プロローグ
よろしくお願いします。
ノエルは柵を握りしめて馬場を見ていた。
綺麗な栗毛の馬が狂ったように走り回っている。
怖い、けれど、綺麗だ。
その姿を安全な柵の外側で見つめた。
幼いノエルを後ろから見ている少女がいた。
ノエルよりもずっと背が高く力も強い、姉のゼラフィ。
柵から乗り上げた小さな身体を、ゼラフィは突き飛ばすように思い切り押しやった。
ノエルは呆気なく柵の内側に落ちた。
暴れ馬が少女の眼前に迫る。
「ひっ」
ノエルは引きつったように息をのんだ。
悲鳴すらも上げられない。
暴れ馬の蹄が少女の身体を踏み抜く……その刹那、魔力が瞬き、堅固な障壁を作った。
ノエルは背後に姉の甲高い笑い声を聞きながら恐怖で意識を飛ばした。
◇◇◇
7年後。
ノエル、12歳。
――受験票もある……忘れ物はないよね。
今日は、国立学園の入学試験の日だ。
貴族の子は事情のない限り学校に通う。
とくに魔力もちは、全員、学校に入る。
国は、国力を上げるために魔導士を育成しようとしている。それに、強力な魔法を使える者は把握しておきたいのだ。
ノエルは本当なら町立学校の入学手続きに連れて行かれることになっていた。町立学校なら学費が安いからだ。
でもノエルは国立学園に入りたかった。奨学生になれればタダで寮に入れる。
家から出られるのだ。
――頑張らなきゃ。
この家にいたら、下手したら殺される。
ノエルは、姉ゼラフィのついでに読み書きと算術の基礎は習ってあった。
姉が家庭教師と図書室で勉強しているときに、こっそり部屋の隅に座って耳を澄ませ勝手に習った。
その代わり、ゼラフィの宿題をやってやった――押し付けられた、とも言う。
今年、ノエルは学校に通う年齢になった。
貴族家が子供を学校に通わせないと「国への反逆」や子供への虐待を疑われ、取り調べの対象だ。
そんなわけで、機嫌の悪い父に呼ばれた。
「学校の手続きに行ってこい」
吐き捨てるように言われた。
いつも父はこういう風なので「平常運転だね」とノエルは思う。
執事が必要な書類を寄越す。
付き添いに選ばれたのは、ノエルが予想していた男だった。
父に気に入られている若い使用人。
ノエルは胸の内で密かに安堵した。
この男はノエルに対しては態度がかなり悪いのだが、今回は丁度良い。
うまく行きそうだ。
ノエルは8歳くらいのころから、たまにお使いに行かされていた。
ふつうは貴族の子供をひとりでお使いになどやらない。
アンゼルア王国の治安はさほど良くない。
ノエルのように見るからに貴族の子供がひとりでうろつけば高確率で攫われる。
ノエルは淡い金色の巻き毛に水色の水晶のような目をしている。
家族からは使用人扱いされているが、見た目は貴族だ。
町でひとりでいれば目立つ。
母がゼラフィには「町にひとりで行ったら危ないのよ」としつこく言い聞かせているのを知っていた。
それなのに、ノエルにはひとりで買い物に行かせるのだ。危ないだろうと子供ながらに思う。
ちなみに、ゼラフィは赤みのある金髪に青い瞳で派手だ。父も同じ色だ。
母は茶色に近い金髪に灰色の瞳で地味だ。だから、侯爵家の令嬢だったのに落ちぶれたヴィオネ家に嫁いできた。
ノエルは髪を丸めて帽子を深くかぶり、目も帽子のつばで隠すようにした。
それでも、ちらちらと人目を引いた。
なるべく人通りの多い道の真ん中を歩いた。
渡された手書きの地図を見ながら、香油と貼り薬を買うことができた。
うまくお使いが出来たために、それからもやらされる。
幾度か、雰囲気の悪い男につけられたり声をかけられたこともあった。
足に身体強化魔法をかけて走って逃げた。
ノエルがそうやって自衛しなければ、今頃、人買いに売られて変態に買われていただろう。
使用人は、ノエルがひとりで町に行けることを知っていた。
「ノエルお嬢様、学校にはひとりで行けますね」
と当然のように聞かれた。
聞かれたというより、確定だ。
「行けるわ」
ノエルは答えてやった。内心わくわくしていた。
使用人から必要書類を渡された。
ノエルの身分証と、それに委任状みたいなもの。
委任状には「ノエル・ヴィオネが貴校に入学することを希望する」という書面に父が署名してあった。使用人に代行させるからだろう。
ノエルはさっさとひとりで学校に向かった。もちろん町立学校ではない、国立学園の方だ。
この日のために姉からお下がりされた服を古着屋に売って金を作っておいた。
国立学園は遠いので、乗り合い馬車に乗るのだ。
乗り合い馬車乗り場も確認済みだ。
馬車はたくさん出ていたので、案外早くに着いた。
今日は、姉のお下がりの中でもなるべく綺麗な服を選んで着ていた。
ヴィオネ家では、姉の上等な晴れ着は小さくなったら売って金にしているが、普段着のようなものは、たいていゼラフィが汚したり破いたりしてあるのでノエルの小部屋に放り込まれる。
ノエルはそれらの服を繕ったり、シミの酷いところは「浄化の魔法」をかけて着ている。
見た目からして貴族のノエルがひとりで来たのでかなり目立った。
ノエルは目立つのには慣れていた。
いつも悪目立ちだ。良い意味で目立ったことはない。
受付で身分証を提示し委任状を渡して、入学試験を受ける手続きをした。
町立学校と違って、国立学園は試験がある。
国立学園の中等部は、普通科と騎士科と魔導科にわかれていた。
ノエルは迷わず魔導科を選んだ。
手続きを済ませると受験票と案内をもらった。
試験は1週間後となっていた。
――1週間後、か。
まぁ、なんとかなる。
朝早く邸を逃げ出せばいいわ。交通費はまだあるし。
試験内容は……。座学と、魔法実技……得意技? え?
それから1週間後の今日。
計画していた通り、朝早く邸を出た。
通りかかった使用人には、適当に「ハイネに用事を頼まれた」と大きめの独り言を言っておいた。
ハイネは執事だ。これで探されずに済む……と思うことにした。
図書室の机から失敬した筆記具と受験票、交通費の銅貨、それに食糧庫から漁ったパンを革袋に詰め込んで肩にかけていた。袋は倉庫で見つけた。たぶん採取用の袋だろう。まだ未使用なのか綺麗だった。
国立学園の試験は午前中は座学だった。
この日のために必死に勉強した。数学は楽勝だと思う。ノエルは姉の勉強を見ていたので、普通より2年早いペースで学習していた。それに、姉が王立学園に入って家庭教師が辞めた後もずっと予習復習を繰り返していた。
歴史と国語は邸の本を丸覚えしておいた。「暗記の魔法」を自己流で作ったが、少しは役に立ったと思う。頭の中の倉庫に、魔力の助けを借りて覚えたことを出し入れする……と暗示をかけてみたのだ。魔法というより暗示かもしれないが、奨学金のためだ、なりふり構わずなんでもやった。
午後は魔法の実技試験だ。的当てと、得意な魔法をひとつ、となっていた。
それについては試験の案内に書いてあった。
得意技の例として「小さな竜巻を作る」「カップの水を沸騰させる」「カップに水を生成する」「土の塊を生成する」などと記されていた。
マズイ、と思った。ひとつも出来ない。
ノエルの得意は、結界魔法に身体強化魔法、風魔法を使った盗み聞き、暗記魔法……モドキ。
どれも「見せる」魔法ではない。
ノエルはそれから魔法の修行に励んだ。
小さい竜巻を作ろうと試みたが、どうしても突風一吹きで終わってしまう。それでも良いかもしれないが、ノエルは奨学金が欲しいのだ。少なくとも例題よりお粗末な魔法はダメだ。
火魔法は、炎撃ができるのだからカップの水をお湯にするのも出来るはずだが、そんな微調整は試験までに間に合う気がしない。実際、試したところカップが粉みじんになったので、証拠隠滅をしなければならなかった。
風魔法と火魔法は、派手な風が吹くしカップは壊すしで、それ以上、練習するのも支障があった。
「土」と「水」は適性を持っていないのか、どちらも出来なかった。
それで、なんとか結界を使えないかと考えた。
思いついたのは「卵に結界を纏わせる」。
自分に結界をかけるのは得意中の得意だが、自分以外の対象物にもかけられるか? が問題だ。
ノエルが本で見たのは「武器や防具に、魔法をかけて防御力や攻撃力をあげることができる」という付与魔法だ。
付与魔法のかけ方は、対象物に魔力を流し望む効果を纏わせる、と書いてあった。
大雑把すぎる。
そんなんで付与魔法が完成できたら、世の中、最強の武器防具だらけだ。
実際、付与魔法付きの剣や盾は「魔剣なみに高価」と書いてあるのを見ると付与魔法は難しいのだろう。
だが、ノエルが目指すのはそんなすごいものではない。
得意の結界をほんの短時間、卵に与えるだけだ。
それで、卵を床に打ち付けて割れなければ「おお、結界魔法、上手いな!」と感心して良い点をつけてもらえるかもしれない。
たったそれだけのことだ。
――うん、それくらいなら、きっとできる。
ノエルはそう結論した。
卵を練習で使うわけにはいかないので、倉庫で見つけた綿を使った。綿の塊に結界を付与して投げる。うまくいけば「カツン」と硬質な音がするはず。
「物理的な膜みたいなのが結界で張れるのか?」という疑問は試してから考えればいいだろう。
そんなわけで、無謀な訓練を始めた。
綿の塊を紐でぐるぐるに縛ったボールにひたすら魔力を与えて結界を張り、ぽとんと床に落とす、という作業の繰り返しだ。
ボールに被膜が張り巡らされる様を強くイメージしてボールを落とす。
何度も行う。
魔力をボールに与える、という魔力の無駄遣いのようなことをし続けていることに、だんだん「もったいなくないか」という疑念が生じてくる。
――いやいや、無駄じゃない、もったいなくない。試験のためだ。
付与魔法の練習だ。
もう、自分との闘いみたいになってきた。
それでも続ける。
何度も続ける。
そろそろ疲れてきた。
最後の最後にちょっとカツンと音がしたような気がしたが、小石に当たっただけかもしれない。
ノエルは諦めなかった。
不毛な訓練をひたすら続けた。
――いや不毛じゃない、有毛だ。育毛だ。
ちょっとできるようになったんだから、不毛じゃない。
しつこく続けるうちに結界の付与っぽい感じになってきていた。
コトっと、ボールに硬質な音がし始めたのだ。
それに勇気を得てさらに訓練を続ける。
明らかにコトンと音がする。
気のせいじゃない。
ノエルは、浮かべるイメージを被膜で覆うのではなくて、金属製の箱に入れるように変えてみた。
すると、さらに「カツン」と固い音に変わっていった。
のちにノエルは卵でも結界付与を成功させた。
そうして臨んだ魔法実技試験。
的当てでは炎撃で的を粉砕することに成功。
使われていない部屋の暖炉を的に練習しておいたので、これは難なく済んだ。
いよいよ次だ。
石造りの屋内訓練場のようなところに受験生は整列させられていた。壁際に椅子が並べられ、説明を受けてから座って順番を待つ。
訓練場の中には、衝立が幾つも設けられている。ひとりひとり衝立の中に呼ばれて試験を受けることになっていた。衝立には結界が張ってあり、万が一のときには外には影響が出ないようにしてある。
ノエルはにわかに緊張し始めていた。
衝立の仕切りは6か所。6人同時に受けられるようになっている。
それぞれの仕切りに試験官は2名ずつついている。
多少は道具を使っても良いことになっていて、なにかしら持っている受験生が多い。
なにも持っていない受験生ももちろんいる。
ノエルの卵は袋の中だ。
一人の受験生にかかる時間は長くなかった。どんどん順番が進んでいく。
ノエルの番となった。
番号と名を呼ばれたので仕切りの中に入る。
狭い部屋のような空間に2名の試験官が座っている。
年若い試験官と、少し年配の試験官だ。
ふたりとも厳しそうに見える。緊張感がそう見せているだけかもしれないが。
長テーブルが置かれていて、受験生の椅子がその前にあった。テーブルの上にはカップと水差し。
水の生成や水をお湯にする魔法を使う学生のためだろう。隅のシートの上にはバケツに土が盛ってあった。
手汗で手のひらが湿気ている。卵を落とさないように気を付けなきゃと思う。体が強張り、やけに口の中が渇いた。
「ノエル・ヴィオネだね」
若い試験官が確かめるように名を読み上げた。
彼の手にはリストのような紙の束がある。
「はい、そうです」
「では、自由課題はなにをするのかな」
「結界の付与です」
「はい? 結界の付与、かね?」
年配の方の試験官が、声を裏返らせて尋ねた。
もう一人の試験官も眉をひそめている。
「あ、はい……」
ノエルは椅子には座らないままに、袋から卵を取り出した。
「これを、使います」
と、震えそうな声でなんとか告げる。
「卵かな。それを見せてもらっても?」
試験官に言われてノエルは頷き、卵を渡した。
「……ふつうの卵に見えるね。
ではやってみてごらん」
卵を返してもらったのでノエルは椅子に座った。
立ったままでやろうと思っていたが足が震えそうになったからだ。
とにかく、精神集中しないとできない。
卵を手に、魔力を流し始めた。
最初は、呼吸さえ浅く乱れがちでうまくいかなかったが、徐々に落ち着いた。
魔力が上手く流れ始める。
この数日は飽きるくらい練習したのだ。
終いには、難なくできるようになっていた。
だから、このまま「卵結界付与作戦」でいくことにしたのだから。
ようやく満足のいくように魔力を纏わせ『結界の箱』に卵を入れることに成功した。
ノエルは、すぐさま立ち上がり卵を床に打ち付けた。
ガツンっ!
と卵が固い音をさせ石の床を幾度か跳ねて止まった。
「結界の、付与、です」
ノエルは、言葉につっかえながら試験官に告げた。
試験官はふたりとも目を見開いて固まっている。
しばらくしてようやく、ひとりが立ち上がり卵を拾った。
結界の『箱』は小さいものだが、試験官がその『箱』に触れる。
ノエルは当然、触れたことはあるが、自分の魔力は触れたとたん、自分の中にするすると吸収された。
他人に触れさせたことはないが、どうやら透明な『なにか』に卵が包まれている感じになるらしい。
「……すまないが、もう一度、見せてもらってもいいかな」
試験官は呆然とそう告げた。
「あ、はい……」
おそらく、こんな地味な余興をやる受験生はいなかったのだろう。
ノエルは頷いた。卵を渡されて椅子に腰を下ろす。
……と、まだ卵に結界が張ったままなことに気付いた。
いつもなら魔力が吸収されるのだが、今回は固く張り過ぎたのか吸収がゆっくりだ。
すると、小声でなにやら話し合っていた試験官のひとりが立ち上がった。
「卵は持ってくるから待っていてくれ」
「はい」
――もしかして、ズルしたと思われた?
少しショックではあるが、それも仕方ないか、とも思う。
珍しいことをした自覚はあるが、例にあったような魔法は出来なかったのだから仕方ない。
あと何回かは魔力残量的に問題なくできそうなので言われるだけやればいいだろう。
待ってる間、暇だったのか、残った試験官が、
「ヴィオネ家の次女なんだね」
と声をかけてきた。年配の方の試験官だ。
「はい、そうです」
「奨学金の申し込みもしてるのか」
と試験官がぱらりと書類をめくる。
ノエルの情報が書いてあるらしい。
奨学金は、試験の申込のときに書き記す欄があったので申請しておいた。
合格したあとでも申請はできると但し書きはあったが、予め申請しておいた方が処理が速やかにできる、ともあった。
ノエルとしては、奨学金が手に入ったらすぐに寮に入りたいので迷わず申請欄に記入した。
「はい」
と記入したことを思い出しながら答えた。
「貴族はあまり申請しないのだけれどね」
試験官が独り言のように言う。
「うちはとても貧乏なので、奨学金が得られないと国立学園には入れないと思いまして……」
ノエルは恥も外聞もなく答えた。
貴族だからと言ってもピンキリなのだ。
「そうか。だが、もし奨学生になれなかったら学校はどうするのだ? 家庭教師だと魔導の指導は国が定めたものだけになるが」
試験官は訝し気だ。
それはそうだろう。国民の魔導の能力を把握管理するための入学義務なのだから。
「父は、町立学校に行けと言っていました」
「は?」
「姉を王立学園にやるだけで、学費はもう底を突いたそうです」
「……そうか」
少しでも不憫に思ってくれたのなら良い点付けてほしいな、という願いを込めて暴露しておいた。
丁度、卵を持ってもうひとりの試験官が戻って来た。
ノエルは、先ほどよりもリラックスした状態だった。
おかげで、少々短い時間で付与ができ、卵を床に打ち付けた。
ゴツンっ、ゴツっと卵が床を跳ねる。
「ほぉ……」
「うむ……」
試験官ふたりが腕を組む。
もうズルは疑っていないだろう。
ようやくノエルは試験から解放されて国立学園の試験会場を後にした。
10日後。合格発表の日。
かくしてノエルは無事に奨学金を獲得し、国立学園入学の手続きをした。