【2:ここから始まる】②
俊也とは、半日一緒に過ごす中で通信アプリのID交換もした。
彼は仕事が忙しく、光にも大学がある。
そのため平日はなかなか会うこともできないが、メッセージのやり取りはしていた。
せめてそれだけでも恋人と繋がっていたかったのだ。
彼の属するサッカーチームは社会人メンバーも多いので、集まるのは週末のみ。しかも毎週末に練習があるわけではなかった。もしあったとしても当然ながら強制参加ではない。
《光は週末の予定は空いてるの? 大学は休みでもアルバイトとか。》
《俺は平日基本遅くなる分、よっぽど特別な案件がなければ土日は休み確保できるんだ。だから光さえよかったら次の土曜にでも会えないかな?》
会いたいのは光も同じだ。どう切り出そうかと考えていたところに俊也の方から訊いてくれて、勿体ぶる気もなく素直に承諾する。
《大丈夫! バイトは平日だけなんだ。》
《今年はほとんど毎日授業入れてて大学に行かなきゃならないし、丸一日休みが欲しかったからさ。》
《だから土日はたいていフリーだよ。俺も会いたい!》
いつもと変わらない基礎フォントの文字が、色づいて踊っているように見える。それだけ心が高揚しているのだ。
俊也と恋人として会えるのが待ち遠しく、嬉しい。
《また練習も見に行くね。次いつ?》
もしかしたら、特別な関係になったのだから顔を出さないほうがいいのかもしれない。僅かでも他人に疑念を抱かれる危険は、減らした方がいいくらいは理解していた。
それでも、好きなことをしている、光に対するのとはまた違う意味で輝いている恋人の姿も見てみたかったのだ。
《二週間後かな。しばらくは試合もないし、光と会うほうが優先だから練習は行かなくてもいいんだ。》
返って来たメッセージを確かめ、無意識に眉間に皺が寄る。そういう気遣いの仕方は正直ありがたくないと感じてしまった。
《俊也さんが土日両方出掛けるの大変ならそれでもいいけど、もし俺のためならそんな必要ないよ。俊也さんが好きなことしてる方が嬉しい。》
もちろん彼が「サッカーより恋愛」という価値観なら一向に構わない。ただ、無理をさせたくはなかった。
なんの興味もない、未だルールさえろくに理解しない状態で漫然と眺めているだけの光にさえ、俊也がサッカーを本当に好きで楽しんでいるのは伝わるからだ。
《ありがとう。俺は体力には自信あるんだ。まだまだ若いしな! 徹夜続きなら流石に辛いけど毎日ちゃんと寝られてるし。「好きなこと」するのは全然苦じゃないな。》
そこまで気にしてはいなかったのだが、もしかしたら練習とデートで週末の休みがなくなるのは負担なのでは、という不安も彼が否定してくれる。
《さすが〜! じゃあ次は土曜だね。俊也さん。おやすみなさい。》
光は俊也と次の約束を交わして、翌日も仕事のある彼を思いメッセージのやり取りを終えた。
◇ ◇ ◇
約束の土曜日に駅で待ち合わせて、昼食を取りながら会えなかった一週間について互いに話す。
その中で光は、先日の香との話を俊也に打ち明けた。
「この間の日曜さ、俊也さんと別れて家に帰ったら香ちゃ、あ、姉に叱られちゃって」
「『香ちゃん』でいいよ。光は普段、他の人にはちゃんと『姉』って言えてるだろ? 俺との初対面の時もそうだったし。だから、俺相手ならそんなの気にしなくていい」
つい普段の姉に対する呼び方が出てしまい訂正した光に、彼が告げてくれる。
「あー、うん。礼儀もそうなんだけど、なんか子どもっぽいかなって。小さい時からずっとだから、今更『姉さん』とか言えないし」
実は普段から気にしているのだが、慣れ親しんだ呼び方を変えるのはなかなか難しかった。
正確には、姉に「香ちゃん」と呼びかけることを恥じたことは一度もない。ただ、こういった場合につい出てしまって困るのは確かだ。
「それは別にいいんじゃないか?」
光の迷いを、彼は何でもないように流した。
「例えば、『ママ』とか『なんとかちゃん』は子どもっぽいから他人に対して使っちゃダメだけど、『お母さん』『姉さん』はそうじゃないから構わないってわけじゃないだろ?」
「うん、まあ……」
俊也の言うことは実感できる。
友人にも教員相手に「お母さん」「兄ちゃん」と何の躊躇いもなく使っている者もいるが、せめて友人間に止めておけ、と忠告したくなることもあった。
「場面によって使い分けさえできてれば、実際の呼び方なんてなんでもいいんだよ。少なくとも俺はそう思ってる」
「わかった。一応、姉って言いたいとは思ってるんだけど、つい香ちゃんって出ちゃう気はする」
光はとりあえずその件には片を付けて、話を元に戻した。
「で、さ。あの日、ホテル出たあと香ちゃ、んからのメッセージで気づいたんだ。そのときは俊也さんには言えなかったんだけど、実は外泊するって家に連絡してなかったんだよね」
これは完全に光の問題だと思っている。
しかし俊也も巻き込んでしまった以上、知らせておいた方がいいと判断したのだ。
「あ! そうだよな、夜はそれどころじゃなかっただろうし。朝も、……同じくだったし。え、親御さん心配してなかったか!?」
そのことに初めて気づいたようで、俊也が動揺しているのが伝わって来た。
光の感覚とは別の部分で、彼には年上の社会人としての責任感や矜持もあるのかもしれない。
「それは香ちゃんが上手くやってくれてたんだ。『俺から泊まるって連絡来た』って嘘吐いて」
結局は何も問題はなかったのだ、と光は説明した。
「そうか、よかったな、って言っていいのかわからないんだけど」
俊也は何も悪くないのだが見るからに安堵している様子に、姉の機転に改めて感謝を捧げる。
「一応よかったんだよ、それは。ウチの親、そういうのはわりと緩くてさ。連絡さえしとけば、どこ行こうと泊まろうとダメとは言わないんだ。だからこそちゃんと連絡だけはしろ! って叱られた」
己の失敗を反省を込めて振り返る光に、彼も表面的な慰めを口にすることはなかった。
「それは正論だろ。次から俺と泊まるときは絶対忘れないようにしよう。というか、そういうときは前もって言ってから家出て来るくらいにしないとな」
突発的な外泊自体を止めよう、と提案されて光も同意する。
「うん、できたらその方がいいかな。『信用されてるんだから最低のルールくらい守れ』って言われたとき、なんか自分がすごい情けなくなった」
口にすると、改めて己の至らなさを痛感させられた。
「そうだな。信用には、口先だけじゃなく行動で応えないとなぁ」
俊也はそう言って、少し躊躇いを見せたあと思い切ったように告げて来る。
「……なんかこの流れではちょっと言い難いんだけど。光、今日これから俺の部屋に来ないか? あ、そういう意味じゃなくて一度来て欲しいなって」
「俊也さんて一人暮らしだよね?」
思い掛けない誘いに胸が高鳴るのを感じながら、光は何気ない振りで彼に問うた。以前に本人から聞いた覚えはあるので、一人暮らしなのは知っていたのだが。
「そうだよ。俺は大学から東京に出て来たんだけど、学生時代は男子学生専用って感じの古くて狭いアパート暮らしだったから、とてもじゃないけど人なんて呼べなかったな」
おそらく大学の傍に住んでいたのだろう。学生向けの安価な物件もあると友人に聞いたことがある。
「学生はまあしょうがないよね。俺の友達にも『卒業したらもっといいとこ探す!』って言ってるやついるよ」
大学と就職先の場所にもよるだろうが、卒業を機に、というのはむしろ一般的なのではないか。
「そう。俺も卒業して就職する時に、今のちょっとは広いマンションに越したんだよ。そんなたいした部屋じゃないんだけど、こういうときに『家に来ないか』って言えるのがちょっと嬉しい」
光を呼べることを喜んでいるらしいのがあからさまな俊也に、少し面映ゆくなる。
「そうなんだ。……いいよ、俺も行きたい」
笑みを浮かべて承諾した光に、彼が椅子から腰を浮かせる。
「じゃ、そろそろ出ようか」
頷いて光も席を立ち、彼に続いて店を出た。