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「私、多分殺される」
リディスの声は重々しく、消えそうなくらい小さかった。傭兵は周囲を見渡し、耳をそば立てた。今の言葉を聞いたものはいないと信じたい。
傭兵は立ち上がり、店主のいるカウンターへ向かった。空いている部屋を訊ねた後、リディスのいる席へ視線を送る。彼女はすぐに気がつき、傭兵と共に二階へ上がった。空き部屋には質素な机と椅子が置かれている。傭兵は扉と窓の鍵をかけると、すでに座っていたリディスの向かいに腰を下ろした。
「気を遣わせてごめんなさい。……今朝、手紙が届いて」
リディスが取り出した白い封筒を受け取る。傭兵は中の手紙を取り出し、目を通した。リディスの言葉の意味を理解する。
「君か、私か、どちらかなのだな」
リディスはぎこちなくうなずいた。
「私は、まだ死ねない。でも関係ない傭兵さんを巻き込むのは、おかしいと思う」
「なら、なぜ私に話を」
うつむいて流れた黒髪。隙間から見える唇は震えていた。時計の分針が何回音を立てても、リディスの肩に力が入っていく一方だった。
傭兵はこの静寂を破るつもりはなかった。彼女の運命を、他人が変えてしまうのは無責任だ。
「わ、私、まだ……」
震えた声が紡ぎ始めて、虚しく消える。リディスは顔を上げた。瞳に溜まった水が頬を伝い始める。
「お願い。私が死んだら、あの子ーーーー妹に伝えてほしいの。私が死んだことと、それと」
袖で雫を拭っても、とめどなく溢れたものは止まらない。傭兵はそんなリディスを冷たく見つめる。
「お願いは引き受けない。言伝なら別の者に頼んでくれ」
それに、と続ける。
「さっきも言ったが君との関わりは終わっている。君が死のうと生きようと、私には関係ない」
リディスの表情が途端にこわばる。赤く腫らした瞳が傭兵に鋭く刺さる。
「なら、依頼すればいいのよね」
「言伝は引き受けない」
「傭兵はどんな依頼でも引き受けるものでしょう。こんな簡単な依頼、他にないわ」
苛立ちが混ざった声音を傭兵にぶつける。それでも傭兵は一切表情を変えず、淡々と告げる。
「私でなくてもいい依頼は引き受けない」
傭兵は椅子から立ち上がって、扉の鍵を開けた。背後で椅子が騒がしく引きずられた。
「じゃあ、どんな依頼なら引き受けてくれるっていうのよ!私は生きていたい、だから助けてって言えばいいっていうの?!」
傭兵はリディスの言葉を聞くと、鍵をかけ直し、息を荒くした彼女の方を向いた。
「それなら引き受ける」
「……え?」
傭兵は扉から離れ、机に左手をかざした。ぼんやりと光が集まり、手の周りを四角くふち取っていく。傭兵が手を引くと光は失せ、一枚の薄黄色の紙が机の上に現れた。リディスは先までの勢いがかき消されたように、力無く椅子に尻もちをつく。
「さっき、私が死んでも関係ないって、言ったのに?」
「君の言った通り、依頼をすればいい話だ」
傭兵は紙をリディスの前に滑らせた。彼女はぼうっと、何も書かれていないそれを見る。
「君はなぜ、私に話をしに来た」
もう一度、リディスに問いかける。彼女の視線が紙から傭兵へ移った。青黒の瞳は、誰も踏み入れない湖畔のように、静けさを保つ。
「私……まだ生きていたい。こんなことで、約束も、夢も、終わらせたくない」
リディスの言葉に呼応するように、紙に光が纏った。光は不規則に動き回り、何も書かれていなかった紙を完成させていく。刻まれた文字がパズルのように組まれ、一つの依頼文と、リディスの名前に変わっていく。
鼓動のように光が動くだけになると、傭兵は流れる手つきで耳飾りを外し、紙の上に置いた。
「“送者”が依頼を引き受ける」
耳飾りから出た深緑の光が空を舞い、依頼書の最後の印をつける。
「どおりで……貴方、普通じゃない訳ね」
リディスは口元を手でおおった。その様子は、傭兵ーーーー“送者”のことを知っていることを表していたが、ひどく驚いたというよりは、妙に納得したように何度もうなずいていた。
「なんだか、光栄だわ。私は歴史の一端に触れているのね」
「幻に触れているに過ぎない」
傭兵は耳飾りを付け直すと、依頼書を確認してリディスに渡した。
「全てが終わった後に、酒場の店主に渡してくれ」
「信じて受け取ってもらえるとは思えないけれど……」
眉をひそめたリディスに、傭兵は首を振った。
「信じるかどうかではない。これが存在していることが事実なのだから、受け取らざるを得ない」
「な、なるほど」
リディスはつぶやき、丁寧に折りたたんで仕舞った。
傭兵は、机の端に置かれたままの手紙を手に取った。リディスが思わず握ってしまったのか、無惨に丸まっている。
「手紙は一度預かってもいいか」
怪訝そうに口を開きかけたリディスを制止するように、傭兵は続けた。
「前日の夜に君の店へ行く。その時に話させてくれ」
「分かった。……本当にありがとう、傭兵さん」
つややかな黒髪を撫でて、リディスははにかんだ。
リディスがいなくなった部屋で、傭兵は、手紙のしわを伸ばすように手を滑らせた。紙に書かれた文字がひとりでに動き形を返して、別の短い文へと作り変わっていく。眉間のしわを濃くするのには十分過ぎた。差出人は、傭兵がこの仕掛けに気づくことを読んでいる。
傭兵は手紙を灰に変えたい気持ちを抑えた。手紙に込められた魔力は、リディスのものとひどく似ていた。それでいて、決定的に違う。
どれだけ白く塗り潰しても、べったりとついたものを消し去ることはできない。塗り固められて、分厚く際立っていくだけだ。
『お前は何者だ』
赤黒い文字は、傭兵の心を激しく波立たせる。リディスの言伝もそれをいっそう煽る。手紙が瞬く間に崩れ去った。
なんと言い訳をすればいいのだろうか。傭兵は中身の入っていない封筒を見ながら、リディスの目の前で黙り込んでいた。
「燃やしちゃったら、証拠も何もないじゃないの!」
言い返す言葉はない。傭兵は「すまない」と素直に頭を下げるが、リディスの憤慨は収まらない。
「私たちを殺そうとしている人の手紙よ?!終わったら王都に叩きつけてやろうと思ったのにっ」
伝説の傭兵が聞いて呆れるわ!と、小動物のように頬を膨らませてそっぽを向く。
「差出人は分かっているから、拘束はできる」
「誰なの」
「それはまだ言えない」
「分かっていないのと変わらないじゃない」
「そうだな」
傭兵は平静を装ってうなずき、中身の入っていない封筒をリディスに返した。彼女はむすっとしたまま受け取り、空っぽだということを再度確認して肩を落とす。
「まあいいわ。それで、明日はどうすればいい?」
仏頂面のままのリディスを直視できず、思わず視線を逸らそうとする。が、彼女はいつの間にか商売道具の短剣を両手に持ち、振り切った笑みを見せた。
「傭兵さん?」
誰かに憤怒されるのは一体いつ以来なのか。上手く話しても結末は変わらないだろう。短剣よりもきれそうなリディスの笑みに、傭兵は観念する他なかった。
「……君には一度死んでもらいたい」
王都と隣国にまたがる森。湖のさらに奥に、禁忌の地の入口はある。
店から湖まで、獣も人も見かけることはなかった。今日は禁忌の地へ行ったあの日よりも雲が分厚い。この地域では滅多に降らない雪がちらつく。木々の揺れる音すらしない、しん、と静まり返った暗い森には、リディスの足音だけが響く。
ランタンがリディスの視界を広く保つ。ここは森の最深部。もうすぐだ。目の前よりも、足元の灯りを確認する。しばらく歩いて、丸く照らしていたランタンの灯りが、月のように欠けた。
リディスは立ち止まって、懐から懐中時計を取り出した。針は二つとも真上を差す。時間だ。ランタンの明かりを消し、入口を背に立った。
「貴女が、リディスさんですね」
正面の暗闇に、白い魔法陣が展開される。光に包まれて現れたのは、闇に紛れるためだけの格好をした四人。
「そうだけど」
「単身でこの場所へいらっしゃるとは思いもしませんでしたよ」
「でしょうね」
「こちらは奮発して四人で来たんですが……。では、あの傭兵のことを売る気はないと」
リディスは黙ってうなずくと、四人は互いの顔を見合わせた。そして、声を上げて汚く笑った。
一人の男がリディスに近づく。
「あの傭兵を守る価値はないでしょうに。自分のことをもっと大切にしないと」
「関係ない人は巻き込まない主義なの」
男が喉の奥で笑った。
「さすが、禁忌に手を出しただけの度胸はあります。ちょっと気に入りました。でも、まあ死んでもらいましょうかね。依頼ですし」
男はリディスの細い首を掴んで持ち上げた。リディスの顔が歪むと、男は高らかに笑う。
「依頼人が言っていましたよ。この森を抜けられたのは例の傭兵のおかげだって。だから貴女一人じゃこの先は無理でしょう?」
リディスは男に抗おうと足をばたつかせる。蹴りが入っても、びくともしない。
「僕ね、その傭兵に会いたかったんです。まあ、やっぱりあの人かなって予想はつくんですけど」
男はリディスの鳩尾を拳で突いた。蓄えられた空気は全て外に出される。えずくこともできないまま、視界が揺れていく。
「もし貴女が生きていたら、もう手出ししません。あの人は敵にしちゃだめって、上から言われているものでね」
リディスの首から、手が離れる。足は地面に触れることはなく、宙に投げ出された。
「……て、…きて」
かすみがかった頭の中に、声が響く。指先の感覚、頬に感じる冷たさ。
「起きてってば、傭兵さん!」
目を薄く開けてもぼんやりと明るいだけで何も見えない。声の主は誰だろうか。傭兵は言葉を返そうと、肺に冷えた空気をとり入れた。刹那、鳩尾の鈍い痛みで顔をしかめる。同時に、意識がまいもどる。
見覚えのある青黒の瞳と視線が交わると、彼女は赤くなった目元を歪めた。
「よかった。生きてた」
リディスは鼻をすすり、目元を袖で擦る。傭兵はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡した。
近くには禁忌への入口が見える。どうやら底には落ちていないようだった。
「傭兵さんが気を失ってから、全部魔法が解けたわ。本当に危なかった」
「危険な目に合わせた。すまない」
「違う、傭兵さんが危なかった。私が貴方を助けた直後に、崖の細工がなくなったんだから」
傭兵は順番に記憶を追っていった。最後にみぞおちの痛みの正体をやっと思い出し、手に力が入る。自分のことはどうでもいい。
「あの男は本気で殺すつもりだった。君なら死んでいた」
「本気で私を殺しに来たのは見ててわかった。ただの女商人に四人だもの」
彼女の言う通り、暗殺者は四人。護衛に傭兵がついたとしても、たった二人に四人は大袈裟だ。それでも四人で来たことに理由がないはずはない。
男が何かを言っていたような記憶があったが、混濁していたからか、傭兵は明確には思い出せなかった。
「何にせよ、結果的に君は生きている。あの男たちから命を狙われることはもうないだろう」
傭兵は立ち上がって体を伸ばす。みぞおちの痛みは和らいだ。
「これで精算でいいな」
魔法とはいえ、自分よりも小さなものに閉じこもりたいとは思わない。窮屈は、前日にリディスの怒りを買った代償だ。
リディスは真剣な眼差しで首を縦に振った。
「もちろん、有り余るくらいに。昨日は怒っちゃってごめんなさい。あはは」
傭兵は少し首を傾げた。普段なら、何かしら理由をつけていろいろと詮索をしてくるところだ。心なしか焦っているようにも見えたが、それ以上深掘りをする気はなかった。
傭兵は崖を見つめる。リディスの死は、ただのきっかけにすぎない。
「次が本番だ」
傭兵の言葉に、リディスはうなずいた。