【3:ふたりの未来】②
「香ちゃん。サッカー好き?」
俊也と謙太郎のサッカーチームの試合の応援から帰宅して、光は姉に以前から気掛かりだったことを尋ねてみた。
こうして応援に、……それだけではなく練習にまで行くようになって、もう一年が経とうとしている。
なぜこのタイミングで突然そんな気になったのかは、自分でも説明できなかった。
「何よ、いきなり。うーん、別に。特に興味もないかな」
考える素振りも見せず、香が即座に否定する。質問そのものはそこまで不審感は与えなかったらしい。
「あ、そうなんだ……」
なんとなく「当然でしょ」と冷たく返されるのではないかと感じていた。「好きでもないのにわざわざ休み潰して行く?」と鼻で笑われるのも覚悟していたのだ。
「謙ちゃんが出るから練習も行くし試合の応援もするけど、それ以外でサッカーの試合なんて観たいとも思わないわ」
あっさりとなかなかに薄情な返答を寄越す姉に、光は一瞬怯んでしまった。
「それでいいの? いや、『いいの』って変か。なんというか、好きならいろいろ合わせたくなるもんなのかな、って」
俊也と交際を始めてから、ずっと心のどこかで後ろめたく感じていた事象が不正解だと突き付けられなかったことでかえって混乱する。
「そうね〜。例えば私がサッカーする人に『何が楽しくて、いい年した大人がわざわざ休みの日にボール蹴って遊んでんのよ。バッカじゃないの』とか感じてたら、きっと謙ちゃんとは付き合ってないね。相性がはじめから最悪じゃない?」
あくまでも仮の話だよ! と断って話す香。
「そもそも趣味なんて人によって違っていいじゃない。そりゃあ同じことで楽しめるならいいと思うよ。でもそれは結果でしょ」
「うん、それはまあそうか」
たぶん光も、頭では元々わかっているのだと思う。心が割り切れないだけで。
「だから謙ちゃんに『サッカーやめて』なんて考えたことないし、もし私にサッカー好きになれ、もっとちゃんと相手できるようにしろ、って言うような人なら続かなかったと思うよ。これはサッカーや趣味に限らずね」
話を聞いていると、どうも姉は光と同じような感覚の持ち主らしい。
自己主張が強い方で意見もはっきり表す香と、どちらかというと暢気で少しぼんやりしたところのある光は、昔から「似ていない姉弟」と見做されていたのに。
それにしても、何も考えずに口にしてしまってから気づいたが、これは俊也のことだと姉には筒抜けに違いなかった。それでも知らぬ振りで、核心には触れずに話してくれる彼女の気遣いが嬉しい。
あれ以来、香が光と俊也の「関係」に言及することは一切なかった。まるで何事もなかったかのように、以前とまったく変わりない態度の姉に心の中で感謝する。
わかってはいてもあからさまに揶揄われたりしたら、きっと居た堪れなくて逃げ出したくなったに違いなかった。
「相手に合わせたい人はそれでいいとは思うよ。あと、興味なかったけど実際に関わったら好きになるってのもあるだろうし。ただ私はそうじゃないってだけよ」
「そっか。……うん、ありがとう」
弟が本心から納得できていないのを察したのか、彼女が嘆息する。
「あのさあ。逆に光の好きなもの、……そうね、スマホゲームとか? 付き合ってる人が『そんなのくだらない、やめろよ』って上から言ってきたら腹立つだろうけど、じゃあ興味もないのに話だけ合わせて欲しい? それとも『俺の好きなものなのに、なんで好きにならないんだ』って怒る?」
続けられた香の台詞に、光は反射的に答えていた。
「いや、そんなの自由じゃない? 確かに『やめろ』は嫌だけど、好きになるかどうかは──」
しかし自分の発した言葉の意味に気づいて口を噤んでしまった光に、そういうことだよ、と言いた気な目で姉が微笑んでいる。
「何もかも一緒じゃないと『好き』じゃない、って私は無理だな。相手をコントロールしたがるっていうかそういうの、気持ちの上で対等じゃないでしょ? これは私についても同じ。ただ顔色伺ってもらっても楽しくないよ。まあ他人が自分の考えで、好きなら合わせたいっていうなら止めないけどさ」
諭すように静かに語る香の声が、耳から入って胸の奥に沁みて行く。
姉が命令されて従うような性格ではないのはよく知っていた。
それ以前に、恋人に「命令」するような人間を嫌悪するだろうことも。
「……楽しくない。うん、俺もそう、かも」
「もし謙ちゃんが『邪魔だから来るな』って言うなら行かないよ。まあ、そういう人と上手く行くかはともかく。謙ちゃんは来て欲しくて、私は行きたいの。理屈じゃないのよ」
光もそうでしょ? という声が聞こえた気がする。敢えて口に出さない香は、やはり「姉」で大人なのだ。
「……香ちゃんてホントに謙ちゃんのこと好きなんだ」
ぽつり呟いた光に、姉はわざとらしく眉を寄せた。
「好きじゃない男となんか付き合うわけないでしょ。時間の無駄! 私、ひとりで平気だし」
「ああ、うん。確かに」
香は一人で生きて行ける人間だと思う。
身内の贔屓目だけではなく、綺麗で聡明な、強い女性だ。
「まあね、『あんなつまんなさそうな男のどこがいいの?』って言われることあるよ。でも私は、強引に引っ張ってくれる俺様男前みたいなのには興味ないの。一緒にいて落ち着く謙ちゃんは、私には最高にいい男なのよ」
特に怒りも滲ませない姉に、光の方が腹立たしく感じてしまった。
「それ、ひどすぎない……? 香ちゃんの友達ってそんなこと言いそうな感じしないけど──」
謙太郎は光から見ても頭も性格もよくサッカーも上手い、優しくて尊敬できる人間なのだ。見た目も良い方ではないか。
「友達だったら怒ってるわ。でもただの知り合い程度だからどうでもいい。『あんたにはわかんないだろーねー』って聞き流してる」
平然と口にする香は、他人の評価など気にならないのだろう。
「つまり私がサッカーの応援や手伝いに行くのは、私が行きたいから。謙ちゃんに頼まれても、どうしても嫌なら行かないよ」
彼女の行動理念はごくシンプルだ。それは光も同じ、だけれど。
「好きじゃないのに?」
「サッカーが観たいわけじゃなくて、謙ちゃんに会いたいの。好きなことしてる謙ちゃんが好きなの。……そういうの、光はわかんない?」
光が訊くのに香が答えてくれる。呆れも嘲りも感じない、柔らかな声音で逆に問い掛けられた。
「……わ、かるよ。わかってる、から──」
だから、行くのだ。行っていたのだ、ずっと。
俊也は他人の感情を操ろうとするような人間ではない。それくらいはもちろん理解していた。単に光に迷いがあっただけ。
好きな相手の好きなものに興味を持つのは当然だと考えてしまっていた。
しかし何度応援に行ってゲームを見ていても、競技そのものに対してはまったく食指が動かない。
そういう自分はおかしいのではないか。『恋人』ならもっと──。
今の香の話を聞いて、根本的な誤りに気付かされた。
そうだ。初めて待ち合わせた日、光の都合を優先しようとしてくれたらしい彼にどこかもどかしい気分になったのを思い出す。
自分のことしか考えられていなかったことは棚上げしても、ただ引いて、抑えてくれなくてもいいのに、と真っ先に感じた。
結果として「合う」のはともかく、「合わせる」ことが目的になるのは不自然なのだ。
それでは良い関係など続かないだろう。
共に長く歩むためには、無理しないことが何より大切なのかもしれない。




