ショコラ
楽しみにしていたケーキが運ばれ、華は一口二口と期待を裏切らぬ濃厚な甘やかさにふわりとほだされるうち、こっちをちゃんと見つめ返してほしい彼の瞳が先程から度々その奥へとのびるのにふと心づいて、
「ケーキ美味しいね」
と当たり障りのないところからつついてみると、なおも諒はこちらを見ずに、視線をわきへと定めたまま端整な口元だけを動かして、
「ね。美味しいね」
と相槌を打つごとく答えると、じっと見定めるような恋人の眼差しにようやく心づいたのか、奥へと見惚れていたような目をふっと解いて、淡く微笑んでみせた。
わざとらしいと言えばわざとらしいものの、彼のいつもの微笑ではあり、優しいといえばこれほど優しく素敵な振る舞いもないので、華は相も変わらず今日もその柔和な笑みにやられてすぐに落ち着き、彼の口元へはこばれるガトーショコラを見守りながら珈琲を口にほっと一息、再び目の前のザッハトルテへそっとフォークをいれた。
口へ広がる甘みとともに周りの空気も穏やかさを増し柔らかになって、華はさらにひと口味わいつつ瞼をとじてチョコレートと果実の風味を堪能し、ぼうっとしだした頭で愛しの顔へ目をそそぐと、またしても視線が別へとのびている。
諒は腕組みをしたままの鋭い顔で、けれども確かに見守るような表情なのは、特別なにかを気に入ってのものなのか、と華がすぐさまそう推理を働かせたのは、店に入るや否や三四人のウェイトレス皆が皆まで粒ぞろいであるのに気づかされたためで、自分からして可愛い顔立ちの子のほうが無論好みではあるものの、彼にその子たちに見惚れて欲しいわけはなく、こっちだけを見てくれないのは悲しいので、なお穏やかにその視線を見とがめるうち、ふとこちらに気がついて腕組みを解き、片手に頬杖をつきながら上目づかいに、
「華のも美味しい?」ときかれて華は殊更に微笑んでみせ、
「うん。美味しいよ。チョコレートと一緒に果実の風味もするの」
と答えながら彼の唇の端に点々と白の粉が浮いているのを目ざとく見てとり、自分のそれを中指でさすりながら、
「白いのついてるよ」
そう指摘すると、諒はおもむろに中指ではらっておしぼりへ押しつけた途端にめずらしくもつけている腕時計の硝子が乱反射して華の目をうち、たちまちきらきらするそのさまに見惚れるそばからその手が再び上がるとともに握られたコーヒーカップの白い表面へ光が映えた。
華はぽっと惹かれる間もなく、じっと見つめさえすれば諒の視線のさきも映ってつきとめられるはずだと思うともなく見つめた甲斐もなく期待は裏切られ、何を見ているの、と矢庭に喉まで出かかった言葉をあやうく胸へと押し返し、「ちょっと」と言い置いてさりげなく座を立った。
立ち上がるなり化粧室は反対のほうだと心づいたものの、背に腹はかえられぬと、華は知らぬ体で向き直ると抑えた話声がただようばかりの静謐な店内を幸いゆっくり歩み出しながら即座に敵をみつけて、斜めから視界に入るその顔が憎もうにも小さくて自分好みなのに覚えず敵意がくじけ、すぐさま気持ちを引き立たせるように首を横に振り、途端にこちらへ笑顔をふり向けて小首をかしげたウェイトレスに引き寄せられるままそばへと歩み寄ると、さほど歳も違わないだろうその子はなお幼く微笑んだまま、くりくりとした瞳は真面目になって声音はたおやかに、
「どちらまでですか? お手洗いでしたら向こうのほうになりますよ」
と優しく示してくれるのに華はまたしても嬉しくなって、思わず、
「あれっ、そうなんですね」と上目づかいに天井を仰ぎ、ほころぶ顔を戻しながら、「ケーキとっても美味しいです。珈琲も香り高くて」
「ありがとうございます」彼女は素直に受けながらにっこりと笑う。
「お食事もあるんですよね。今度はランチにお邪魔します」
「はい、是非」
思いやりに満ちた眼差しを背に感じつつ、華はもと来た道を静かに引き返すうち揶揄うような目線と出会って何とも防ぎようもないままに照れ笑いにやり過ごし、観葉植物のそばを曲がって奥へと進み、折よく空いた化粧室にはいると、前髪を指先に整え、毛先をいじり、それから顔の左右を見比べるほどもなくいつもの事ながら左側だけが気に入って、右側に不満を覚えつつ手を洗いハンドタオルにぬぐいながら心急き立つままに席へと立ち戻ると、諒はからめた指の背にあごを載せたまま真剣な瞳をそそいでいる。
華は腰をおろすや否やぎゅっとタオルをにぎりしめ、今度はすんなりと言葉が喉をすり抜けるままに、抑えるいとまもなく、彼の瞳をとらえようとじっと見据えながら、
「何みてるの?」
「いや、綺麗だなあと思って」と、こちらを憚ることなくなお恍惚の眼差しを向けたまま答えた。
無論覚悟はしていたものの、こうも平然と言ってのけられてきゅっと胸が引き裂かれ、目は虚ろにどんよりしたと思うと立ち所に怒りがこみ上げて来るので、華はすぐさまそれを紛らわせようと、あの子は綺麗というよりは可憐というべきだわ、美しさはこっちの土俵よと、心の内でマウントをとるそばから無意味な戦いに嫌気がさして、フォークを手にとるまま食べかけのケーキをおもむろに切り取り、先程から味の変わってしまったそれを口にするや否やふいの涙に顔を覆った。
「どうしたの、大丈夫?」
との所業を知らぬ無責任な問いに、華は鼻をすすりながら首を横に打ち振って、
「ううん、何でもないの」とつぶやいたまま、自分ながらもう情けなくなって、あふれる涙を笑顔に紛らせ、無謀にも、
「何が綺麗なの?」
「絵だよ絵。ほら、華も見てごらん」
言われて振り向くとその通り、微妙に趣向のちがう二枚の風景画が壁にかかっているので、華はほっと安堵して彼を信じようとした矢先、例のウェイトレスが物陰から立ち現れ、ぎゅっと胸が締めつけられるままに見返ると、不審に小首をかしげる華の前で諒はいつものように、口元だけで淡く微笑んでみせた。
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