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「ターニャ嬢、元気がありませんね? 可愛い顔が台無しだ」
「マ、マクシム様!」
「図書館で何を探してるのかな?」
ターニャは放課後、ルカーシュと顔を合わせないようにすぐに図書館に向かっていた。もちろん、催眠術について調べるためだ。
「催眠術について調べていまして」
「催眠術?」
元々はマクシムに秘密で催眠術をかけるつもりでした……なんてことはターニャは流石に言えるわけがなかった。
「興味がありまして」
「へえ、面白いね。そういえば、旧校舎の資料室にそんな本があったような」
「え! 本当ですか。行って調べてみます」
「ああ、じゃあ一緒に行こうか。あそこは暗くて御令嬢を一人で行かせるのは不安だから」
ニコリと微笑んだマクシムに、ターニャは心から感謝をした。
「ありがとうございます」
「いえいえ、可愛い後輩の頼みだからね」
ターニャはマクシムと一緒に旧校舎に向かった。旧校舎は取り壊される予定らしいが、今は物置のようになっている。
ターニャはその場所は知っていたが、実際に行ったことはなかった。
「初めて来ました」
旧校舎の中は薄暗くて、当たり前だが人気がなくてシンと静まり返っていた。それがターニャには少し怖く感じた。
「そうだろうね。ああ……物が多いから、足元気をつけて」
「はい」
「危ないから手を繋ごうか」
マクシムにするりと手を繋がれたが、ターニャは反射的にそれを拒否した。
「あ、その。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
元々は気になっていたはずの人なのに、ターニャはルカーシュ以外に触れられるのは嫌だった。
「……残念」
「え?」
「ううん、転けないようにね」
ニッコリと微笑んだマクシムは「あの部屋だよ」と一番奥を指差した。
ガラガラ
少し不安な気持ちで扉を開けると、他の場所とは全く違う綺麗な部屋だった。中にはベッドが置いてあり、これはまるで保健室だ。どこからどう見ても、本が置いてあるようには見えなかった。
「マクシム様、ここは保健室だった場所では? 場所を間違ってますよ」
そつがないマクシムも間違うことなどあるのだと、ターニャは思った。
「間違ってないよ」
ガチャン、と内から鍵をかけたマクシムはニヤリと意地の悪い顔で笑っていた。
「……え?」
「ふふ、無防備にも程がある。馬鹿な女は簡単だな」
その表情と酷い言葉を聞いて、普段は鈍いターニャも流石に『おかしい』ことに気が付いた。まさか素敵だと憧れていた先輩が、こんな人間だったことがターニャは信じられなかった。
「な、なんですか。来ないでください」
一歩一歩ゆっくり近付いて来るマクシムから逃げるために、ターニャは後ずさった。
「はは、ここに逃げ場なんてないよ」
その瞬間、ターニャはベッドにつまずいて後ろに倒れてしまった。
「きゃあっ!」
ドスンと背中から倒れると、マクシムもベッドの上に乗って来た。
「こ、こ、来ないで下さい。お願い、来ないで!」
「大丈夫。優しくするよ」
「嫌っ、触らないで」
マクシムが身体に触れようと伸ばした手を、ターニャは必死に払った。
「あのルカーシュが大事にしている君が気になってたんだ。あいつはどう思うかな? 君が僕の物になったって知ったら」
「どうしてルカのこと……」
「ルカーシュは無愛想なくせに、僕より目立っているから邪魔なんだ。あいつが入学してくるまでは僕が一番賢くて、モテていて……みんなから注目を浴びていたのに」
「そんなのただの逆恨みじゃないですか! それに、ルカは私のこと何とも思っていません。だから私にこんなことしても、彼にはなんのダメージもないわよ」
何とも思わない……というのはターニャの嘘だ。付き合ってはいないが幼馴染のターニャが酷い目にあったとわかれば、きっとルカーシュは激怒するだろう。ルカーシュはそういう優しい人だとターニャは知っている。
だけど、恋人でもルカーシュの好きな人でもない自分はそう言うしかなかった。
「くっくっく、そうかな? 君とあいつが仲が良いと、ミカエラ嬢が教えてくれたんだ。君にあいつの綺麗な顔が歪むところを見せてやるよ」
マクシムはニヤッと嫌な笑みを浮かべて、ターニャの制服のボタンに手をかけた。
「ミカエラ様が……?」
「君もラッキーだろ? 僕が相手なんて」
「いやっ! 助けて」
「叫んだって助けなんて来ないさ」
「やめて。やだ、助けて。ルカ、助けて。ルカっ……!」
ターニャは力の限り暴れたが、マクシムに強く抑え込まれていた。
「煩い女は嫌いだ。黙れ」
手を振り上げられたその時、ドンという大きな音と共に保健室のドアが蹴破られた。
「おい、ターニャから離れろ」
そこに立っていたのはルカーシュだった。余程急いで来たのか額には汗をかいており、目はギラギラと鋭く光っていた。
「チッ、なぜここがわかったんだ」
「廊下から見えたんだよ。お前が善人ぶってターニャに近付いてる姿がよ!」
「くそっ、僕はスカした君が嫌いなんだよ」
「奇遇だな。俺も大嫌いだ」
ルカーシュは向かって来たマクシムを殴り飛ばし、ターニャを優しく抱き締めた。
「大丈夫か?」
「ルカ……ルカっ……怖かった」
「助けるのが遅くなってごめん。もう大丈夫だから」
ターニャはルカーシュの胸の中で、ポロポロと泣き出した。
「マクシム、俺はお前を許す気はない。この落とし前はキッチリ取ってもらうからな」
ルカーシュは倒れたままのマクシムに冷たく言い放ち、ターニャを横抱きにして旧校舎を後にした。
「ごめ……ごめんなさい。ルカに迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃない。ああ、でも本当に無事でよかった。心配で心臓が止まるかと思った」
「助けてくれてありがとう」
また泣き出したターニャを馬車に乗せて、ルカーシュはそっと手を繋いだ。
「どうしてあんな場所に?」
「催眠術の本が旧校舎の資料室にあるって聞いて。ルカの催眠を早く取ってあげなくちゃって……思って……」
ターニャがボソボソとそう伝えると、ルカーシュは「はぁ」と大きなため息をついた。
「最近、俺を避けていた理由は?」
「ルカは好きな人がいるって言っていたでしょう? なのに私が傍にいたら、その人に恋人だと誤解されてしまうと思って距離を取ったの」
その話を聞いて、ルカーシュは頭を抱えたまま下を向いた。
「ルカ?」
「……ターニャ、今からとんでもなく恥ずかしい話をするが聞いてくれ」
「え?」
「俺は催眠術なんかにかかっていない。だから解く方法なんてないんだ」
ルカーシュの告白に、ターニャは首を傾げた。
「え? でも急に私への態度が甘くなったじゃない。催眠術がかかっていないならおかしくない?」
ターニャの問いに、ルカーシュは耳まで真っ赤に染めた。
「あれは全て演技だ」
「えん……ぎ……?」
「ターニャが好きだから」
「え?」
「ターニャのことが好きだから嘘をついた! いい加減幼馴染から脱却したくて。ずるいことはわかっていたが催眠術にかかったふりをして、素直な気持ちをそのまま伝えていたんだ」
ルカーシュに真剣な顔でそう告白され、次はターニャが真っ赤になる番だった。
「え……ええ!? じゃあ、あの溺愛っぷりは……その……本心?」
「……そうだ」
「ミカエラ様は? 彼女のことが好きなんじゃないの?」
そう言ったターニャに、ルカーシュは眉を顰めた。
「なぜミカエラ嬢? 彼女はただの生徒会の仲間だ。それ以上何の関係もない」
「そ、そうなの?」
「ああ。俺がずっと昔から好きなのは、ただ一人ターニャだけだ」
ルカーシュはターニャの頬を大きな手で包み込んだ。
「俺と付き合って欲しい。ターニャは……俺のことをただの幼馴染だと思っているだろうけど。返事は今じゃなくていいから、ゆっくり考えて欲しい」
切ない顔で微笑んだ後、ルカーシュの手がゆっくりと離れていく。その手が完全に離れてしまうことが、ターニャはとても嫌だった。だからターニャはルカーシュの手を、自分の手で包み込んだ。
「タ、ターニャ?」
いつも冷静なルカーシュが、戸惑った声を出した。
「私もルカが好き。最近この気持ちに気が付いたばかりだけれど」
「ターニャが……俺を好き?」
「うん。当たり前すぎてわからなかったの。ルカが大事な存在だって。遅くなってごめ……」
ターニャが最後まで言い切る前に、ルカーシュは彼女を抱き締めた。
「嫌だって言っても絶対に離さないからな」
「うん……離さないで」
「ターニャ、愛してる」
そのまま二人の唇はそっと重なった。お互い口付けをするのは初めてだったが、まるでそうすることが当然だと思える程にピッタリと心も重なった。
♢♢♢
「さすがに早くない?」
「早くないだろ。元々俺たちは、卒業したら結婚する予定だったんだから」
あの告白から一週間後、私たちはすぐに正式な婚約者になった。お互いの両親に付き合っていると報告したら『え、まだ付き合ってなかったの?』と呆れられた。そして、お互い家族ぐるみの付き合いのため即婚約が許可されたのだ。
それに私はまったく知らなかったが、私の卒業後の嫁ぎ先はバルテルス伯爵家……つまりはルカの家だと決まっていたそうなのだ。
ルカーシュの両親は、幼いころから息子がターニャのことが大好きだとわかっていたので、ターニャの生家であるシェルマン子爵家に早い段階で婚約の打診をしていた。好きなのに一歩踏み出さない我が子に痺れを切らしたのだ。
ターニャの両親も娘が自分で相手を見つけないのであれば、ルカーシュに嫁がせようと決めていたらしい。
「そういうことは先に言っておいてよ」
「もし相手が俺だって話して拒否されたら、立ち直れねぇだろ」
ルカーシュは拗ねたように唇を尖らせた。その表情は、少年時代のルカーシュのように子どもっぽくてターニャは懐かしく思った。
「ターニャが『別の男に恋愛の催眠術かける』とか言い出すし、俺には『いい婚約者を見つけろ』とか言ってくるから焦ったんだよ。本当は卒業前に求婚しようと思ってた」
「うう、ごめん。無神経で」
「俺はただの幼馴染なんだ、って思い知らされた。だから催眠術にかこつけて、ずっと隠していた気持ちを伝えたんだよ」
「あり……がと」
「もう隠すのはやめにするから、覚悟しとけよ」
その言葉の宣言通り、翌日からルカーシュはどこへ行くにもターニャと一緒だった。
「ターニャ、口元にケチャップがついてるぞ」
「じ、自分で拭けるから」
「俺がしたいんだよ」
ルカーシュはターニャの唇を指で拭い、ちゅっとその指を舐めた。
「……っ!」
「可愛い」
真っ赤になったターニャを見て、ルカーシュは色っぽく微笑んだ。
「キャラ違いすぎでしょう」
「今までは我慢してただけだ。ずっとこうしたかった」
いつもクールなルカーシュが、蕩けるような優しい顔で笑う姿はとても幸せそうだった。
食堂にいる他の御令嬢たちは、いつも笑わないルカーシュの微笑みを見て「キャーーッ」と黄色い悲鳴をあげていた。
「ルカーシュ様、ちょっとよろしいですか」
どこからともなくミカエラが現れ、ルカーシュとターニャの間に無理矢理入ってきた。
「ルカーシュ様、先ほどの授業のことですが……」
ミカエラはターニャを無視して、難しい勉強の話をペラペラとし始めた。特進クラスにいる二人の授業内容は難しく、残念ながらターニャは理解できなかった。
「ルカ、私そろそろ行くね」
居た堪れなくなったターニャは、そっと席を立とうとした。
「ミカエラ嬢」
「はい、何ですか!」
ミカエラは自分が選ばれたのだと勘違いして、嬉しそうに返事をした。
「俺のデートの邪魔をしないでください。授業について話したいのであれば、教師に言えばいい」
「……え?」
「ターニャ、話は終わったから。昼休みが終わるまで一緒にいよう」
ルカーシュは、ターニャの手を取って再度椅子に座らせた。
「ルカーシュ様にそんな低レベルな女似合いませんわ。失礼ですけれど、ターニャ様なんて顔も頭も平凡で、何処にでもいる御令嬢ではありませんか」
ミカエラはターニャをギロリと睨みつけた。
「は? 低レベル? 何処にでもいるだって?」
低く響くあまりにも恐ろしい声がルカーシュのものだと、一瞬誰も気が付かなかった。
「ターニャの笑顔は世界一可愛くて、いつも心が癒される。苦手な勉強も一生懸命努力して最後はできるようになるし、困っている人がいたらすぐに手を貸す優しい子だ。天真爛漫で子どもっぽい一面があるのも愛らしいし、彼女の周りにはいつもたくさんの人が寄ってくる素敵な人だ。それに……」
「ルカ! も、もう……その辺でいいから」
ターニャの好きなところを永遠と話しているルカーシュの口を無理矢理押さえた。ターニャは恥ずかしさで身体中真っ赤に染まっている。
周囲からは「ひゅー」「熱いね」なんて冷やかしの声が聞こえてきた。
「……もういいですわ」
ミカエラは真っ青な顔で、ふらふらとその場を去って行った。
「なんだ。まだ話し足りないのに」
「ルカ!」
「今までは大目に見て来たが、あの女裏では性格が悪くて好きじゃないんだ。ターニャの悪口を言うなんて許せない」
どうやらルカーシュのミカエラが恋仲だったなんて話は、デマだったらしい。
この後、ミカエラは自分より下の身分や後輩たちを裏で密かに虐めていたことが明るみになり、無期限の自宅謹慎になった。匿名の誰かから証拠が送られてきたらしい。
由緒ある家の御令嬢であるミカエラが、清廉なふりをしてそんなことをしていたとあって社交界では大スキャンダルになっていた。こうなっては、もうまともな家に嫁ぐことはできないだろう。
「もしかして、ルカがしたの?」
「さあどうかな。だが、因果応報だろう。ミカエラ嬢は、マクシムに『ターニャを襲えば俺にダメージを与えられる』とけしかけたらしいからね。許せるはずがない」
ちなみにマクシムは、自分に好意を寄せる御令嬢にたくさん手を出していたことがわかり……今や女の敵になって白い目でみられている。一部の貴族令嬢の家から訴えられており、その素行の悪さからそのうち家を勘当されるのではと噂になっている。
しかも、なぜかあの日以来マクシムはご自慢の長髪が丸められていて、正直以前の格好良さは見る影もない。どうしてそんなことになっているのかは不明だが、マクシムはあの日以来学校でルカーシュに会うと真っ青になってガタガタと震えるようになった。
「ルカは坊主も格好良さそうね」
本物の美男子は髪型を選ばない。つまりはマクシムは偽物だったのだ。
「お望みならしてみようか」
「ううん、いいの。今のその髪型格好良いから好きよ」
ターニャが素直にそう伝えると、ルカーシュは頬を染めた。
「髪型だけ?」
「まさか。あなたが好きよ、ルカ」
ニッコリと微笑むと、ルカーシュは左胸を抑えて机に顔を伏せた。
「だめだ。刺激が強すぎる」
「……?」
「俺、やっぱり催眠術にかかっているかも」
「え?」
「だってかかったら、死ぬ程ターニャに惚れるんだろ? これ以上は君を好きにならないだろうと思うのに、ターニャに逢ったら毎回もっともっとすきになるんだ。おかしいだろ?」
「……じゃあ一生解かないから、死ぬまで私に惚れていてよ」
ターニャのその言葉にルカーシュは「ああ」と嬉しそうに目を細めた。
♢♢♢
今、ターニャはルカーシュの部屋にいる。恋人になった二人は休日も定期的に逢っていた。
「ターニャ、目を閉じて。三、二、一……と唱え終わると、あなたは俺のことが好きで好きで堪らなくなる」
ルカーシュはターニャの肩を叩きながらカウントを始めた。
「三、二、一……! はい、あなたは今から俺のことが大好きです」
パチンと手を叩くと、ターニャはゆっくりと目を開けた。
「どうだ?」
「わ、わかんないよ。だってかけられる前から、ルカのこと好きなんだもん」
「……っ!」
ターニャはルカーシュに押し倒され、ぎゅうぎゅうと抱き締められちゅっちゅと顔中にキスをされた。
「結婚まで色々と我慢しているのに、そんな可愛いことを言われたら困る」
「私は本当のこと言っただけで……」
「ターニャ、そういうところだよ」
ルカーシュの欲を持った瞳が、ターニャを捉えて離さなかった。
「愛してるよ」
「んっ……」
ルカーシュの熱い口付けを、ターニャはそっと目を閉じて受け入れた。
何故こんなことになったのかと言うと、ルカーシュがターニャに催眠術をかけたいと言い出したのだ。催眠術は素人がやっても効果がないことが実証されたのに。
「俺も元々ターニャが好きだったから、催眠術にかからなかっただけかもしれない」
「じゃあ、私が他の人にしたらかかっていたかもしれないってこと?」
「……ターニャ、催眠術は一生禁止だ。いいな?」
「催眠術なんて信じてないんじゃなかったの?」
「いいから。絶対にだめだからな」
「ふふ、はい」
二人は微笑み合い、またそっと唇を重ねた。
もちろん催眠術なんかなくても二人は幸せに暮らし、ルカーシュの溺愛っぷりは永遠に続いたのでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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