もしも、この願いまでが届いてしまうのなら、どうか、どうか
主人公は人格が混ざることによって口調が少々変わっていきます
ふと視線をやった窓の外、見下ろす形で見えたそれ。
見えたのは幸せそうな雰囲気の二人の人影。
心がざわざわとして、ちくちくとして、もやもやとして、怒りや嫉妬感情が混ざり混ざって。
でもそれが全部ぱっと、シャボン玉のように弾けて、そしてーー
❩
目を開けると飾り気のない天井と自分を包む布の感触にどうやら眠っていたことを知る。
ここはどこだろうかなぜ眠っていたのか、ぼんやりする頭ではすぐにわからない。
とりあえず身を起こすと、周りを囲っていたカーテンが開いた。
「目が覚めたんですね、大丈夫ですか?気分が悪いとか、どこか痛いとかあるかな?」
突然開いたカーテンの隙間から現れた人影に驚きながらも、やっと頭が回りだす。
穏やかで優しそうな男の人。
直接話したことはないが何度か校内で見かけたことがある人だ。
「驚かせてしまいましたね。養護教諭の伊坂です。松下さんが廊下で倒れたと報告を受けて保健室に運んだんだけど、何があったか覚えてるかな?」
倒れて……ああそうか。そうなのか。そうだった。
腑に落ちていく、嫌でも。
「……ちょっとふらっとして、それで。でも痛みなんかは特にないです。迷惑をおかけしました」
そうなんだねと頷いた伊坂先生がカーテンの向こうに消えたかと思うと、ティッシュ箱を持って戻ってきた。
ベット脇の机にそっと置かれたそれの意味がわからなくて首を傾げる。
「もう少しゆっくりしてた方が良いので、まだ休んでいて大丈夫ですよ。カーテンは閉めておきますね。向こうにいるので何かあったら声をかけてください」
またカーテンの向こうに消えていった背から箱に目を向け、もしかしてとそっと手をやった頬は濡れていた。
いつの間にだろうか、どうやら泣いていたらしい。
言外にもう少し泣いていいと言われたのだから、お言葉に甘えて止まるまで待たせてもらおう。
❩
私は昔から好きな人がいる。ずっと近くにいてだからこそ気持ちを伝えにくくて伝えれなかった。
窓の外のあの光景は嫉妬こそすれ、普通ならこんな気持ちを抱くことなんてないはずだった。
ーーーああ、“また”終わったのだ、と。
この恋は終わってしまった。
なぜ確かめもせずにそんなことをと人は言うだろ。一緒にいて笑いあっていただけじゃないのかと。友人同士の他愛ない光景かもしれないと。
私にはあの瞬間で十分理解してるというより理解させられた。
何十何百あるいは何千度目などとうに忘れるほど『私』は同じようなことを繰り返してきた。
『私』は想い人であると『彼』と結ばれたことがない。
産まれ落ちて『彼』を好きになり、その想い人は『彼女』を好きになる。
そしてある時二人の姿を見てすべて思い出し理解させられる、この恋もまた同じだと。
『私』は色々な場所、時間、時代、世界と生まれ変わっては恋をし、そして決められたように悲恋を繰り返す。『彼』も『彼女』も何も覚えていないのに『私』だけが、思い出し繰り返している。
もっと早く思い出せればなにか変わるなどと考えても、思い出すのはいつも二人の気持ちが重なりあったあと。
生まれ変わりまた同じ道を辿った『私』には当たり前にその後の人生があり、様々な道を歩んだ。本当に様々で中には悪女と呼ばれてもおかしくない『私』や狂ってしまった『私』、どうしようもなくてその時の『私』を終わらせた『私』、などと色々な『私』が記憶の中に存在する。
『私』にとって死は、次の何も知らない一時の恋に浮かれそして終わるまでの間の眠りのようなもの。
繰り返すなかでいつからだろうか?全てが虚しくなり、思い出しても叶わなかった痛みがあるのだからと必要以上にあまり記憶を掘り起こすことをやめてしまった。
あぁ、あとどれほど繰り返すのだろうか。
想い人もその相手も決して悪くない、ただ『私』が一人で勝手に恋をして傷ついているだけなのだから。
わかっているのだ。一人勝手な誰にも理解されないこんな無意味なループのような人生の繰り返し。
二人からしたらずっと迷惑な存在だろう。
繰り返すなかで度々涙を流してきた。
今流れ落ちていく涙は今の私、松下雛乃《ひなの》の失恋からのもの。
けれど繰り返す度に失恋の悲しい苦しい終わってしまったという感情、またなのという感情など多くの感情記憶が交差してぐちゃぐちゃになってそれが涙へ、怒りへ、絶望になっていく。
あらかた流し終えたか、落ち着いたのか、最後の雫を拭い、制服を整えてカーテンを開ける。
音に気づいた伊坂先生は座ったままでこちらに振り向いた。
「……先生ありがとうございました。それに迷惑をかけてしまいすみません」
「いいえ大丈夫ですよ。松下さん、ちょっとそこの椅子にかけてくれるかな」
伊坂先生の柔和な笑みとともに示された椅子に座る。
「松下さん、なにか倒れた理由に心当たりなんかはあるかな?事前に提出とかはないから持病とかではないはずですよね」
「………先生すみません。最近ダイエットで食事量を減らしたり、抜いたりしていたので」
最近の私は好きな人のためにと、ちょっとでも痩せたくて無理矢理なダイエットをしていた。これが原因ではないが、どうせそのうちこれが原因で倒れていてもおかしくない。嘘になるが本当のことを話す気はない。
「松下さん、食事は体を動かすエネルギーですから、足りなければもちろん不調がおきます」
「はい」
「それにダイエットにはバランスを考えた食事をしっかり食べるのと適度な運動がおすすめですよ。でもバランス考えたり運動したりって面倒ですから、手っ取り早くて考えてしまいますよね」
伊坂先生はどうやら怒る気がないみたいで、あの柔和な笑みで話している。
「僕はあんまり怒るのが得意でないから、怖くないと思いますが。これからはちゃんと食べてくださいね」
「はい。すみませんでした」
「はい。松下さんの親御さんには連絡をしましたので、迎えにくるそうです。荷物は松下さんのお友達が持ってきてくれていますよ。ベットの横に置いてもらっているので」
たしかにベットの方には見慣れた鞄が置いてあった。
「今日は早退というにはもうすぐ六限目が終わる時間なのでちょっとあれですが、担任の先生には伝えてるので」
私があの光景を見たのは昼休み中、前の移動教室の際どうやら忘れ物をしていたのに気づき取りに向かう途中のことだった。
それなりに眠っていたよう。
「それから、松下さんの事を僕に伝えに来てくれたのは同じクラスの渡口菜恵さんという生徒さんですよ。渡口さん心配していましたよ」
渡口菜恵。話したことのないどころか顔も名前も覚えがない。
迎えに来た母には心配され怒られた。謝りに謝ってこれからはしっかり食べることを約束し、なんとか許してもらえた。
その日の晩は食べ過ぎなくらい食べさせられ、朝食も多めの食事をなんとか胃に収めた。
たくさん食べてきついお腹をさすり歩く通学路。当たり前にいつもより歩く速度は遅い。
ふと通り過ぎようとしたコンビニを見て思い出し、学校へと向けていた足をコンビニの方へ向ける。お馴染みの音と店員の声を聞き流し甘い物が置かれた一角へ。
どれにしようと悩む前に今はあまり食べ物を直視していたくないと早々に少しお高めのクッキーと甘さ控えめそうなクッキーを持ちレジへ。
コンビニに寄りながらゆっくりと来たため、あと数分もすれば担任が来る時間に教室に到着した。
「あ!ひな!」
教室へと入るとこちらに気づいた女生徒がそう声を上げた。
「昨日大丈夫だった?心配したんよ」
「そうそう、ひなの荷物保健室持ってけて担任に言われるし〜」
寄ってきた二人は高校に入ってから仲良くなった友人。そのまま席に着きながら返す。
「平気。ちょっと体調悪くなっただけだから。それよりそろそろ席ついた方がいいんじゃない」
「も~、じゃああとでまた話そ」
担任も到着しいつも通りに進む朝。
授業も何も変わらない。
変わらないのだなにも。私の恋が一人寂しく終わりを告げられただけで。
「ひ〜な〜」
またと言っていたとおり二人は一限目の授業が終わると私のもとへとやってきた。
「で、ほんとに大丈夫なん?」
「本当にもう大丈夫よ」
「ならよかったや。でもひなラッキーだよ」
「昨日の五限の英語さ。いきなり小テストあって」
「そーなんよ、あたしらズタボロでさ。今度同じ問題でひなにも出すーつってたよ」
そうやって続いていた他愛ない会話は教室の扉を開ける音と鐘の音によって中断された。
次の休憩時間もまた三人で話すのだろう。仲良くなってからは三人で話すことが常だったから。
けれどどこかの時間で用事を済ませなくては。
「次、渡口読んでくれ」
「………は、い」
教師の言葉に反応し教科書を読み上げる女生徒へと目を向ける。
同じクラスに所属しているのだからといっても全員の顔名前を覚えてはいない。けれど昨日の伊坂先生の言葉もあり彼女の名前はしっかりと記憶している。
渡口菜恵さん、おとなしそうな子。
終わりを告げる鐘に息を吐き、鞄から今朝買ったクッキーを取り出そうとした。
が、次の授業を思い出しその手を止め、机の中から教科書類を出し席を立つ。
「ひな、一緒行こ」
「えぇ」
「えぇってwちょっとひなずっと思ってたけど今日しゃべりかた変くないw」
「そう?」
教科書類を持つ二人と一緒に教室を出ると、廊下の先に一人歩く渡口さんの背中が見えた。
二人の会話は相変わらず止まらず適当な相槌を打ちながら二つ隣の教室の前を通り過ぎようとした時、チラリと見えた光景。もう流す涙はないし、どうでもいいと視線を戻し通り過ぎようとした。
「ちょっ!ひな、あれ!」
「うっわ、何?うるさ……てマジ?」
どうやら気づいたらしい二人は通り過ぎようとした教室の中を凝視している。
「ひないいの?!あれ、あれ!」
「あんたの幼なじみくん他の女と仲良さそうに話してるよ?!」
「そうね」
「はぁ?反応うっす。あんたどうしたのちょっと」
「そうね」
どうだっていい。もう終わってしまったことは私自身がわかりきっているのだから。
「あぁ、松下さんたちじゃん」
騒ぐ友人たちに気づいた女生徒がこちらに話しかけてきた。どこか嫌みったらしい笑みを浮かべて。
「ねぇねぇ知ってる?あの二人ね、昨日から付き合いだしたらしいよ〜」
そういえば彼女は私が幼なじみに対して頻繁にクラスに来ては話しかけたり、他の女子生徒と話しているのを睨みつけたり、邪魔したりとまあ煩くしていたことに心底迷惑にしていただろううちの一人だ。
恋は盲目で他人に迷惑をかけても気づかないなんてことはよく知ってしまっている。
彼女を含めたくさん迷惑かけた人たちがいる。
まあもうそんな迷惑はかけないけれど。
「そう。ねぇ今までうるさくしてごめんなさいね。もうそんなことしないから安心して」
「……はっ?え?ちょっと…!」
「えっ?えっ?」
歩きだした私を小走りに追いかけてきた友人たちは意味が分からないという顔をしながら話しかけてくる。
「あんた今日やっぱ変!?」
「ひな幼なじみくんのことめっちゃ好きじゃん!いいわけ?てかもしかして付き合いだしたの知ってたん!?」
「そうね」
直接あの二人から聞いたわけでも誰かから聞いたわけでもないけれど、昨日思い出してしまった時点でそうなっていてもおかしくないこと。
「はぁ〜?!それでいいわけ!ひなあんたずっと好きだって、今まであんないっぱいアピッてたのに」
「そうだし!それに幼なじみでひなの方が長い付き合いじゃん!あんなぽっとでの女に横取りされていいわけ?」
誰かを想うこと、想われることは付き合いの長さが優先されるものじゃない。私はそれを嫌というほど経験している。
段々と彼女たちはヒートアップし聞くに堪えないほどの罵詈雑言をあの彼女に対し吐き始めた。
「ねぇ、黙ってくれる」
「………はっ?…………ひ、な?」
「彼は彼女を選んだの。私もう二人に関わりたくないの」
彼女にどれだけの罵倒をしたところで、彼にどれだけの想いを注いでも意味のないこと、時間の無駄。
驚いたまま廊下で立ち止まる彼女たちをそのままに、次の授業の教室へ。
後から遅れてきた二人はこちらに何か言いたそうにしながらも、鐘の音と教師に追いたてられそれぞれの席へと着席した。
授業後いつもなら一緒に教室へ向かう二人をおいて歩きだす私の背をパタパタと足音が追ってきた。
「まってひな!ちょっと」
「ねぇひな!」
授業中もチラチラとこちらを伺う視線もあり大人気なかったのではと少し反省はしている。
けれどもとから恋に盲目的で周りへの迷惑を理解していなかった私に肯定的で、時には女子生徒たちを共に罵倒していた二人だ。
きっとあれくらいじゃ理解も反省もしていないだろ。
いつまでも応えることのない私の肩が掴まれた。
「ねぇさっきからさ、ごめんて言ってんじゃん!」
ここがもう教室の中だというのは気づいているのだろうか。
「幼なじみくんが付き合いだしたんがショックかもしんないけどさ、こっちだって同情してんじゃん?!」
「なのになんなのあんたその態度!やっぱ変だよあんた」
二人の憤りがこちらに向き、大声での罵倒が飛ぶ。
周りは何事とこちらを見ているが、止めに入る様子はない。
その中には怖いのか小さくなった渡口さんの姿もあった。
「そうね、今日の私は変に見えるでしょうね。でももうこれが私なの。さっきも言ったけど二人が付き合うことに対してどうの言う気もないし、関わる気もないの」
結局二人は理解できなかったようだけれど、鐘の音と担当の教師が来たことにより席に着くしかなくこちらを睨みながらも離れていった。
どこか教室の空気が悪いのを感じながらも気づかないふりをしながら教師は授業を始め、終わった後もどこか微妙な空気の中お昼休憩が始まった。
そんな中で当事者でもある私はお弁当と朝買ったクッキーを持ち、先程教室を出ていった背中を追いかけた。
教室から離れた場所でその背中に声をかける。
「渡口さん」
びくりと揺れた背が振り向く。
「驚かせてごめんなさい。昨日のお礼が言いたくて、少しいい?」
「………だ、いじょうぶです」
先程の出来事を含めあまり良い印象のないだろう私から声をかけられたせいだろうか、渡口さんはまた小さくなってしまった。
「昨日私が倒れたのを伝えてくれたって、伊坂先生から聞いて。ありがとう、助かったわ。これお礼なんだけど」
持っていたクッキーを二種類とも差し出す。
「好みがわからなくて甘いのと甘さ控えめのをそれぞれ選んでみたんだけど、よかったら貰って。本当はもっとちゃんとしたものを用意したかったんだけど時間がなくて、今度ちゃんとしたものも用意するわ」
「そん、な!わたし、大した事してなくて!あ、ありがとうございます…」
あわあわとしながら受け取る彼女はなんだかかわいい。
「それと今まで私渡口さん含めてかなり周りに迷惑かけてたでしょ、ごめんなさい。用はこれだけだから、大切なお昼休憩の時間を戴いてごめんなさい。それじゃあ」
頭を下げ、踵を返し渡口さんとは別れ進む。
一緒に食べるような仲の人ももういないのだしどこか良さげな場所で一人お昼をすませようかと、校内図を思い浮かべ思案する。
「……ぁ……ぁ…あ、あの!」
後方から必死に絞り出したかのような声がした。
「?」
ちょうど今周りには私と渡口さんしかいない。ならば、その絞り出したかのような声は渡口さんだろう。
「…ぁ、あっの、えっと……一緒に、お昼食べま、せん、か……」
「……えっと私と?」
「は、はい…」
今にも消え入りそうな誘い。
どうせ一人で昼食を済ませる予定であったのだしとわざわざ断らなくてもいいかなと、
「私でいいなら、一緒にお願いします」
「…………は、は、はい!」
私より少し背が低い彼女はどこから見ても校則をきちんと守っていて、私とは正反対。
着崩した制服、明るく染めた髪に派手なメイク、全部幼馴染に可愛く見られたくておこなっていたこと。
今となればやり過ぎだと思う。
「ここなんて、どうでしょう…?」
渡口さんに連れられて到着したのは、室内の後方半分が物置のようになっている空き教室だった。
中は多く物が置いてあるが適度に掃除されているのか埃っぽくもなく、机や椅子も荷物の中にいくつか紛れている。
「よくここには来るの?」
「あ、はい、その、一人になれるところを探していたら見つけて…」
二人で机と椅子を動かし、持っていたティッシュでさっと拭ってから座った。
それぞれ持っていたお弁当を広げる。
朝手渡された時から感じていたが、お弁当の量がいつもよりかなり多い。
「……ねぇ渡口さんていっぱい食べれたりする?」
「………あ……う……実は、食べ、ます」
ちょうど手を合わせていた渡口さんの顔は何故か赤くなっていた。
自分のお弁当に気を取られていたせいか気づくのが遅れた彼女のお弁当は、いつもよりかなり多い私のお弁当よりもさらにボリュームがあった。
何気なしに聞いてしまったが、まさかと慌てて。
「いや、あのね。今日の私のお弁当がいつもよりかなり多くて!それに朝もいつもより多く食べていて、それでこの量を一人で食べれそうになくて。渡口さんに手伝ってもらえたらって…。あ!そうたくさん食べれるのはいいこだと思うから、渡口さんはすごいと思うの!だから恥ずかしがることじゃないしでね」
「……ふ、ふっふふ」
「あ、そのね」
フォローをしようとしたが慌ててしまって、よく分からないまま捲し立てる私が今度は渡口さんの笑い声に顔を赤く染めてしまう。
「……わたし、人見知りで。どう、人と話していいのか、何を喋るのが正解かいつもわからなくて。それに人よりかなりいっぱい食べるので、何か言われるんじゃて思って、誰かとご飯を食べるのが苦手で。いつも一人で食べてたんです」
高校生となれば成長期であるし、男子生徒や部活動生などかなりの量を食べる人はもちろんいるだろう。けれど小柄な彼女が食べるにしては大きなお弁当で、それを人前で広げることはかなり抵抗があるのだろう。
「ごめんなさい。無神経なこと言ってしまって。本当にただお弁当食べ切れなそうで、手伝ってくれたら助かるなと思って…」
「あ、わたしも勘違いしちゃって…。あの、お弁当手伝います」
「ありがとう、渡口さん」
少しだけ渡口さんのまとっていた緊張した空気が和らいだような気がした。
「……でも、朝もお昼も量が多いのて何かあったんですか。あっ、すいません聞かないほうがよかったてすか…」
「あぁ。……最近ご飯抜いたり減らしたりしていて、そのせいで昨日倒れちゃったの。母からちゃんと食べなさいて心配されて、昨日の夜からかなりの量を出されてて」
「ご飯はしっかり食べないとダメですよ!大食いのわたしが言うのもなんですけど……」
「ええ。昨日伊坂先生に家族、それに渡口さんにも心配されちゃったからもうやめて毎日しっかり食べるわ」
疑っていたわけではないけれど、渡口さんが心配していたと伊坂先生が言っていたのは彼女を見ていたらどうやら本当のよう。
「………もしかしてなんだけど、お昼を誘ってくれたの私とあの二人が喧嘩したから?」
喧嘩というには、私の方が一方的に切り捨てただけだけれど。喧嘩には見えてたであろう。
人見知りなのにこんな見た目が派手なくせに口調が合っていないしで、急におかしくなったような私に声をかけてくれたのが気になりそっと尋ねてみた。
「……は、い。あの、それと、なんだか松下さんがいつもと雰囲気とか色々違う気がしてその…」
「そうね」
終わりとともに思い出して、色々な感情に苛まれて、思い出す前の今の自分と前回まで歩んだたくさんの自分が混じりあう。
これまで何度も繰り返す中で今まで通りの私で過ごそうとしても上手くいかなかったり、それまでの自分よりも他の自分の人格濃く出てしまうこともあった。
なにかもどうでもよくなって繕うことすらしないこともあった。
心すら壊れたことも。
今までの私も、今の私も、これからの私も私であることは変わらない。けれど思い出して混じりあってどうなるかなんて毎回わからない。
それに一瞬で、一晩で落ち着くわけもない。今まだ混じり合いながら今からの私が形成されていく。
今まで通りの私でいようとは思っていたけれど、なんだかあの二人のことでどうでもよくなったのもあるわけで。
今はまだぐちゃぐちゃなのだ。
それにまったく今まで通りなんて大好きな幼馴染に一直線で周りの見えてなかった馬鹿で、愚かな小娘は現実と確固たる揺るぐことのない運命を知ってしまったんだから。無理なこと。
だからといって放棄するようにこんな風に変えてしまったのはいかがなものか、本当に駄目だな。
教室の中でクラスメイトに見られ聞かれながら、もうこれが私だからと言ってしまったからいいのかも知れないけれど。
まあ結局どうでもいいかな。
「ちょっと昨日倒れてから色々ね、心境の変化があったの。だから、かな」
そうどうでもいいこと。
まだ人生は続くわけだし、私が松下雛乃なのは変わらないのだし。
「ねぇ渡口さん、明日からメイクをやめて、制服も校則を守って、それから髪は週末かしら?黒に戻したら、みんなどんな反応するかな。あ、お弁当好きなの勝手に取っても大丈夫だから好きに食べて、無理だと思ったら食べなくてもいいので」
「……えっと皆かなりびっくりすると思います。でも松下さんがいいのならきっと大丈夫だとわたしは思います。……実はわたしこのお弁当でも足りなくて、追加でパンとかお菓子とか食べちゃうこともあるんです」
引きますよねと小さく笑う彼女はなんだか好きだなと思える。
「ごちそうさまでした」
当初は母には悪いけれどお弁当は残すことになると思っていたのに、渡口さんのおかげですべて食べ終えた。
それでも無理くり胃に入れた食べ物たちはかなり苦しい。
母には適量で本当に大丈夫と伝えなくては。
「誰かと食べるのはなんだか楽しいですね」
机などを片付けながらこぼれた彼女の言葉にえぇとうなずき返す。
❩
次の日渡口さんに言ったとおりメイクも制服も変わった私を見たクラスメイト達は、チラリとこちらを見たあとヒソヒソと話している。
担任の教師やそれぞれの教科の教師に私に何度も校則を守るように言っていた教師、みな驚いていた。
特によく注意していた教師に至っては熱でもあるのかと心配された。なんだか面白いなと思いながら、週末には髪も黒く戻すと伝えるとさらに驚き涙すら浮かべていた。
まあずっと問題児中の問題児がなんの心境の変化かがらりと変わってしまったのだから。
「じゃあ二人以上でグールプを作って進めてください」
教師の声にそれぞれ仲のいい同士で集まり固まっていく。
いつもならお決まりの三人でグールプを作るところだけれど、まあ当然といえば当然のことで突き放した私に二人は声をかけることもない。ちらりとはこちらを見たけれど。朝もいつもと違う私を見て二人は眉をしかめていた。
まあそれはいいとして、問題は二人以上のグールプということ。
授業の中でのグールプ課題の取り組み。逃れはできない。
もともと周りからあまり好印象を持たれていなかった私に声をかける生徒なんていないわけであるし。
このままだと教師からどこぞのグールプに入れてやれとの誰も望まい押し付けが起こるだろう。
さてどうしたものかと教室内を見渡すと同じようにポツンと座る人影。
ちょうどいいとも思ったしなにより好ましい相手で、私は席を立ち歩み寄った。
「渡口さん、良かったら私とグールプを組んでくれない?私渡口さんと組みたくて」
「……松下さん」
「駄目なら断っていいから」
「あ!いや、わたしなんかでいいなら」
決まりねと必要な教材を持ち、近くの空いていた机を彼女の机に寄せる。
教室の中はグループができたところからざわざわとしながら課題をはじめていく。
「…あの、朝、みんな驚いてましたね」
「そうね、なんだか反応が面白かったわ」
「髪も染めるんですよね」
「えぇ」
休日に髪を黒に戻し登校したなら今度はどんな反応をされるのか。
最初はざわざわとされるかもしれないがそのうち私の変化なんて当たり前になる。
「………ぁ…………ぁ、の…松下さん、その、今日もよかったら一緒にお昼食べませんか…?」
絞り出したかのようなか細い声。人見知りの彼女にとって人を誘うことは緊張することなのだろう。
「えぇ、一緒に食べましょう」
「はい!」
嬉しそうに笑う姿はやはり好感が持てる。人見知りだから難しいのだろうけど、普段からそんな風に笑っていれればこの子は私なんかじゃなくて他の生徒たちとも交友を持ってるのだろうに。
£
気づけば雨雲が空を灰色に染める季節になり、じめじめとした毎日が訪れていた。
あれから渡口さんとは毎日お昼を一緒に食べている。
渡口さんはだんだんと緊張がなくなり、絞り出すかのような声も減り笑顔をよく浮かべている。
「どうしよう……」
けれど今は困った表情で立っている。
それもしょうがないことで、よく使っていた教室は片付けのため立ち入り禁止と張り紙がされており使用できなくなってしまった。
他にもいくつかお昼を取るために使用していた場所もこの梅雨の影響か、外などで食べることができないために他の生徒がいたり。
人前では恥ずかしいとお弁当を広げられない渡口さんにとっては困った事態。
「もしかしたら他にいい場所があるかもしれないし、探してみましょう。大丈夫」
「ごめんない。松下さんに迷惑かけて……」
「全然、私だって渡口さんに迷惑かけて助けてもらったんだから」
倒れた時もお弁当の件も人見知りの彼女には頑張ったことであるし、助けられた身だ。
とりあえずどこかその場しのぎでもお昼を二人だけで食べられる場所がないかと、歩き探すがなかなか見当たらない。
このままではお昼休みも終わってしまう。
「あれ?どうしたんですか。何か困りごとでもありましたか」
「……伊坂先生」
「はい」
歩くうちに保健室の近くまで来ていたらしく、あの日以来久しぶりに会う伊坂先生が廊下に立っていた。
「私たちお昼を食べれる場所を探していて。他の人がいない静かな場所で食べたいなと、探していたんですけど見当たらなくて」
「なるほど。梅雨に入ってどこも人がいますからね。…………なら、保健室で食べますか?」
「え?いいんですか」
「はい。僕は用事があるので少し外しますが、扉には鍵と不在の札をかけておくので、ゆっくりしていてください」
願ってもない申し出だ。それなら二人での食事もできる。
「ありがとうございます、伊坂先生」
「……あ、ありがとうございます」
人見知りを発揮しながらもお礼だけはなんとか告げる渡口さん。
少し先の保健室まで歩くと宣言通り私たちだけが中に。教室へ戻る際鍵は気にせずそのまま開けておいて大丈夫ですよと伊坂先生は鍵をかけて去っていった。
「よかったです。ご飯食べれる場所があって」
「そうね。伊坂先生と会えて良かったわ」
外は今日もしとしとと雨が降り、少し遠くからにぎやかな声が響いてくる。
いつもと違う場所で二人いつもどおりのお弁当を広げる。
「……伊坂先生ていい先生ですよね」
「そうね」
まだ話したのは二度目だが、穏やかで優しげで踏み込んで欲しくないことには踏み込んでこない。まだ二十代くらいに見えるのに大人で養護教諭としていい先生なのだろうと思う。
「……あの時、松下さんが倒れて保健室に駆け込んだ時にですね。驚いて慌てて人見知りとで上手く説明できなくて何が言いたいか分かりにくいわたしの話を急かしたり困った顔もしないでちゃんと聞いてくれて、松下さんを運んだ後でもわたしの事まで気にかけてくれて。内緒ですよて、わざわざ自販機まで行って飲み物を買ってきてくれて、少し保健室で休んでくださいって。いつもだったら悪いなとか申し訳ないって思うのに伊坂先生に言われたらそんなこともなんだか感じなくて。それに後で思ったんですけどわたしが落ち着くようにて気を回してくれたんだなって。いい先生だなてわたし思ったんです」
伊坂先生は保健室で目覚めて突然泣き出した時にも深く聞いたりしせず、ダイエットの話だけで納得してたのかわからないけど、否定もしなかった。
それからたまにであるけど保健室で昼食をとるようになった。
保健室というのもあって長く不在にするのもよくないので伊坂先生にはいてもらい、保健室の二つあるベットの一つを借り、周りのカーテンを閉めそこで食べている。
保健室を利用するようになって先生とも少しづつ渡口さんは話せるようになっていった。
それはきっと伊坂先生の人柄もあってのこと。
それは毎日穏やかで当たり障りなく過ぎていき、来週には夏休みも始まるそんなある日だった。
「雛乃」
よく聞き慣れた声の主へと無意識に視線をむけてしまったが、すぐに支線を戻しまた歩き出そうとした私の腕が掴まれた。
「腕掴んでごめん、でも話したいんだ」
………分かっている。何も知らない彼を急に避けだし、家族や幼い頃から知り合っている向こうの家族たちも心配していることを知っている。
それでも関わりたくなかった。
彼は優しい。迷惑ばかりかける幼馴染の私にもちゃんと向き合ってくれていた。突然避けるような私のことを心配してくれて、腕だって掴んでいるけれどその力は優しくて振り払おうとすれば簡単にできてしまう強さで。
今も話しかける声は言葉は優しくて、だから私には優しいから痛くなってしまう。本当は今すぐ振り払って逃げ出したいのにできなくて、あぁもうたくさんたくさん流し終えたはずなのにまたこぼれそう。
「ぁ、あっ、あの!!」
突然こだました声は裏返って縺れていて、そんな大きな声出せたのかとその声の主の方へ顔を向ける。
人見知りで不安げで、でも慣れれば穏やかな笑顔を向けてくれる。
「………………渡口さん」
固く握りしめられた両方の拳。人見知りの彼女にとって慣れていない人がいて本当は声をかけるのも怖かっただろうに、それでも大きな声を出して。
「あの、ま、松下さんはわたしと、えっとえっと………あ!そうだ、夏祭り!一緒に夏祭り行くのでその予定を今からたてなきゃいけないので、手を、あの離してもらって、い、いいですか!!」
震える声に迷う視線。
約束なんてしてない夏祭りを口実にして彼女は私を助けようとしてくれている。
「……ごめんなさい」
私は大好きでしょうがなかった人の手から逃れて、彼女のもとへ。
「……渡口さん、行きましょう」
そのまま振り向かず彼女とともに歩き出す。
「…………急に声をかけてしまってすみません」
「いいの」
涙が溢れる前に彼の元から離れられた。それだけで十分助けられてしまった。
「ごめんなさい」
もう限界なの、だから。
「ごめんなさい。次の授業出れそうにないから先生に言っておいて欲しいの」
だから、それだけを言い残して彼女を置き去りにし小走りにどこかえと向かう。
当てなんてない。彼女には本当はありがとうと言って本当に夏祭りに行こうなんて言えたなら良かったのに。
彼の前で固まって何もできなかった、この想いはいつ消えてなくなってくれるんだろか…。
あとどれだけ苦しめば、繰り返せば…。
「松下さん」
突然耳に入ってきた声に何故か足を止めってしまう。今誰かに見られたくない、構わないで欲しい。
でも最近聞き慣れた優しげで柔らかな声。
保健室の前。
「………今誰もいませんから、よかったら中でゆっくり座りませんか」
なんでその言葉に頷いてしまったのかな……。
❩
「ねぇお祭り行くのよね、いつものとこ浴衣出しておくから」と何気ない母の言葉に一気に味の分からなくなった朝食を飲み込んだのは、夏休みが明後日からの朝だった。
毎年近くで行われるお祭りには、幼い頃には私の家族と幼馴染とその家族と、中学生頃からは幼馴染と二人で回っていた。
母は悪気なんてなく毎年のことだからと浴衣を忘れないうちに出して準備してくれるだけ。
でも今年は行けるわけない、だって……。
「松下さん、大丈夫ですか…?」
「……、え、あっ」
心配そうにこちらを見つめる渡口さんの姿に、どうしよもないことに思考が囚われていたことに気づく。
「…ごめんなさい」
朝の母からの言葉にまた感傷にふける自分が嫌だ。
うじうじと面倒臭いなと我ながら思う。
「…あの……なにかあったのなら、わたし聞きますよ。あ、でも話したくなかったら話さなくても大丈夫なので…」
渡口さんはいい子だと思う。
人見知りで周りの目を気にすることで、周りと馴染めていないけれどそれがなければきっと友人なんて他にいくらでもできるだろうに。
そんな彼女を私は利用するのか……。
「……夏祭り本当に一緒に行かない」
「えっ?」
ーー思い出が消えないのなら上書きできないだろうか。
夏休みに入りすぐにある夏祭りは規模も大きく人出も多い。
隣には私服の渡口さん。
「何から食べよう」
そう呟く彼女の目はキラキラと輝いていて、周りにいる子どもたちと変わらないように見える。
母には友達と行くとは伝えてはいないが、今年は浴衣は止めておくとだけ伝えて私服で私も来ている。
二人屋台の並ぶ道を端から歩きながら見て回る。
「美味しい……!松下さんも食べますか?」
「うぅん、私のことは気にしないで大丈夫よ」
食事系にスイーツにとあれこれと彼女胃に次々と収まっていく。
ある意味気持ちの良い光景。
楽しそうな彼女を思い出の塗りつぶしに利用しようとしていることに罪悪感が湧いてくる。
周りを見渡せば変わることはあってもお祭りはいつもどおりの景色で、誰も彼も楽しそうで幸せそうな顔が見える。
………もしかしたら彼も彼女と一緒に来ているのだろうか?
あぁ嫌なことを考えてしまった。なんて馬鹿なんだろう。
「ま……まつ…さん……松……松下さん!」
「あ。えっと、ごめんなさい、ぼーとしてたわ」
「大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
心配そうにこちらを覗き込んでくる姿に結局塗りつぶせない罪悪感にさらに気分が悪くなってくる。
「人酔いしたのか、な。気にしないで。大丈夫だから」
「どこか座って休みましょう」
慌てて周りを見回し、どこかないかと探すが人ばかりのこのお祭り会場。そうそうないだうろともう一度大丈夫と伝えようかとしたが。
「あ!あそこなら座れそうですよ。ちゃんとしたとこじゃないけど」
彼女が指差したのは屋台と屋台の間。人の通り抜けができるその場所の先には車止めが見える。
「ちょっとわたし何か飲み物買ってきますね!」
そこに私を有無を言わせず座らせると、今まで見たことないくらいの早さで彼女は走っていった。
一人遠くはないお祭りの喧騒を聞きながら丸くなり、靴に包まれた自分のつま先を眺める。
何をしているんだろうか?
上書きしようとした。あんないい子を利用して。消えないならと、上書きして、思い出を塗りつぶして、見えなくしようとした。
そんなことしても何も変わらないのに、今が終われば次が来る。次が終わればその次が。永遠と続く一人で馬鹿らしい茶番のような恋という想いに振り回されて、どうしようもないのに色々な感情に飲み込まれて。
これは何なんだろう、なんて何千回じゃ足りないほど思った。終わりはいつか来るの?永遠に『私』は……。
「大丈夫ですか?」
優しい心配した声。
飲み込まれていた意識が引っ張り上げられる。
「どこか具合が悪いんですか?」
顔を少し上げた先にいたのは男の人。誰?…………いや、知ってる、そうだ。
薄暗い中で腰を曲げてこちらを見ているのは、
「……い、さか、先生」
上手く声がでない。
……全部がぐちゃぐちゃになっていた気がする。
一瞬今の自分すら見失いそうになっていた。
「……松下さん!大丈夫ですか?一人で来たんですか?他の人と一緒に来ていないのなら、ここじゃなくてお祭りを管理してるテントに行きましょう」
心配するその声に応えなきゃと。息を吐いて吸う。
「大丈夫、です。少し人酔いして。多分暑かったのも…。渡口さんと来てて、それで。……渡口さんは、そう、私のために飲み物買いにいってくれてて」
嘘と本当を混ぜてそう自分が自分であることを思い出すように言い聞かせるように。
また息を吐いて吸う。ちょっとずつ落ち着いてきた気がする。
「……先生はなんでここに」
「あぁ、姉夫婦とその子どもたちと来ていまして。たまたま背中を丸めて座り込んでいる人影が見えて、声をかけたんです。学校の生徒とは思わなかったんですけど、これでも要護教論なので、心配で」
少しはにかむ笑顔になんだかより心が落ち着いていく。
「……心配させてしまってすみません」
「いえ。いいんですよ。夜とはいえ暑いですし、お祭り会場は熱気がありますし、人が多いですから。具合いが悪くなることなんて誰にでもあることですよ。それよりここじゃ危ないので、渡口さんが戻ったらさっき話したテントの方に移動しましょうか」
「そうですね…」
屋台と屋台の間から見える喧騒は幸せそうで、遠い景色のようで、そうまるで自分は蚊帳の外の人間の気がしてくる。
世界の中で一人浮いている存在。
「松下さん。手のひらをこちらに出してもらえますか?」
突然どうしたのかと疑問に思ったがそっと差し出した手のひら。
そこにころりと落ちてきたのは飴玉が三つ。
いちご。
ラムネ。
レモン。
「……?これは?」
「甘いものが好きでいつも持ち歩いているです。実は保健室でもいつも食べてて。松下さんにお裾分けです」
でも暑くて溶けてるかもと少し申し訳なさそうに下がった眉。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ自分からクスリと漏れた音。
「皆には内緒ですよ」
そう呟く先生の向こうから人並みを抜け、こちらへと飛び込んできたのはまたよく知る姿。
汗をかきながらやってきた姿になんだか……。
思い出は上手く塗りつぶせなかったけど、新しい思い出ができたが気がする。
「先生。飴、ありがとうございます」
今しっかりと笑えてる気がする。
❩
夏休みも終わり暑さも鳴りを潜めていき少しづつ空気が変わってきた今日この頃。
雨が降っている。
秋雨だ。
気分が悪い。
ずっと続く雨にただ気分が悪くなる。
最近雨の日だけだけれどまた食べなくなったと母が心配している。でも気分が悪い。雨が降るとどうにも気分が悪くなる。いやこの時期、秋に降る雨にだけどうしてもそう感じる。
毎回そうだ。繰り返す中でいつも秋に降る雨に気分が悪くなる。
なぜ?
わからない。
でもただわかることは、気分が悪くて仕方がないのだ。
心配をされてもどうしようもなく、ただ早く秋が過ぎれば、雨が止めばいいのにと思う。
大丈夫という問い掛けにうんざりとする。余計に気分が悪くなっていく。
ぼーと窓の外を、雨を眺める。
雨の音と少し遠い喧騒に僅かな衣擦れの音。
ぱちりと手を合わせごちそうさまと呟く声。
最近の秋雨の日の私のお昼休憩はこうやって過ぎていく。
初めは心配していた渡口さんもだんだんと私がこの雨の中では大丈夫と一言さえ気だるげに、呟くことすら怠そうにしているのを経験し、ただ窓の外を眺める私をそっとしてくれている。
できるだけ静かな場所にいたくてお昼は変わらず一緒にいるが、私自身は特に何かを口にするでもなくぼーとしているだけ。
申し訳ないことだけれど、でも放っておいてほしい。
今日は一段と雨が酷い気がする。
雨音が響いて、響いてーー。
もしあの時『あなた』が『私』のことを放って『彼女』のもとへと……。
光。
轟音。
悲鳴。
何がおきたのか理解するのに時間がかかり、数拍おいてあぁ雷だと気づく。
そして今私は何を考えていた?
「松下さん」
声。
なに?
こちらに向かって伸ばされて手にはハンカチ。
「?」
靄がかかった思考では意味がわからず。じっとそのハンカチを見てしまう。
「ごめんなさい。でも涙が」
手をやる頬は濡れている。
なぜ?
わからない、何故こんなにも気分が悪くなるの?気が滅入って、雨を眺めて、時間だけが過ぎていく日々がなぜ同じように繰り返されているの。いつの私も何もわからずになぜこの得体のしれない時間を繰り返すの。
秋雨に覚えていない“なにか”があるの?
「ねぇ私どうしたらいいの?」
口からこぼれたのは誰に対してかわからない問。
目の前の渡口さんへ?
自分へ?
前の自分?
その前、さらに前の、またどこかの前の自分?
「どうして繰り返すの?どうしようもない恋の痛みも、この雨の得体のしれない気持ち悪さも」
止まらない。涙が、言葉が。
「次はて、思っても気づけば同じ。同じ痛みが心を突き刺すの。逃げても同じ。何度繰り返したの?いつが始まり?いつが終わりなの?いっそ次なんてなくて、永遠に目覚めたくない。ねぇ誰か教えてよ。私はいつまで生まれ変わって、恋をして、その恋が叶うはずのない泡沫だと苦しめばいいの。もう嫌なの。お願いもう終わりが欲しいの。………ただ楽になりたい」
自分自身が今何を口にしているのか全くわからない。
「ねぇねぇ」
雨が窓を叩く。気持ち悪い。
「わ、たしは、恋をしたことがなくて。松下さんが、幼馴染さんのことで苦しんでるのは何となくわかっても。本当は、何もわからなくて。でも松下さんが言ってる終わりは恋の終わりじゃなくて、死にたいって消えたいってことのように聞こえます。わたしそんなの許さないです」
怒りを含んだ声がする。
焦点があっていない視界の中声の主を探る。
「わたし、友達今まで全然いなくてもわかってたんです。ちょっと友達が出来たって浮かれそうになったけど。本当は松下さんわたしのこと友達と思ってないて。松下さんあの倒れた日から変わって、全部を線引してるって。でもわたしもわかっててその線を飛び越えなかった。最近雨の度に松下さん青白い顔してどこか遠くを見てて、何かあるんだろうけど話てくれなくて、でも自分からも大きく一歩踏み出せなくて。本当に友達なら話してくれたかなって。そんな風に考えるくせに何もできない。でも、でも!死にたいはなしです!」
そうだ、私は家族にすら線を引いて、家族みんな私の様子がおかしいて気づいていて心配しながらもいつも通りに接してくれて。優しさに甘えている。
目の前にいる彼女も私に線を引かれているはずなのに、一人でいるよりはとどこか心のなかで利用していた私の隣りにいる。
「これで嫌われてもいいから、だから。わたしにできるだけ話してくれないですか?」
話。
それはきっと繰り返しのこと。始まりも終わりもわからない、自分ですら曖昧なこの永遠に等しい苦しみを。
人に話したことがなかったかと言われれば違う、話したことはある。何度と聞かれても分からないけど繰り返した私は話して、そして色んな返しを受けた。それはどんなだったか?鼻で笑われたか?頭が可笑しいと言われたか?同情されたか?無関心か?
でも今話せば楽になれるかな?楽になれてもまた次はくるのに?
かたりと音がしたほんの僅かな音。
ここはどこ。
保健室。
音の主はそう。
「……待って、先生。お願いします、先生にも聞いて欲しいんです」
どんな風に思われても、どんな返しがきてもいいから、だから聞いて。二人にはなぜか聞いて欲しいの。
訥々とした馬鹿げた話に二人はゆっくりと、ゆっくりと耳を傾けてくれた。
お昼休憩の終わりを告げる鐘の音はどこかで鳴っていたと思う。でも誰も止めずにそのまま。
どこかの前の私も話したはずなのに散らかった私の繰り返しの話はきっと重ねて意味がわからないだろう。
「…………。頭が可笑しいの私」
最後にこれは嘘と言うようにそう付け足して、下げていた視線を上げる。
でも真剣な二人の眼差しを見て、コクリと乾いた喉を鳴らす。
「可笑しいなんて本当は思ってないんでしょ」
そう口にしたのは渡口さんで、その片手は私の手を話の途中から握ってくれている。
「要するに松下さんずっと好きな人を想って苦しんで、苦しんできったてことでしょ。だから前に幼馴染さんに話しかけられた時もあんなに苦しそうだったんですね」
馬鹿にした声なんてそこになくて。
「私さっきも言いましたけど恋したことなくて、だから何が正解かわからないけど、でもまだ松下さんは告白してないんですよね。想いが伝わって一緒にいれるのが一番だと思うけど、でも想いを伝えるってことは勝手なことだと思うんですわたし。わたしが言うなって思うでしょうけど。けど想いを伝えるだけでもしてください。それだけはなぜかきっと松下さんに必要だと思うんです」
わからないなりに答えてくれているんだ。
「告白しちゃダメなんて決まってないですよね」
伝えるのは自由。でも。
「……何も変わらない」
「そうですね。変わらないです。わたし、松下さんが松下さん自身をがんじがらめにしている気がしてます。過去も未来も変わらなくても今だけでも、松下さんの今がちょっとでも幸せになって欲しいです。だからいっそその気持ち幼馴染さんにぶつけて、その後わたしとヤケ食いでもしませんか?」
ぱちりと瞬き一つ。涙が落ちる。ヤケ食い……あぁ渡口さんらしい。
何も変わらない。でも今の私が幸せに……。
恋と秋雨の苦しみは“私”が終わっても、次もまた変わらないかもしれない。
また苦しんで苦しんで、その次へ。
でもそれは次の自分で、今の私はここでただイジイジと悩んでるだけの子どもみたい。
告白なんてただの失恋の確認だろう。
でも、でも、
「私振られてたくさん泣くかも、そしたらまた話聞いてくれる?きっと面倒くさいよ私。……その後ヤケ食いも付き合ってくれる?」
「…はい!一晩中でも付き合いますよ」
「……ならそのままうちに泊まりに来て」
「…………!!!」
声にならない悲鳴をあげる渡口さんに、面倒くさいとやっぱり思われたんだと。
「わ、たし、行事でのお泊り以外同級生とのお泊り初めてです……!」
きらきらしだす目にちょっと心が軽くなった気がする?
イジイジと悩んでいても変わらないのにどうしてずっと引きずっていたんただろ。
「松下さん」
そっと優しい声。
「本当は大人として先生として僕が導いてあげないといけないのかもしれないけど、でも松下さんには渡口さんていう友達がいて、渡口さんがもう言葉をくれているから、僕からはこれを」
差し出されたのは飴玉。
そっと手を伸ばして受け取る。
あぁなんでかな?なんだが大丈夫な気がする。
「私今から告白してきます」
今だと思う。
「今からですか?!告白してくださいて言ったのはわたしだけど、顔色もまだ良くないですよ」
「いいの。きっと今なの」
雨は止まない。
「松下さん、廊下は走らずゆっくりとですよ。ここに戻ってきても大丈夫なので、松下さんらしく行ってきてください」
「ありがとうございます」
保健室から出て先生に言われたとおりゆっくりと進む。
授業の終わりを知らせる鐘の音と溢れ出す人の声。
飾る言葉はきっといらないただ伝えよう。
目は泣き腫らしているし、顔色だって良くない。
でもきっとこんなにも秋雨の中で思考が晴れている今が、恋の終わりにいいと思う。
だから。ねぇ我儘で面倒ばかりかけて最近は何も言わず距離を勝手においてどうしようもない幼馴染の話を聞いて欲しいの。
また勝手な話だけど。
名前を呼んだ私に驚いて、顔色を、腫れた目を心配してくれる優しい人。
ただついてきて欲しいと伝え人がいない方へと。
呼吸を一つ、手には飴玉が一つ。さあ告げよう。
「私ずっとあなたが好きでした」
目は腫れて、青白い顔で全然可愛くない私。でも今笑顔であなたにこの想いを告げているの。
大丈夫答えは知ってるよ。
繰り返したからもあるけど、だって幼馴染だもん。あなたが誰を見ているのかわかるよ。
❩
今日のお昼は一緒にと約束したけど、遅れると申し訳無さそうなスタンプとともに送られた文章。それに急がなくて大丈夫と一文と、同じくスタンプで返す。
アプリを閉じて時間を確認し、時間を潰す算段をする。
なんとなしに見回した街並みに見覚えのある懐かしくも忘れられない姿。
声をかけなきゃと思った。
反射のように飛び出す懐かしい呼び名。
「伊坂先生!」
一人でいるらしい先生に駆け寄る。
「………松下さん?」
覚えていてくれた。それだけでも嬉しく想う。
繰り返しを思い出したことをきっかけに何度も関わり、そして私の話を聞いてくれた人。
仕事だったとしてもあの日々の先生の姿は優しさは嘘ではなかったとわかる。
「卒業式ぶりですね」
「そうですね。松下さんは元気そうですね、よかったです」
「はい、先生こそ」
卒業してから二年、変わらない先生。
「街中で松下さんに声をかけられて、再会できるとは思ってなかったです。僕のこと覚えていてくれたんですね」
「先生こそ私のこと覚えてくれていたなんて嬉しいです」
繰り返しの記憶を思い出して囚われてぐちゃぐちゃになった私を知っている相手だと思うと恥ずかしいけれど、でもあの日々は今の私にとって安らぎに繋がってる。
「今日は買い物ですか?」
「菜恵、あっ渡口菜恵のことも覚えてますか?」
「はいもちろん、覚えてますよ。よく二人で保健室にお弁当を食べにきてましたね」
「あの頃は本当に助かりました。その菜恵と今日はお昼ご飯食べにいく約束だったんですけど、ちょっと遅れるって連絡があって。それでどうしようかなって思ったら伊坂先生を見かけたんです」
「二人とも変わらないんですね」
目を細めて笑う姿に、胸が温かくなる。
なんでもない話はなんだかあの頃を思い出す。
ふられて、それから菜恵とは約束通りヤケ食いにお泊り。それから菜恵に謝って私から友達になってとお願いした。先生とももっと話すようになって担任でもないのに一番伊坂先生に進路だとかの真面目な話もしたし、なんでもない話だってたくさんした。
卒業する時には私の卒業アルバムの寄せ書きのページに一言でいいからとお願いしたな。
幼馴染とは疎遠にならずに今も交流はあるし、彼女さんとも知り合いになった。
今はみんなそれぞれバラバラ、私はとりあえず大学に菜恵は調理系の専門学校に。食べる専門かなと思ってたら、将来的には自分のお店をだしたいと恥ずかしそうに語ってくれた。
「そうだ!先生手を出して貰えますか?」
「はい?」
小首を傾げる先生に、鞄から出したそれを渡す。
「これあげますね」
ころりと落ちた飴玉。
「私先生に告白の前に飴を貰ってから、自分でも持ち歩くようになったんです。嬉しい時、つらい時、怒っちゃうような事があった時、いろいろですけど飴を一つ舐めるんです。それでよしってなるんですよ。なんだかお守りみたいで」
私にとってあの日から飴玉はお守りになった。
どこにだってある特別なものじゃない、でも私にとっての特別なもの。
「なら、そんな大事なお守りのお礼に」
今度は先生が鞄から私に差し出す。開いた手に落ちたのは。
「いちご味」
思い出す。
それは夏祭り。
あの時貰った飴の一つもいちご味で。内緒ですと笑った先生。
トクリと音がした気がした。
恋なんてそう簡単に叶うものじゃないてテレビや本の中や歌、いろんなところで言われてる。
そうだと思う。
でも恋をすること自体は悪いことじゃない。
どうなるかなんてわからない。
「伊坂先生ーーーー」
でも少しでもこの想いが幸せでありますように。
どうか、どうか、
『私』と『貴方』の関係は家同士の繋がりのための婚約者同士でした。
『私』はそれでも『貴方』のことが好きでした。
穏やかで、優しい人。すぐに『私』の変化にも気づいてくれる。『貴方』の優しげな笑顔が好きでした。
この人となら家族として歩んで行けると、何よりも想う殿方と一緒になれると嬉しく思っていました。
世間知らずで恋に盲目になっていた『私』は気づいていなかったのです。
『貴方』には想い人がいたことを。
想い想われ、『私』がいなければきっと結ばれていた二人。
誠実な人であったから、その想いを捨て『私』と一緒になってくれようとしていたなんて思いもしていなかったの。
それを知ったのは偶然か必然か。
『私』は何も見ていないのだと気づき、でもそれでも一緒にいたかった。
けれど『私』は突然病に倒れた。
罰だと思った。
愛する人の何が幸せか知りながら、『私』ならこの状況を変えられたかもしれないのに。
家同士のその間には確かな格差があった。
それに父は『私』にとてもとても甘く、きっと一言でこの婚約はなくせると知っていた。
それでも強欲な『私』は『貴方』の手を離せなかった。
この病で『私』は命を落とすと感じていたから、だから最後の日まではそばにいて欲しくて。
けれど、けれどその強欲さが何よりも自分の醜さだった。
ある日、想い人である『彼女』もまた病に倒れそして命を引き取ったのだと。
そう話した女中は『私』の病に障ると黙っているつもりだったが、回復してきていると言われた医師の言葉を聞き。そっと話してくれたのだ。『私』が『彼女』のことを気にしていることを知っていたから。だから
『私』は取り返しのつかないことをしたのだと、手を離していれば『貴方』は『彼女』のそばにいれたのに。
長くなくとも想う人のそばにいられる喜びを、『私』は身をもって知っている。
『彼女』が息を引き取ったことをきっと『貴方』は知っているのに、それを顔に出さず『私』に接してくれる。
よく気づき、辛くはないか、足りないものはないか、『私』を労ってできるだけそばにいようとしてくれる。
苦しかった。病も『貴方』の優しさも。
外から雨の音がする。
秋雨だ。
雨以外音のしないその中で、『私』は思う。
『私』に罰をください、と。
病では償えないから。
どうか、愚かな『私』に罰を。
そして何よりも『貴方』と『彼女』が今度は幸せになれますように。
二人が心から愛する人と結ばれますようにと。
どうか、どうか、二人がいつまでも幸せになれるのなら『私』はどれだけでも罰を受けます。
あぁ雨音が聞こえなくなってきた。
どうか、どうか。
『私』の番がきたのだ。
どうか、どうか。
『貴方』が今そばに居てくれなくてよかった。
どうか、どうか。
さようなら。
どうか、どうか。
ごめんなさい。
どうか、どうかーーーー
けれど、もしも、この願いまでが届いてしまうのなら、どうか、どうかーーーーー『私』も幸せになりたいーーーー。