【1:溢れてしまう】⑤
◇ ◇ ◇
そして、さっきはどうしても呼び起こせなかった記憶が一気に蘇って来た。
──俺が誘ったんだ。
酔った勢いで、気が大きくなった光自身が。
ずっと憧れていた、でもそれだけは絶対に悟られてはならないと自分を戒めていた、この男を。
『ねぇ、抱いてください。俺、慣れてるし、たまには変わったことしてみるのもいいでしょ? きっと楽しませてあげられるから、俊也さん』
そして半ば強引に連れ込んだホテルで、彼と。
……こんなことなら思い出したくなかった。忘れたままでいたかった。
彼にどう思われただろう。
どうしようもないビッチだと? いや、それより男を抱いたことに嫌悪感を持たれる方が辛いかもしれない。それに。
──香ちゃんと謙ちゃんには知られたくないけど、口留めなんてできないししたくない。俊也さんが言ってやりたいっていうんなら、それも受け入れる責任が俺にはあるんだから。
今すぐにでも消えてしまいたい。己の存在か、俊也の記憶を消して欲しいと願うが、そんなことが叶う筈もないのだ。
この世の終わりのような気分で呆然としている光に、ようやく覚醒したらしい彼がおはよう、と声を掛けて来た。
少し照れたような笑顔で。
いったいどうして?
何故そんなに平気そうに笑っていられる? もしかして、昨夜のことを覚えていなかったりするのだろうか。
それなら素知らぬ顔をしていたらこのまま何事もなかったことになるんじゃ、と光が縋ろうとした微かな希望も、彼の次の一言で一瞬で潰えた。
「昨夜は、その大丈夫だったか? 俺も、……最初はちょっと驚いたけど、でも──」
「ごめんなさい!」
まだ続けようとする俊也の口元に掌を翳してて遮り、光は謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめんなさい、俺酔ってて、いやそんなの言い訳にならないけど」
「あのさ……。光くん、いつもこんな風に?」
尋常ではなく取り乱した光の様子に圧倒されていたらしい彼が、何とか立ち直った様子で言葉を挟んで来る。
「いや、責めるつもりなんかないんだけど、こういうのよくないと思うから。その、こんな身体だけみたいな」
乗っかった俺が言えた義理じゃないんだけど、と苦い表情を浮かべながらの俊也の台詞は光の心に突き刺さった。
──ごめんなさい、俊也さん。
「あの俺、こんな、いつもこんなことしてるわけじゃなくて──」
声が震えて、光は涙が零れそうになるのを必死で堪える。
泣くのは卑怯だ。幼い子どもでもあるまいし、泣いて誤魔化すなんて最悪ではないか。
泣きたいのは俊也の方かもしれないのに。
……しかし、どうしてもこの男に告げておかなければならないことがある。
光がこんなことをした理由。
俊也にはそれを知る権利がある、筈だ。誰でもよかったわけではない。この人だから。それだけは……。
「あなたが好きなんです」
ずっと、ずっと、光は彼が好きだった。
「一度だけでいいから、俊也さんと恋人同士みたいなことしてみたかった、でも──」
──俺は間違えたんだね。こんなのちっとも恋人同士なんかじゃない。ただの、身体だけの。俊也さんだってきっとそう思ったから。
顔を上げると、不機嫌そうに口を引き結んでいる彼と目が合って言葉が途切れてしまう。
ああ、やはり……。
「だったら! だったら、なんで先にそれを言わないんだよ!」
突然、目の前の男が声を荒げた。
「君は俺と寝てみたかっただけなのか? そうじゃないんだろ? 俺の意思は無視なのかよ」
一息入れて、彼がまた話し出す。
「俺は光くんがそういう考え方なのかと。ひとりに縛られずに、その場その場で都合のいい遊び相手を求めてるのかとばかり。だから、……だからそれでもいいかと思ったんだ。それで一時でも、君が俺を見てくれるなら」
……この人は何を言っているのだ? それではまるで俊也が。まるで──。
「これもう告白だな」
ぽかんと俊也の顔を見つめる光に苦笑して、彼が呟いた。
「俺も君も自分の気持ちに精一杯で、相手のことなんて碌に見てなかったってことだよ。いくら誘われて、好きにしていいって言われたからって、その気もないのに男を抱けると思うか?」
俊也の言葉は光の耳には入るものの、今一つ理解が追い付かない。もう完全に光の頭と心の許容量を超えてしまった。
Overflow。
これ以上は無理だ。何もかもが溢れてしまいそうで。
「最初からもう一度、やり直さないか? 仕切り直しって言った方がいいかな」
ベッドの上に座ったままで、恋焦がれた彼が光の手を握って静かに口にする。
「光くんが好きなんだ。俺と付き合ってください」
光は、何度も何度も首を縦に振って承諾の意思を示した。
もう声など出ない。瞳を潤して溢れた涙が、頬を伝い落ちてシーツに吸い込まれて行く。
もう一度、初めから。俊也と……?
「とりあえずシャワー浴びてチェックアウトしよう。それから何か食べに行かないか」
腹減っただろ? 運動もしたことだし? だんだん自分のペースを取り戻して来たらしい俊也が軽口を叩く。
「そのあとのことは、食べながら考えようか。……光、これからもよろしく」
──ありがとう、よろしく、と言いたかったがとても声にならなかった。
◇ ◇ ◇
彼の話をほぼ聞き流しながら、光はぼんやりと思い掛けなく降って来た幸せを噛み締めていた。
それと同時に。
発端が成り行きでも勢いでも、謂わば「結果All right」になるのだろうか。
そんな風に、頭の片隅では俊也が聞いたら顔を顰めそうなことを考えていたのだ。
溢れてしまった気持ちも、涙も。減った分はすでに光の中で元通りになったような気さえする。喜びと高揚で。
そう。あの半年前の出逢いが運命ならば、今日の事故のような出来事もまた、運命なのかもしれない。
これはゴールではなく、あくまでもスタートだ。二人の幸せな未来への。