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広い酒場は、日中からすでに賑わいを見せていた。異国の踊り子が可憐に舞い、軽やかな演奏が酒場を満たす。舞台を囲む男たちの歓声が近い場所に座っていた傭兵は、自分が頼んだ品を持って遠い場所に座り直した。
空いた窓から冷たい風が入り込み、沈みかけた日を映した灰色の髪が揺れる。パタパタと早い足音で近づいてきた者が傭兵に話しかけると、傭兵はグラスに落としていた視線を上げた。まだ大人になり切れていない幼さを残した店の女性は、傭兵の顔を見るなり耳を赤く染めた。
「も、申し訳ありません。気分を害されていませんか」
細々と発された声。傭兵とは交わらないところに泳ぐ視線。傭兵は無表情のまま口を開いた。
「気を遣う必要はない。他の者と同じ対応をしてくれ」
「ですが……」
女性はうつむいて、酒場の店主をちらりと見る。大方、店主にもてなすようにと言われているのだろう。傭兵はグラスに入った酒を一気にあおり、女性に渡すと、小さくお辞儀をして離れていった。相変わらず踊り子への歓声は沸いたままで、商談をしている商人たちは苦笑いを浮かべている。
「お待たせいたしました」
音を立てて机にグラスを置いた店員が、当たり前のように傭兵の正面の椅子を引いて座った。傭兵はグラスに伸ばしかけた手を止め、顔を上げた。
「二日間観察してみてわかった。貴方、有名でしょ」
少し青みがかった黒の双眸は、傭兵の黒い瞳から目を逸らさずに輝く。
「でも、貴方を見て顔を赤くする人は沢山いるのに、依頼する人はいない。ものすごく美形なのに、顔で知られてないのが不思議ね」
傭兵は黙って酒をあおった。女は一つ咳ばらいをして話し続けた。
「大体儲かっているこの酒場の店主が、わざわざ一番の女の子寄越している時点で、お察しね。貴方が依頼を受ければ相当儲かるのよ、違う?」
「だとしたら」
やっと口を開いた傭兵に向けて、女は口角を上げた。
「貴方に依頼する」
女は一枚の紙を差し出した。依頼書だ。張り出された形跡もなく、インクは乾き切っていない。
傭兵は依頼書よりも、女の青く汚れた指と袖口を気にした。
「画家か」
女は口許だけを緩めた。
「おしい、残念。私は画家を支える商人」
傭兵に向けて両手を広げてみせる。
「これは絵の具。ここに来る前に絵の具作ってたから」
傭兵は女の手をじっと見つめていた。青い絵の具ではない、人差し指の先から手のひらにかけて薄く走った曲線。傭兵には、彼女がどんな物に手を出しているのか容易に想像できた。依頼書の内容を確認すると、想像は確信に変わる。
「引き受けてくれる?」
短く切り揃えられた黒髪が揺れる。傭兵は再び依頼書に視線を落とし、机に備え付けられたペンを手に取った。サインをして女に返す。
「ありがとう!明日の朝早く、店に来て。リディスの店って言えば誰もが知ってるから!」
女ーーリディスは傭兵の手を取って、瞳を輝かせた。
都に薄明るく日が差し始めた頃、傭兵はリディスの店へ向かった。リディスの言う通り、彼女の店を知らないものはこの都にはいなかった。朝から忙しなく動き始める商人たちとすれ違いながら、傭兵は城の方へ登って行った。
都の中心部ーーこの都では芸術区と言われている、全ての水路が交わる広場のある区域へ入る。広場に沿って連なっている店の中にリディスの店はあった。決して大きくはなく、芸術区より下層の民家のような佇まい。小さな木の看板だけが、ここが店だと告げている。
傭兵が扉を叩こうとしたとき、中から大きな足音が近づいて勢いよく扉が開いた。出てきたのは昨日と同じく身なりの整ったリディスだった。
「待ってたよ、さあ早く入って!」
リディスは傭兵の腕を掴んで店の中に引っ張った。
店に入って目に飛び込んでくるのは、壁一面に飾られた絵の具。色で分けてあるように見えるが、濃い方から薄い方へ、徐々に色が移り変わっていくように並べられている。硝子容器が明かりを反射して輝き、宝石と見紛うほど美しい。簡素な店の外観からはとても想像できない。
「綺麗でしょ。私の自慢の絵の具たち」
「これは……君一人で作るのか」
「そう。それが商人リディスの仕事」
リディスは胸を張って満面の笑みで答える。傭兵がつられたように微かに口元を緩めると、リディスは頬を赤らめた。そして照れ隠しをするように目を伏せた。
「なーんて、私にはこれしかできないからね」
「簡単なことじゃないな」
傭兵がそう言うと、リディスは顔を赤くしたままにっこり笑った。
「ありがとう。じゃあそろそろ準備……」
言いかけたとき、扉が二回叩かれる。リディスは首をかしげて、「どうぞ」と一言、扉に投げかけた。入ってきたのは、つばの広い帽子をかぶった女だった。落ち着いた青いドレスを着た、見るからの貴族。顔は帽子の影になってよく見えない。リディスは女が入ってきた途端、表情を一瞬固くした。そしてすぐに笑顔に戻して女に話しかけた。
「わざわざ来られるなんて!何かありましたか?」
女は声が聞こえていないかのようにリディスの横を通り過ぎ、店にある緑の絵の具の方へ歩いた。一通り見るように帽子が微かに動く。そして女はリディスを見た。
「ここにない緑が欲しいの」
「あ、でしたら奥にもあるので、すぐに」
女は首を振って遮る。
「貴女が今まで作ったことのない色がいいわ。できるでしょう」
「せめて雰囲気とか、色合いとか、希望はありませんか?」
「そうね」
女は手を頬に添えて考えた。手のそばの赤い唇が弧を描く。
「鮮やかで光っているような、けれどしつこくない感じ。誰もが目を引く不思議な力がある色がいいわ。『魔法』みたいに」
「……わかりました。またご連絡しますね」
リディスは女の言葉を遮って早口に言った。女はくすりと笑って、踵を返す。帽子の女は傭兵の目の前に立つと、優雅な振る舞いでお辞儀をしてみせた。
「リディスがお世話になりますわ。くれぐれもよろしく」
傭兵は黙って女を見下ろすだけだった。女は再び冷たく笑って、店を出て行った。
女が出ていった後、棚の絵の具を凝視していたリディスは、息を深く吐いて、傭兵の方に向き直った。
「絵の具って、鉱石とか宝石とかを削って作られているって知ってる? ここに並んでいる自慢の絵の具たちもそう。ただ……私、ちょっとずるい商売しているの」
彼女は首につけていた首飾りを外し、傭兵に手渡した。薄く緑がかった、細い円柱の宝石がついている物だった。色硝子のような透き通っているが、そのものに重さがないくらい軽い。
「それ、『魔石』っていう石。昔、魔法が存在した時代の名残りって言われているの。傭兵さんの耳飾りも魔石でしょ?」
傭兵は左耳につけた、濃い緑色の耳飾りを触った。リディスの言う通り同じものだ。
「この『魔石』は、普通の人には加工できない。この石には魔力っていう力が濃縮されたもので、普通の人にとってそれは猛毒。唯一加工できるのは魔力を持っている人だけだけど、魔法を禁じているこの国ではありえない話ね」
と言いたいんだけど、とリディスは続けた。
「私は魔石を扱える。この国には存在してはいけない人間なの」
青みがかった黒い瞳が揺らめく。傭兵はリディスの首に手を回し、魔石の首飾りをつけ直した。
「君がどんな人間だろうと、今この国にいる。それが事実だろう」
「……うん。いいこと言うわね、傭兵さん」
リディスが照れ臭そうに笑った。首飾りも、自身の悲壮も隠すように服の下にしまい込む。そして、白い頬を両手で叩いてから、真っ直ぐ傭兵を捉えた。
「さて、店に来てもらったのは依頼の話をちゃんとするため。さっきも言ったけど、私はずるい商売をしている。店頭に並んでるのは、石や宝石を砕いて作った、いわば一般用。でも、貴族も御用達のリディスの店は、もっと美しい色を提供できる」
傭兵はリディスに導かれるまま、店の奥へ入った。うす暗い道を歩き、階段を降りると、扉もなく広い空間が現れる。
リディスは既に部屋の奥に進んだ。壁一面に並ぶ、店にあったものとは比べ物にならない、美しくも禍々しくもある絵の具を背に。傭兵は部屋に一歩足を踏み入れ、止まった。むせ返るような『瘴気』が充満する部屋に、無意識に体が拒否した結果だった。
「ここにもない色の絵の具を作るために、手を貸して。傭兵さん」
頭を下げたリディスの力強い声が反響した。
「その前に、一つ聞きたい」
淡々と告げる。リディスが顔を上げた。
傭兵は止めていた歩みを進めた。体のあらゆる所からはい寄ろうとする空気を無視して、リディスを見下ろした。
「君は何のために、そこまで命を削る」
リディスは不意を突かれたように体をびくつかせたが、すぐに口を開いた。
「たった一つの、大切な約束のため」
傭兵は、そうか。と一言、目を伏せた。余計なことを口走りそうになる前に、リディスに左手を差し出した。
「依頼はすでに引き受けた。依頼の範囲ならば手を貸す」
「ありがとう。これからよろしく、傭兵さん」
傭兵の左手を、リディスは両手で取る。今の落ち着いた大人びた表情が、彼女の素顔だろう。傭兵はそう思った。
リディスの店がある国と隣国で続いている森林。その奥には湖があり、周辺で魔石がよく取れるとリディスは言う。依頼を受けた日から三日ほど経ったか、家には帰らずに森で過ごした。見つかるまでは帰らないとリディスが駄々をこねたせいだ。しかし都合がいいことに、この森には警備や監視の者が入ることは滅多にない。
「よよよ傭兵さんっ、わ、わっ、痛い!」
茂みから飛び出てきたリディスは、木の根につまずいて顔で着地をした。しかしすぐさま立ち上がり、右手に握っていたものを傭兵に見せた。
「いい色の見つけたの!しかも結構大きいやつ!これなら喜んでもらえるに違いないわ、ねえそう思わない?」
傭兵は抜いた剣をしまい、リディスの方を向いた。リディスは子どもの様に目を輝かせていたが、すぐに視線が傭兵の足下へと運ばれた。
「お、大きいわね」
「この獣の縄張りだったんだろう」
首と胴が分かれて転がっているそれは、狼のような獣。このあたりにしか現れない唯一無二の生き物だ。リディスは獣の緑の瞳を覗き込んだ。リディスの持っている魔石と似た色。腰の短剣を抜こうとしていたのを、傭兵は止めた。
「これも魔石でしょ」
「やめた方が身のためだ」
「どういうこと」
リディスは顔をしかめるが、傭兵はそれ以上言わない。大きなため息をついて獣からは離れ、手に持っていた魔石を籠にしまった。
「今まで雇ってきた傭兵は、それ、倒してなかったよ」
木陰に座ったリディスは、日に照らされた灰色の髪を眩しそうに見つめた。
「みんな、私を抱えて逃げるの。こんなところに来ちゃだめだって。それで金はいらないから無かった事にって言う」
「……それで」
傭兵は、自身の体より随分大きい獣の亡骸を茂みへ放った。
「貴方って本当に傭兵……というか、何者?」
「傭兵だ。気になるなら酒場の主人にでも聞いたらいい」
「もう聞いた。とっても凄い人だということは分かっているけど」
リディスはくすくす笑う。
「本当に不思議」
小さく呟きながら立ち上がった。リディスが籠を抱えたのを見て、傭兵も少ない荷物を肩にかけた。これで依頼も詮索も終わるだろうと安堵するように息を吐いた。
「もっと美しいものがいいわ」
暗い店内にぼんやりと灯った明かりが揺れ動いた。
「これでも、だめですか」
「ええ、これでは足りないわ」
その一言で、陽だまりに影が差す。リディスは小さく「分かりました」と言い、持っていた絵の具を手の中に隠す。目深にかぶった帽子の下の瞳と、傭兵の視線がぶつかった。
「もう少し付き合っていただきそうね」
床をコツコツと鳴らし、女は傭兵に近づいた。そして耳飾りをじっくり舐めるように見つめた。
「この方の耳飾り、とても美しいわね。この色がいいわ」
「この人は関係ありませんよ」
「違うわよ、リディス。この色を目指してほしいと言っているの」
くすっと笑う赤い唇。
「リディスなら、できるわよね」
リディスは女の言葉に射られたかのように目を見開く。言葉が紡がれようとした刹那、傭兵はリディスの口を手で覆った。代わりに傭兵が口を動かした。
「そこまで望むならお前が作ればいい」
女の唇は再び弧を描く。
「私の仕事は描くこと。彼女は作ること。全て彼女が決めた事よ」
傭兵はリディスの口を塞いだまま、女に鋭く視線をぶつけた。
「約束だもの。ね、リディス」
帽子からかすかに覗いた青みがかった黒い瞳は、リディスをとらえた。リディスは同じ瞳を潤ませる。傭兵の手に雫が伝うが、それでも離さなかった。
「また来るわ」
女は帽子を深く被り直し店を出た。冷たい風が一つ、店の灯りを消した。
扉が閉まると、リディスの涙ははたと止んだ。傭兵は手を退けても彼女は振り向かず、ただ一点、扉を見つめている。傭兵が消えたランタンを灯してしばらく、視線はそのままリディスは口を開いた。
「約束……そう、約束を守らないと」
リディスは灯りに照らされた傭兵の横顔を見た。傭兵は決意が滲んだ瞳を一瞥し、揺れる灯りに視線を戻す。
「また森へ行くのか」
「いいえ。禁忌の地へ行く」
傭兵の背筋に何かが這い寄る。呼応するように、目の前の灯りが揺れる。
「……そこがなぜ禁忌なのか、知っているのか」
「魔法で栄えた街だった場所と噂はね。詳しくは知らないよ。でも、街に魔法が使える人がたくさんいたなら、魔石はたくさんあるはず。だから」
「だめだ」
傭兵は口調はいつになく強くなる。リディスは一瞬たじろいだが、振り切るように傭兵の手を取った。
「危なくなったら私を捨てて逃げていい。先にお金も払う。私は死んだっていい、せめて足掻きたいの、あの子との約束なの。私は最期まであの子のために絵の具を作りたいの!」
リディスは傭兵の前に膝をついた。傭兵の左手に祈るようにすがる。傭兵はその姿を冷たく見下ろした。
「君はあの場所を知らないからそう言える」
感情があまりにもない声音は、リディスを鋭く貫く。
「禁忌へ挑む愚か者はいた。その者は戻ったのか」
リディスは黙って首を振る。
「暴かれない歴史には意味がある。君も愚かな者と同じだ」
「でも、傭兵さんがいる」
傭兵とリディスの瞳が交わった。
「ずっと引っかかっていた。やっぱり普通の傭兵じゃない。何か知っているのでしょう」
リディスの瞳は傭兵を見透かすように大きく開かれた。
「私と同じくらいの歳に見えて、相当な実力。髪の色も滅多にないし顔も美形。もっと有名になったっておかしくないのに、誰も貴方に見向きもしなかった。でも酒場の店主の対応は有名人のそれ。何もかもちぐはぐ。貴方一体なんなの。……人間なの?」
問い詰めるようにリディスは傭兵の顔を覗き込む。傭兵はゆっくりとリディスを遠ざけた。溜めていた息を吐き、疲れたように近くの椅子に座った。
「人間の傭兵には違いない。それ以上は答える義理がない」
「いろいろ隠しているのね」
「そう捉えてもらって構わない」
リディスは、組んだ手にひたいを預けてうつむいた傭兵をじっと見る。しばらくして、リディスは傭兵の両肩を持って、無理やり顔を上げさせた。
「じゃあ、こうする。傭兵さんの秘密を教えてくれなきゃ、私は禁忌の地へ行くわ。傭兵さんも行くのよ、依頼だもの」
傭兵の動かない表情が微かに崩れた。それを見てリディスは悪そうに笑む。
「傭兵さんでも怒ることがあるのね」
「……勝手にすればいい。いけば分かることだ」
傭兵はリディスの腕を払い除け店の扉を押しかけたとき、リディスが傭兵を呼び止めた。
「明日の朝、会いましょう」
傭兵は何にも答えなかった。一瞥もせずに背を向けて立ち去った。