【1:溢れてしまう】②
「光、暇だったらちょっと付き合ってよ!」
ドアをノックとほぼ同時に開けるなり、姉の香が捲し立てた。
あれは晩秋だった。半年近く前の、運命の日。
「別に暇じゃないんだけど」
憮然と答えた光に、彼女が早口で畳み掛けて来る。
「休みの日に家でぼーっとしてる時点で忙しくはないでしょ! ……頼むわ。謙ちゃんのサッカーチーム、今日試合なんだけど応援に誰か連れて来て欲しいんだって。対戦チームが凄い応援多いので有名なんだってさ」
姉が「謙ちゃん」と呼ぶのは、恋人の井上 謙太郎だ。
大学時代から友人として仲良くしていたらしく、卒業後に付き合い始めてもう一年以上。家にも幾度となく訪ねて来ているし、三人で一緒に出掛けたこともあるので光もよく知っている。
「えー。俺、サッカーなんて全然興味ないし、ルールもよくわかんないよ!? 行って何すんのさ」
どうしても行きたくないというわけではないが逃げ腰の光に、香は容赦するつもりもないようだった。押しの強い姉に毅然と迫られると、どうも分が悪い。
「私だって詳しくないよ、へーきへーき。別に試合に出ろとか、審判しろっていうわけじゃないから。適当に観戦しながら声援送ってりゃいいのよ」
香は特にサッカー好きだと聞いたことはないが、彼氏のチームの練習にも差し入れを兼ねてよく顔を出しているらしい。
ましてや試合は、よほど都合が悪くない限り毎回観に行っているようだった。
──まあ、香ちゃんにも謙ちゃんにもいろいろ世話になってるし、ホントに暇なんだからいいか。
「わかったよ」
仕方なく承諾した光に、姉が安堵の溜息を吐く。
「ありがと! 約束してた友達にドタキャンされちゃってさあ! 助かるわ〜。なんか奢るからね」
「それは当然だよね」
香の言葉に、光はわざと偉そうにそう言って頷いて見せた。
「香ちゃん! 光くんも来てくれたんだ! ゴメンなぁ、わざわざ休みの日にこんな外でさ。寒くはないと思うけど、ブランケットとかもあるから必要なら言ってな」
試合が行われるグラウンドに到着した姉弟を、謙太郎が頭を下げて迎えてくれる。
「いーよ、別に。今日晴れてて気持ちよさそう」
気遣ってくれる彼に大丈夫だと首を振った。
「そうよ~。夏は暑いし冬は寒いし。今頃が一番だわ」
「まあね。俺たちは好きでやってるからいいけど、応援に来てくれる方はいろいろ大変だよなあ。ホント感謝してる」
謙太郎は恋人に笑顔を向け、光にも改めて礼を言ってくれる。
「俺も普段は家と大学の往復にバイト行くくらいだし、運動もしてないしさ。たまにはお日様に当たらないとね。謙ちゃんの活躍するところも見せてもらいたいし」
恐縮しながらもやはり嬉しそうな彼に、光は来てよかったかな、と考えていた。
肝心の試合に関しては、草サッカーとはいえ慣れていない身には展開がスピーディーでまるで目がついて行けなかった。
けれどそれは最初から織り込み済みだ。
向こうもプレーのひとつひとつにコメントして欲しいなどと思ってもいないだろうし、はっきり言って光など数合わせの賑やかし要員でしかない。
それでも相手チームの陣営は選手の家族総出といった感じで盛り上がっていて、確かに伝手を頼って無茶な動員を掛けてでも応援を増やしたかった気持ちは理解できた。
しかし結果的に光は、その日の試合の勝敗も、謙太郎のプレーがどうだったのかもまったく覚えていない。
それどころではなかったのだ。
──あの、人。なんか、カッコイイ、な。
チームのメンバーの一人だった彼、来生 俊也。
特に目立つ長身でも美形というほどでもなさそうだが、試合を観ながら何故か光はその彼から目が離せなかった。
「香ちゃん、あの人」
「ん? 何?」
無意識に漏れていた声に姉が反応した。
「あの、走ってる、──」
「みんな走ってるじゃん」
「……うん、そーだね」
別に香に彼の名を聞きたかったわけではない。
上の空で思わず零してしまっただけの言葉に対する香の正論にも、光は何も返さなかった。そんな気にもならなかった。
それよりもただ、見ていたかったのだ。彼を。
終わった後に、香や他にも応援に来ていた人たちと一緒に呼んでもらった打ち上げの席。
ただ座ってぼんやり眺めていただけの光にも、メンバー皆で礼を言ってくれて逆に申し訳ないと感じたほどだ。
その場で初めて話した俊也は、颯爽としたプレーからの自信に満ち溢れたイメージとは少し違って、物静かなタイプのようだった。
「えーと、光くん? 香ちゃんの弟さんなんだって?」
名乗ったあとで、彼はそう尋ねて来る。
「あ、はい。そうなんです」
「俺、謙太郎とは大学からの友人でさ。つまり香ちゃんとも同じなんだけど。このチームにもアイツに誘われて入ったんだよ」
確かに言われてみれば、俊也は姉たちと同年代に見えた。座っているから正確にはわからないが、おそらく身長も百七十あるかないかの光と十センチも変わらない。
「だったら来生さんて姉や井上さんと同じ年なんですか? 俺より四歳上なんですね」
「じゃあ二十歳? あ、もう二十歳に、……なってる、よね?」
テーブルに並んだビールやチューハイのグラスに目をやって、彼は少し慌てたように確認して来た。
「はい、もう誕生日過ぎてますから。大丈夫です」
答えた光に、目の前の彼も安心したように笑う。
「そりゃそうか、十代だったら香ちゃんが黙ってるわけないもんなぁ。やっぱ若いね~、大学生?」
四歳も、なのか四歳しか、なのかは時と場合に寄るだろう。しかし学生と社会人ということもあってか、俊也にとって光はずっと年下の感覚のようだった。
「ええ、二年生なんです」
「学校でも職場でもないんだし、そんな畏まらなくていいよ。もっと気軽に喋ってくれていいから」
当然のこととして丁寧語で話していた光は、俊也の言葉に迷う。
年上の人なのにいいのだろうか。こういう時はあまり堅苦しくない方がいいのか? 確かに謙太郎にはこのような言葉など使いもしないのだが。
「あ、はい。……えっと、うん、あの」
「いきなりは難しいよな。いいよ、光くんの楽な方で。でもホントに、タメ口で全然構わないから」
最初はプレー中の勇姿が煌めいて見えた。そういう意味では『一目惚れ』だったのかもしれない。
しかしこうして直に接した際の印象が悪いものだったら、すぐに掻き消えてしまった程度の薄いものだったと自分でも思う。
俊也の親し気な笑顔と口調に、柔らかな雰囲気に、光は間違いなく惹かれていた。
その日の帰り道。
「光が気にしてたのって来生くんだったの?」
送ってくれると言う謙太郎と香と三人で家に向かいながら、姉が訊いて来る。
打ち上げの席で、彼と楽しそうに話しているのを見ていたのだろうか。
「……あー、まぁね」
光は誤魔化すことなく素直に認めた。
俊也と話せた余韻で、まだ少しぼんやりしていたのかもしれない。
「え、何? 俊也がどうかした?」
姉弟の会話に謙太郎が口を挟んで来た。
「なんかね、試合観てるときにあの人誰? って言ってたんだよ。そのときは私も、誰のことだかわかんなかったんだけど」
「そうなんだ。俊也って、普段はともかくサッカーしてるときは結構イケてるからなぁ」
「謙ちゃん、それ何気に酷くない?」
「あ、いや別に貶してるわけじゃなくてさ。いい奴だよ、俊也はホントに。でもギャップが大きいのは事実だろ? 香ちゃんもそう思わない?」
姉とその恋人の会話を聞き流しながら、光は俊也のことだけを考えていた。
最初に魅力を感じたのは『カッコいい』プレースタイルだった筈なのに、すでに光の中の彼は会話しているときの穏やかな笑顔に書き換えられてしまった気がする。