るために買うから」

 改めて見れば、私や母の肖像はともかく、風景画にしろ静物画にしろ、陰鬱な空気の漂うものばかりだ。

 触れば指が切れてしまいそうな鋭い線、影の多い沈んだ色彩。描く対象は、廃墟や割れた皿ばかりだ。ぱっと見、華やかで明るい画面なのに、壊れた花瓶と散乱する花であったり。珍しく可愛らしいぬいぐるみの絵かと思えば、背景は墓石だったりする。

「買われなくても、コンクールではそこそこ評価されるんじゃないの?」

「よく 『古い』 って言われていたわ。絵の世界にも流行があるから。抽象が売れ始めてからは、具象の方はコンクールにも出してないんじゃないかしら」

 母は少し寂しげだった。父が描きたい絵が評価されないことを、純粋に悲しんでいるのはもしかしたら、もともとは絵画に興味のなかった、母だけなのかもしれない。

「せめて色彩だけでも、もう少し明るくすれば良かったのに。ほんのちょっと、抽象みを加えるとか」

「お父さんは、こう描きたかったんでしょう。あなたも、分かるんじゃないの?」

「…… まあ、ね」

 父と絵を描いていた頃、父は私の絵に具体的な指示をくれたことが、全くなかった。何か注意してくれる時は常に 『もっとよくできると思う』 一択で、私はよく、『そんなこと分かってる』 とか 『ここは、こうしたいんだから、これでいいの』 と反発していたものだ。 ── すると父は、『そうか』 と首をかしげ、それから自分のカンヴァスに戻る。

 当時は 『もっと納得いくように教えてくれても良いのに』 と腹を立てたこともあったが、あれは、父なりに私の意思を尊重してのことだったのか……。

「一度、 『売れなくても好きなものだけ描いたら?』 って聞いてみたのよ。そしたら、 『抽象を描く方が好き』 なんて言うのよ」

「それは、嫌いなら続かないでしょう」

「抽象は、注文者の要望に応えるのもラクにできるし、皆さん評価して下さるしで、楽しかったみたい。けれど、具象はね、 『対象物が、描け、と迫ってくるから、仕方なく描くんだ』 と言っていたわ。忙しい時なんか、食事も栄養ゼリーで済ませて徹夜で描いてたりして」

 その父の姿は、私も見たことがあった。必死で絵筆を動かす背中が、声を掛けるのも憚られるほど鬼気迫っていた。そこまでしなくても、個展用や個別に依頼された仕事ではない方の絵なのだから、時間がある時にゆっくりやればいいのに、と思ったものだ。

 考えてみれば、そういう生活が父の寿命を削ったのかもしれない。

「それは、好き、なんじゃないの」

「そう思うわよね? けど、違うんですって。『必要に迫られるから描くけど、描いても描いても対象物にダメ出しされる』 から、それが辛かったみたい。対象物がダメ出し、って、よく分からないけど」

「売れるとか、評価じゃないんだ……」

 ショックだった。

 ── 上手くなりたい。評価されて、売れるような絵を描けるようになりたい。そう、昔の私は思っていた。けれども父は、たったひとことで、希望をへし折ってしまった…… だから、ずっと、恨んできたけれど。

 おそらく父は、私に教えたかったのだろう。芸術の道を志すには、希望ではダメなのだ、と。 『情熱も野心も執念もない者には厳しい』 と父が言った時、私は反発したが、おそらく父は見抜いていたのだ。

 私には 『希望』 はあっても、『渇望』 はなかった。あっさり折られて泣いて、それっきり手放せる程度のものしか、持っていなかった。

 おそらく父は、言いたかったのだろう。 『趣味で楽しくやる方が、お前には向いている』 と。


 けれども 『渇望』 はしなくても、『手放さなければ良かった』 と後悔している私は、確かにいる。

 あの時、諦めなければ良かった。食らいついて、放さなければ良かった。才能がなんだ、私がそうしたいのだ、と何日でも言い続ければ良かった。したいことをする、私にはそれだけの価値がある、と信じられれば良かった。

 どうしてあの時、思い付かなかったんだろう。

 そして全ては、もう遅い。


「お父さん、『真弓にはこんな苦労はしてほしくない。女の子なんだから、キレイにして結婚して子ども産んで孫に囲まれて…… 幸せな人生を送ってほしい』 って、言ってたのよねえ」

 母が、最後の一枚を丁寧に梱包していく。描きかけだったのだろうか、黒く塗り潰された画面がちらりと見えた。

「それって、本当に幸せなのかな」

「何言ってるの。克美さんみたいな、立派な人と結婚するのに、幸せじゃない、なんて言ったら罰が当たるわよ」

「そうだね」 

 母の言う通りだ。結婚式はもう決まっていて、今さら、引き返せない。親戚にも、母にも、克美さんにも、あちこちに迷惑がかかる。

 私ひとりが、我慢すれば、全ては丸く収まるのだ。それに、全く不幸ってわけじゃない…… これまで通りな、だけで。

 虚ろな心のまま、幸せな演技をし続ける。── やがては、自分の心だって、騙せるかもしれないではないか。


 母が、別のダンボール箱を開け始めた。

「あれ? まだあるの?」

「あなたの絵よ。お父さんとふたり、ゴミ置き場から持ち帰って、隠しておいたの」

「才能ない、って言ったくせに」

「娘が一生懸命描いたものを、捨てたい親はいないわよ」

 新居に持っていく? と尋ねられ、一枚を手に取る。青一色で描いた街と森と空に、ぽつんと配した純白の鳥。若山牧水の有名な短歌に題材をとり、『青の世界』 と題したこの絵は、たしか地元の小さなコンクールで端賞をもらったはずだけれど……

「違う」

 思わず、呟いていた。

「どうしたの?」

「こんなんじゃ、ダメだよ。こんな甘っちょろい絵じゃないの、これは」

 自分の描いた絵を、穴のあくほど見つめた。

 『白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ』

 中学生の頃、国語で習った短歌に詠まれた情景の美しさやメランコリックな叙情性に惹かれて描いた絵だ。だけど。

「哀しかろうが哀しくなかろうが、白鳥はああいう風にしか、生きられないんだよ」

 それは白鳥の宿命であり、もし白鳥が空や海に染まるとしたら、また別の哀しさが、きっとあるだろう。

 どういう風に生きようと、生きることは哀しいのだ。ならばむしろ、何にも染まらずにどこまでも、ひとり飛んで行くことを選んだ白鳥に、甘やかな叙情など必要はないはず。

 もっと鋭く、もっと力強く、もっと傲慢に、もっと誇り高く。それが私が描くべき、青の中の白鳥だ。

「これ、描きなおしたい。お父さんの画材使ってもいい?」

 母は驚いたように私を見て、それから、良かったね、と言った。


 イーゼルにカンヴァスを立てる。パレットに絵の具を絞り出すと、父のアトリエに染み込んだ懐かしい揮発油の臭いが、少しだけ濃くなった。

 下塗りは、鮮やかな赤。今の私が、取り戻したい色。ほんの少し溶き油を落として混ぜ、平穏と憂愁に満ちた青い画面の上に、何度も重ね、塗りつぶしていく。

 形のない、ただ広がっていく赤に、吸い寄せられ、引き込まれる。ああそうだった、私は、画布にただ色を塗るだけの作業が、こんなにも好きだったのだ。

 どんな絵も、ここから始まる。下色を塗ることで私は、無限の高みに手を伸ばす。

 いつ届くのか? いつ掴めるのか? いつ得られるのか? そんなことは、問題じゃない。限られた生命しか持たない人間が、そんなことを問題にするなど、おこがましいにも程がある。

 認められなくていい。楽しくなくてもいい。幸せじゃなくてもいい。

 ただ、遥か彼方に耀く、私が描くべきものに、幻惑され、夢中になり、少しでも近づこうと進むだけ。


「せっかく引き離してやったのに、バカだな」

 ふと、父の苦笑混じりの声が聞こえた気がした。それは余計なお節介だったよ、と呟き返して、赤くなった画面をチェックする。溶き油が少量だったから、乾いて続きを描けるようになるのは明後日あたり。厚塗りにする予定だから、完成までには、随分と時間がかかりそうだ。 ──


「そういうワケですので、結婚できなくなりました。婚約解消してください」

 向かい合った頭をウッドのカフェテーブルの方に勢いよく下げると、頭上から、ゲホゲホと激しく咳き込む音と 「冗談…… だよね?」 という戸惑った声が聞こえた。

 克美さんでもムセたりするんだ。その瞬間を目撃できなかったことをちらり、と残念に思ったが、実際はそんな場合じゃ、なくて。 

「いえ…… 本気です。ごめんなさい」

「でも絵ぐらい、結婚しても描けるでしょう」

「そう思っておられる人との生活が、うまく行くわけないんですよ」

「え? どういうこと?」

「キャンヴァスには魔物がいて、取り込まれると周囲のことを一切感知できなくなります。時間もわからなくなるし、声をかけられても聞こえなくなります。耐えられますか? 仕事から疲れて帰ってきたら、部屋中に揮発油の臭いが漂って、奥さんがパジャマ姿のまま髪を振り乱して絵を描いてるんですよ? そんなのが毎日続いたら……」

 小さく息を吐き、アイスコーヒーをひとくち飲んで、苦さに思わず顔をしかめた。

 どうして、十年間も絵を手放してしまったんだろう。どうして、自分の人生なのに、後は死ぬのを待つだけの余生だ、なんて思ってしまっていたのだろう。どうして、結婚なんて誰とでも構わない、としか考えられなかったんだろう。…… もっと早くに気づけば、目の前の優しい婚約者を傷つけることも、迷惑をかけることもなかったのに。

 自分の人生を蔑ろにしてしまったことのツケは、こんな風に回ってくる。

「本当に、ごめんなさい」

 婚約指輪を指から抜き、克美さんに押し付けると、予想外にも、涙が滲んできた。 ── この人と過ごす時間は、それなりに好きだったのだと、失う今になってわかる。

 けれど、私が本当に欲しいのは、 「自分で選んだ」 と胸を張れる人生だ。

 強く瞬きをして、涙を止める。

「ご両親にも親戚にも招待先にも、謝りに行きます。ご迷惑をおかけしますけど、また、スケジュールを教えてください」


 だがここで克美さんの口から出たのは、予想外の言葉だった。

「まだ、僕の方はOKしてないんだけど」

「なんですかそれ。少女漫画のご都合主義展開? 冷静に考えて、こんな女、無理ですよね? 常識無さすぎだし人をコケにしすぎで」

「そうだね。真弓さんがこんな人だったなんて、初めて知った」

 克美さんの口調に責める響きはないことが、ほっとするより、むしろ、つらい。

「ごめんなさい。嘘をついてて」

「僕の方こそ、ごめん」

「どうして克美さんが謝るんですか」

「君を、人形みたいと思ってた。周囲から結婚をせっつかれるのが煩くなってきて、特に問題がないからいいか、というノリでプロポーズしてしまった。君が何を考えて何を思ってるかなんて、一度も気にしたことがなかったんだ」

「じゃあ、お互い様なんですね」

「そう、お互い様」

 私たちは顔を見合わせて、笑った。

 こんな時でさえ、私の罪悪感を軽減しようとしてくれる。私の婚約者は、本当に優しい人だったのだ。

 もしも私が、己の中の空虚に囚われてさえいなければ、きちんと彼を愛せたかもしれないのに。けれども色んなことがもう遅くて、私の前に残っているのはただ、絵を描き続けることだけだ。もう迷うことのない道は、悲しいけれども、清々しい ──


「だから、真弓さん、やっぱり僕と結婚してください。人形じゃない君と、もう一度、やり直したいです。お願いします」

「…… えーと、ですね」

 目の前に差し出される、さっき返したばかりの指輪…… たった今、これ以上は迷うこともないと思ったばかりだったのに。

「結婚式キャンセルがお困りなら、責任はとりますよ。籍は入れず、結婚式だけあげましょうか?」

「そんなに、僕と結婚するのが嫌ですか?」

「嫌じゃないです。けど今度こそ、描き続けたくて、それが一番大事だから、こんな状態で結婚するのは申し訳ないというか」

 己の欲深さが恨めしい。本当は何もかも欲しいから、迷いが尽きなくなってしまう。

 せめて誠実でありたいのに、その方法すら、あやふやだ。

「どうしたらいいのか、わからなくて、困っています」

「じゃあそれを、これから一緒に考えよう」

 克美さんの左手が私の左手を捕らえ、右手が薬指に指輪をはめた。

 振り払えなかったのじゃない。振り払わなかったのだ、と思った。

「……よろしく、お願いします」


 将来、私は、また躓くかもしれない。でも、恐れず、諦めず、精一杯、手を伸ばそう。後悔する前に、一生懸命、闘おう。

 帰宅して、赤いキャンヴァスに今度は青い絵の具を重ね、空と海を作る。青の中をどこまでも飛ぶ白鳥は、少しずつ違う 『白』 を纏った群にしよう、と思った。


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活動報告から伺いました。 素敵なレビュー、おめでとうございます! 親心もわかる年齢になってしまいました(^_^; 年頃の娘を持っていて、どちらの立場も共感できるお話を拝読するととても悩ましいです。 …
うわあ……ちょっと隙間時間に読んで良い作品じゃなかったですね。勢いがあって熱がある、初期作品ってこういうものですよね。誰も悪くないし、皆誰かのことを想ってる。辛いですね……ちょっと重なる部分が多くて危…
幸せの定義ほど難しいものはない気がします( ˘ω˘ ) 極論、その人にとって何が一番幸せなのかは、本人にすらわからないでしょうし( ˘ω˘ )
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