第一話 妹からのプレゼント
――白刃が、左の頬を掠めていく。
冴えた光を放つそれはどこまでも透明で、一点の曇りもない鏡のような輝きを放っていた。
いま、鳴守靂の前には、騎士風の格好をした男が立っている。
名をフィルズ・ブレイド。
金髪をブロックカットにした青年で、顔の彫も深く、顔形はまったく西洋人といったもの。
筋肉質でありやせ型でもあるという絶妙なバランスのうえにある体格を持ち、露出している顔や腕、身体には、歴戦の猛者を思わせる古傷、不覚傷がいくつも刻まれている。
出で立ちは銀色のプレートメイル姿だ。過去の時代の人間が思い浮かべるようなシンプルで古めかしい見た目の鎧ではなく、この時代の高度な技術でデザインし直した、機械化された美しいフォルムの装甲がそこにある。
そんな姿を見るたびに、レキも格好に気を使えば良かったなと、ラフなカジュアルジャケット姿を見直して苦笑してしまう。
相手は未来の剣を思わせるようなデザインの両手持ちの直剣。
チューブの伝った妙な小手。
足にはロボットの脚部を思わせる足甲。
対峙する場は、まるで昔の中国にあったような楼閣の鮮やかな瓦屋根の上だ。
目を動かすと、眼下には中華風の街並みが広がり、棟の上には麒麟らしき役瓦も見える。
いまにも崩れそうな、なだらかな傾斜の足場。上にフィルズを置き、下からレキが窺う様は、段違い平行棒の上に立って動くようなもので、不安定な足場の上で軽業を競っているかのようにも見えた。
西日が放つ夕影が、フィルズのプレートメイルにちりり、ちりりと反射する様を疎ましく思いながら、レキは屋根瓦を踏みしめる。
ふいに、フィルズの足元の屋根瓦が爆発した。
弾け飛ぶ朱色のかけら。
もうもうと舞い上がる粉塵。
その最中から、機械装甲がまるで落下してくるかのように肉薄してくる。
総重量は鎧と合わせて50キロ近くにも上るだろうに、そんな事実をまるで無視した速度を持って、袈裟斬りの一撃を叩きつけてくる。
フィルズが繰り出してくる斬撃に対して、レキは回避のために後ろ飛びを敢行。このまったく不確かな足場の上にあって、後ろも見ずに飛ぶのは自殺行為に等しいが、剣を受ければそれで終わりだ。
瓦屋根をかかとで弾き飛ばしながら滑り、朱色の瓦が砕ける音とともに舞い上がっては重力に引かれて落ちていく。
フィルズはそれを追い抜かんとするように、横から素早く回り込んで左首筋を狙ってくる。
レキは角度の付いた横薙ぎに対し頭を下げつつ、小手の継ぎ目を掠めるようにして逆向きに剣を振る。一瞬の交差のあと、レキの腕には強いしびれがまとわりつき、一方でフィルズの小手は飾りのチューブが少し切れるのみにとどまった。
……『相手が右足を踏み出したから、こちらは左足を引く』などという技量云々の話ではない。
すでに駆け引きはそういった領域にはないのだ。
そもそも相手がそういったことを許してくれない。
機械装甲の剣士は予備動作を飛び越えて、瞬時に目の前に現れる。
それでは相手の剣尖を右足で探り、測るという基本にも立ち返れない。
フィルズの動きはすでに人外の領域に達していた。
「ぜあぁああ!!」
機械装甲から、そんな声が聞こえてくる。
向かってくるのはまるで流星だ。レキの目にはもはや、きらめきと残像を引きながら差し迫る銀色のシルエットとしか認識できない。レキが横滑りで跳ね飛ばした朱色の瓦を、向こうは微塵に返す勢いで蹂躙している。背中に宇宙船のバーニアスラスタでも積んでいるかのような縦横無尽な動きぶり。もはや足などお飾りと言わんばかりの狂った挙動だ。
目に映るのは、時折きら、きらと剣に瞬く反射光のみ。
それだけで、フィルズの動きの終点を判断しなければならない。
駆け抜けるシルエットに、剣を見舞う。
レキがけん制に振り出した刃は、プレートメイルの影にすら届かない。
どんな斬撃を見舞っても、上っ面の空気を掠めるばかり。
まったく一方的だ。不安定な足場の上で、落ちてくる流星をかわし、逸らし、逃れるだけで精一杯の有様である。
――飛ぶ玄鳥は斬り落とせない。
いつか誰かが言ったその言葉通りだ。姿や音を頼りにして振り出した剣が捉えるのは、玄鳥が後ろに引いた風であり、通り過ぎる一瞬前の残像とヒューヒューという風鳴りの音だけなのだと。
ゆえに剣で飛ぶ玄鳥を狙う場合、突きかかってくるところに狙いを定めるより手段はない。必ず相手と正対し、正面から飛来してくるくちばしごと切っ先で団子と串刺すのが、あらゆる剣士が取ってしかるべき選択なのだ。
フィルズ・ブレイド。
先刻からの前のめりな剣撃に反して、表れるはずの斬意はない。真っ当な剣士ならば『斬る』『斬らなければ』という意識が逸るため、必ず斬意というものが表れる。
にもかかわらず、斬意はにじみ出るどころか、存在すらしていない。
普通は相手を斬ろうと思うがゆえに、無意識のうちに相手との距離を詰めようとするものだ。身体が意識に引っ張られて、それが動きの端々にも表れる。
眼に。
手先に。
足に。
肱の内側に。
剣尖に。
しかし、目の前の相手からはそれが全く見て取れない。
まるで機械がプログラムに従って刃を落とすかのよう。たとえるなら、コンベアに流れてくるケーキをただひたすらに切り分けるような、無機質で単純な作業だ。
ある意味それは、すべて剣士が至るべき極地と言えるだろう。相手に心の動きを悟らせないということはそれすなわち、心理戦を封じるということだ。
だからこそ、やり取りの際に感じるような、ジリジリとした焦燥も、ギラギラとした死の気配も、ひとかけらもありはしない。
動きは速い。生物の限界すら超えるのではないかというほどの機敏さがある。
繰り出す剣撃も力強い。巨大な獣が剣を振るっているような気にさえさせる。
剣の振りも正確だ。狙った場所に寸分たがわず、ミリ単位で当てに来る。
反応は規格外だ。フィルズはいつもレキが動く前に動き出す。
まるで未来でも見ているのではないかというくらいに先回りをしてくるのだ。
ヒトが勝てない相手を作るとしたら、きっとこんなものができるのではないかという空想を具現化したかのよう。
だが、結局はそれだけだ。
たとえ動きが速くても。
たとえ力が強くとも。
たとえ剣の振りが正確でも。
たとえあの目に、一寸先の未来が見えているのだとしても。
これが剣を用いた戦いである以上、剣士が見るべきものを見なければ、決して立ち合いには勝てないのだから。
「…………ふん」
知らず、不満そうな呼吸がレキの口から漏れる。
距離が一度開いて膠着した折、フィルズが再び人外の機動を取り始めた。
不用意には近づかず、間合いの外でレキのことを煽るように、嬲るように、舐るように。レキに不用意な動きを誘発させて、やがて生まれるであろう守りの手薄になった部分に向かって、逃れられない一撃を撃ち込もうというのだろう。その動きはまるで、上空で獲物の隙を余念なく窺う大鷲だ。楼閣を瓦屋根からぎりぎり落ちない程度の距離感を保ちながら、すでにフィルズの跳躍は飛行の域に達している。
そんな空を自在に飛び回るでたらめな相手を、意識の内に取り込みながら、レキはいましばらくの集中に埋没する。
視界が狭まるようにほの暗くなり、その足元に月が映った水面が幻視される。
静かな水面に映る月は、ほのかに輝く新月の相だ。
しかしてそれは、フィルズの方にも現れる。
足もとに引き連れる水面は水溜まり程度の大きさで、そこに映る月も小さい。
さながら細く頼りない繊月の相を思わせる。
レキが足を動かすと、足元の水面も動く。
フィルズの飛行めいた跳躍によって距離が近づき、幾度も水面が水溜まりに重なる。
水面の端と端が触れ合うたびに、お互いの水面にごくごく小さな波紋が浮かんだ。
フィルズとの間合いに注意しながら、彼の月に向かって歩を進める。
時折波紋が繊月まで届くが、フィルズがその波紋に気をかける気配はない。
レキはそれを見てさらにフィルズの月に向かって歩を進めるが、やはりフィルズは気付かない。
レキが丁寧に、そして慎重に準備を進めていているからということもあるだろうが、それにしたって多少なり、気付きがあって然るべきものだ。
いや、感知できるはずもないか。剣士であれば間合いにはよく気を使うものだが、フィルズはこの『間合い』のことを、『腕を伸ばしたときに剣が届く距離』としか認識していないのだ。そもそもフィルズにはそういった『機能』がない。結局のところその距離は、フィルズとレキとの間に何メートルあるかでしかなくて、それ以上、彼がそこから情報を読み取ことはできないのだ。
それが、人間と機械の差なのだろう。
心の揺れ動きや情緒を読み取ることができるか否か。
想像を膨らませられるか否か。
予測と想像の字義の間にある途方もない隔たりを突き破ることができる知性の輝きがあるかないかそれだけで、立ち合いの行方は大きく左右される。
やがてフィルズの繊月が、足元の水面にすっぽりと収まる。
水月を盗った。準備はこれで整った。
レキはいつの間にか屋根の上方におり、いまだ空を飛翔するフィルズを見下ろしている。
手に持った剣を、高貴な者へと捧げ差し出すように両手で持った。
そんな中ふと、いつかどこかで聞いた武術歌を口ずさむ。
つばくらめ 太刀を落とせど とらわれず
斬ろうとするな 月を知り初め
この歌は、先ほどの『飛ぶ玄鳥は斬り落とせない』という謂れを表すものだ。
初句から三句までを、玄鳥に翻弄される剣士を、結句の『月を知り初め』、すなわち相手の『突き』を弁えよという戒めである。
フィルズが瓦屋根から離れたタイミングを見計らって、レキも瓦屋根に腰を落とし、その勢いを利用して傾斜を尻滑りに降りていく。
フィルズもレキに肉薄しようと、空中で機動を変えて迫ってきた。
レキの停止位置は、衝突が想定される場所の半歩手前。
フィルズの剣がギリギリ届かない場所で停止すると、フィルズはそのもう少しの距離を稼ごうと、欲目を出す。
無理に前に動いて腕を伸ばすフィルズ。
大鷲がくちばしの先端を突き出してくるのとほぼ同時に、レキは捧げるように出した剣を突き立て、上方へ剣尖を置くように突きを繰り出した。
――後の先の技、突留。
剣と剣が交差し、金物と金物がこすれ合って盛大な火花を散らす。
きぃいいいいいんというピッチの高い余韻が茜色の空へと突き抜け、微細な金属屑が匂わせる独特な臭いがレキの鼻腔をくすぐった。
大鷲のくちばしが、交わった突きに逸らされてレキのわき腹を掠める。
一方で空を飛び回る大鷲の喉もとが、剣尖に吸い込まれるかのように貫かれた。
途端、HPゲージが削り切られ、キャラクター特有のうめき声がレキの耳に届いたあと。
フィルズの騎士風の姿はポリゴンエフェクトとなってバラバラに砕け散った。
WINNER
HUDの視界に、クラッカーの弾ける音とファンファーレが鳴り響く。
途端、美しい景色が消えていく。色鮮やかだったステージ『チャイナ・タワー』は、味気ないブルーの空間へとその姿を変えたのだった。
まるでゲーム。いや、これはゲームだ。
『Swordsman’s Killeach other』。
通称『ソキル』と呼ばれる、チャンバラを行うVRゲーム。
ふと思い立ってプレイしてみたのだが、すべてゲーム内のことであるためかやはり緊張感に大きく欠けるものだった。
これが実際の立ち合いであれば、焦りの汗もかくだろう。鼓動も早くなるだろう。
だが、そういった緊張感はほとんどない。
懸けるものがないだけで、こうも違う。
「……つまらん」
レキは青い世界の中心で、ぼそりと呟く。
つまらない。やはり立ち合いとは、命のやり取りあってしかるべきものだろう、と。
正面の空間に、意味のない数値が踊る。リザルトが終わると、大量のスコアが加算された。
虹色に輝くニューレコードの文字。それを見上げながら何とも言えないような息を吐いて、バトルルームのドアを開けた。
先にあったのは、バーが併設されたナイトクラブのような空間だ。
剣での戦いのあとでは、めまいを覚えるほどに似つかわしくない待機ルーム。
その場にいるのは、レキと同じようにオンラインでゲームをプレイ中の者たちばかり。
あるいはルームの順番待ち。
あるいは他者のバトルの観戦を目的として。
戦いを映し出す巨大モニターに釘付けの者や、レキのことをまじまじと見つめている者。
顔に張り付いているのは、一様に驚愕だ。さながらお化けや怪物でも目の当たりにしたかのように、皿のように丸くなった目に恐懼の光を宿している。
――あいつ、フィルズ・ブレイドを倒しやがった。
――うっそだろ。公式が絶対勝てないって明言したNPCだぞ。
――いくらなんでもまぐれ勝ちじゃないのかあれ。
――バッカ、あれがまぐれの動きかよ。お前だって途中までとんでもない速さの応酬してたの見ただろ。
――それに、フィルズは高性能予測AI積んでるし。
――さっきの動き見たかよ。飛行して分身してる相手を的確に突きやがった。
――どんな動体視力してんだ……あんなもん強化視覚センサだって捉え切れねえってのに。
……バトルルームに入る前は、温かい視線を向けてくる者や、無理だと言って呆れている者もいたが、待機ルームはすでに狂乱の渦だ。
ふと、横合いから声がかかる。
このチャンバラゲーム、『ソキル』のプレイヤーだ。
「なあアンタ! フィルズを倒すなんてすげーな!」
「ん? ああ、剣を突き出したらたまたまうまく行っただけだから」
「いやいやいくらなんでもフィルズ相手に偶然はないだろ!?」
「そうだな。狙ってはいた」
言葉少なにそう返すレキに対して、声を掛けてきたプレイヤーは「やっぱりな」と言う。
そして、立ち去ろうとしていたレキに食い下がるようにまた声を掛けてきた。
「なあ、アンタ聞かない名前だけど」
「そうだろうな。ソキルはまともにプレイしたことがないから」
「なら初心者ってことか!? ウソだろ!?」
「ほんとだ。ほら」
そう言って、ステータス画面を見せる。戦歴は先ほどのフィルズに勝った一勝のみ。プレイ時間もわずかで、ゲーム内アイテムの購入履歴もない。
プレイヤーが見せたのは、やはり驚愕だった。
彼は呆然とした様子を見せたあと、我に返ったように迫ってくる。
「な、なあ、もしよかったら俺たちとチーム組まないか?」
「ん。ありがたい申し出だけど、断らせてもらう」
「……理由を聞かせてもらっても?」
「このゲーム、プレイするのも今日限りだから」
「え……? なんでだ?」
「手触りが思っていたものと違ったからかな」
「手触り……?」
「なんていうか、プレイしてみて中身が致命的に合わなかったんだ…………悪いけど呼び出しが入ったから抜ける」
視界の上部に、アイコンが踊っていた。外部からの連絡が入ったのだ。
レキは名残惜しそうにするプレイヤーを尻目に、メニューを操作してアイコンをタップ。ゲームから意識を放り出す。
正面の視界に白文字で『VR dropout』の表示が出たのを確認して、専用チェアーのハッチを開けた。
レキの目の前には、一人の少女が立っていた。
実年齢から三つも四つも歳を引いたような童顔と小柄な身体。
彼と同じ紫の髪はショートカットにして切り揃え、くりくりとした目は愛らしく、そこから目を落とせば打って変わって口元に妖艶さを醸し出すほくろが一つ。
今世の妹の『鳴守こころ』だ。
「お兄お兄」
「こころ、どうした?」
「ちょっと用がね。っていうかお兄こそ没入型のゲームやるなんて珍しいね? 何やってたの?」
「ソキルだ。『Swordsman’s Killeach other』」
「へー、意外ー。お兄こういうのあんまり好きじゃないんじゃなかったの? リアルと全然違うーってカンジで」
「確かにな。でもなんとなく剣は振れるから、ちょっとやってみようかなって思ったんだよ」
「ふーん。それで、楽しかった?」
「いや、やっぱりダメだった。どうもAI相手じゃ勝手が違うみたいでな」
「勝手が違うってどこがどう違うの……」
呆れた様子のこころに、レキは真面目に答えを探す。
「こう、なんていうか思考してないっていうか、想像力を働かせてないっていうか、かな?」
「イミフなんですけど。AIはきちんとその場の状況に合わせて結果を予測してるんですよ。考えまくりじゃん」
「とは聞くけど、なんていうか、これからどうなるかって考えが欠けてるっていうか。想像の幅が予測の域を超えてないんだよAIってのは」
「AI知性体はそんなことないよ?」
「なんでそっちを引き合いに出す? そっちはゲームのNPCとは違うだろ。思考っていうのは飛躍した物事を考えられるか、ぶっ飛んだことが考えられるかどうかだ」
こころは、覆いかぶさるように身を乗り出してくる。
「で、で。ちなみにお相手のNPCは何者?」
「ん。えーっとな……そうそう、こいつだ。フィルズ・ブレイド。強いのでソートしたら一番上に出てきた奴だ」
「ふぃっ!? フィルズぅううう!? いやあれ絶対倒せないって有名なやつでしょ!? っていうかお兄、フィルズ倒しちゃったの!?」
「ああ」
「動画は!? 動画はある!?」
「残ってるんじゃないのか? オンラインでプレイしてたし、見てた奴もいっぱいいたし」
「残ってるんじゃないか……って!? なんでそんな適当なの!?」
「興味ないからな」
「なんで興味ないの!? お兄は有名になりたくないの!? フィルズを倒したんだからお兄ソキルプレイヤーとして超の付く有名人になれるんだよ!」
「まったく」
「どうして!? お兄この歳でいくらなんでも厭世的スギィ!」
「厭世的だってのは認めるけどさ。そこまで残念がる必要もないだろ? まぐれ勝ちじゃないんだ。やろうと思えばいつだってできる」
「おおぅ、言い切るとはこの男……っていうかお兄どうやって倒したの? 私もやったことあるけど、さすがにフィルズは無理ぽよだったよ?」
「こころの場合は実況しながらだったからだろ?」
「実況してなくても無理だよあんなの! フィルズは常に相手の強さの一段階上になるように設定されてるNPCなんだよ? 戦いの中で相手の強さを学習して、どんどん際限なく強くなるの!」
こころの言う通りだろう。だから先ほどの戦いでフィルズは、地上戦を放棄して、空をびゅんびゅんと飛び回ったのだ。
「でも結局それは動きをプレイヤーより上にするってだけだろ?」
「それがとんでもないんでしょー!」
「そんなことはないさ。相手がもっと速くなる、力が強くなるってイメージをしっかり持てれば対応できないことはない」
そんなことを言うと、こころは「お兄は言葉が通じない」とブー垂れ始めた。
そして、
「っていうかっていうかそんなことはどうでもいいの! それよりもフィルズの攻略法! 教えて! 教えてくんなましー!」
「別に。水月を取りに行ったら取らせてくれたから、そのまま位を盗んで終わりだ」
そんなことを言うと、こころは表情にあからさまな不満を浮かべる。
「あー、出た出た出ましたー。お兄の使う意味不明な剣術用語。水月とかなんなの? そんなものどうやったって見えないんですけどー」
「それは脳みそが測距したものを勝手にそう変換するだけだからな。実際に目に見えるわけじゃない。剣術やってればそのうちこころにもわかるようになる」
「そんなもの?」
「剣士であり続ければな。前まで意味不明すぎって言ってた『病気』も『手身足』もわかってきただろ」
「それはそうだけど……『水月』と『手字種利剣』は説明されてもわけわかんないし、そのうえ『神妙剣』とかなんなのかまったく説明できないものまであるし……」
こころは、両方のこめかみに人差し指の先を当てて、ぐるぐるしている。
「自転車と同じだ。練習すればできるようになるあれだ」
「自転車って、ロードバイクのこと? あれ、乗るために技術なんていらないよ?」
「……そうだよな。いまはそうなんだよな」
レキはふとした頭痛にうんうんと唸る。勝手にバランスを取ってくれるようになった自転車など、すでに自転車の範疇を超えた自走車両のようなものだが、いまではそれが一般的に普及している。
もちろん、レキの話など知らないこころは、その様子を見て頭の上に疑問符を浮かべていた。
「ヒントは、間合いに取り込んだことを相手に気付かれないよう動くことだ。間合いを伸ばす手段が、相手に近づくことだけじゃないことを考えろ。難しいなら、まずは相手に、『こころの間合いが短い』と誤認させるところから始めればいい」
「なんかだましうちみたい」
「当り前だ。兵法ってのは結局のところ化かし合い、不意打ち合戦なんだよ。相手の予測を上回った手を出すってことは、つまるところ相手の不意を突くってことなんだから」
「言葉遊びっぽいよー」
そう言われれば、レキも苦笑するほかない。
結局のところ、戦いとは突き詰めればそこに行き着くのだから。
こころに「右足で相手の剣尖を測れ」とだけ忠告して、レキはシートの上で画面を呼び出し、タップする。
「……ねえお兄。いま何したの?」
「ん。キャラデータの消去。もういらないから」
「ちょぉおおおおおお!? お兄ったらなにしてんのー!?」
こころはムンクの叫びを思わせるジェスチャーからの魂消る絶叫を上げ「バカお兄!」「どうして消しちゃうの!?」「もったいない!」などと喚いている。
「動画データは保存してるから構わないだろ」
「それでもだよ!」
「それで、用はなんだ? なんかあるから呼び出したんだろ?」
「あ、そうそう! 用ですYO! 用があるのYO! ねえお兄? 淤能碁呂島に興味ない?」
「オノゴロ島? なんだそれ? 記紀神話の話か?」
「ききしんわぁ? なぁにそれー?」
妹と互いに首を傾げ、頭に疑問符を浮かべる。
「いや淤能碁呂島って名前出しといてそれはないだろそれは」
「よくわからないよ。そんなことより、お兄も『ソヘヴ』は知ってるよね?」
「まあそれくらいはな。あれだけバンバン広告出してるし、いま俺がやってたのもそれの前のシリーズだろ? VRじゃなくてXRで、しかも島丸ごと使って大規模にやるっていう」
「そうそう! そうなのです! それでね、さっき事務所の打ち合わせがあって、その『ソヘヴ』の案件が来たんだけど」
「それは良かったじゃないか」
「うん。それでね、運営の人がね、もしよかったら家族の分もチケットどうにかできるかもって言ってくれて。お兄、よかったらやってみない? もちろんプレイするためにもろもろ若干の審査は必要だけど。興味はあるでしょ?」
「それはまあ、多少はあるが……」
ソヘヴ……『Swordsman’s HEAVEN』は先ほどプレイした没入型のVRゲームとは違い拡張現実や複合現実を利用したXRのゲーム、つまり現実世界で自分の肉体を使って行われるゲームだ。当然、VRと違って実際の立ち合いに近いものである。そのため、あちらこちらで映し出される映像広告を見るたびに、心惹かれていたのは事実だった。
だが、『ソヘヴ』は、レキが先ほどプレイした『ソキル』と違い、やりたいと思って簡単にプレイできるようなものではない。島内のプレイヤーは常に上限が3000人と設定されており、参加は広告塔になりそうな有名人や有名動画配信者、『ソキル』で実績がある人間が優先される。
レキは広告塔になりえそうな有名人でもなければ、有名配信者でもないし、『ソキル』だって先ほどプレイしたのが『慣らし』を含めて三回目というほど初心者である。
いくらコネが使えるとはいえ、そうそう審査に通れるとは思えない。
こころはレキの膝に両手を乗せる。
「ね? お兄は強い人たちと戦いたいんでしょ? 『ソヘヴ』プレイヤーの上位は強い人たちいっぱいいるよ? めちゃくちゃ強くて入れ替わりがないってくらいなんだし、きっとお兄が楽しめる相手もいるよ!」
「それはそうかもしれないが」
「ねえねえお兄やってみようよ。ちょっとだけちょっとだけ、先っちょだけでいいから」
「なんだ。やけに勧めるな」
「だってお兄つまんなそうなんだもん」
「……そんな風に見えるか?」
「いつもだいたいそんな顔してますー。というわけで、そのやる気のなさそうな顔をいま一度鏡で見るミッションを与えよう。ほい」
そんなこと言いつつ、どこからともなくデコだらけの手鏡を取り出してレキに向けてくる。
髪はこころと同じ紫色で、余った部分を後ろで結んでいる。
片方の横髪が長く、ひも状の髪飾りを巻き付けており、紫の瞳は疲れたように輝きが薄く、やる気のなさが窺えた。
「こう、なんていうか、こんな奴がバイトに来たら絶対雇いたくないな」
「ほんとだよ。お兄は顔がいいから受かるだろうけど」
「この時代、顔の良いやつなんてそう珍しくないけどな」
「はー、この天然物がよくいいますわ」
「俺たちは試験管生まれなんだからどうにだってできるだろ」
そんな風に言い返して、デコだらけの手鏡をこころに返す。
「まあ、こんな顔してるが、楽しみくらいはきちんとあるぞ? レトロゲームをサルベージしたり、バーチャルキッチンで料理作ったり、お菓子作ったりとかな」
「それそれ! お兄はやく次のレシピをプリーズ! プリーズ!」
「落ち着け。まったく料理の話をするとすぐこれだ……」
「世の中にはお兄の神レシピを首を長くして待ってる人たちがいるんですよ!」
「そういった人たちはもっと待たせてキリンさんにさせておきなさい…………バーチャルキッチンは勝手が違うから再現が大変なんだよ」
「この完璧主義者め」
「ん。料理ってのはそういうもんだ……俺は十分楽しんでるよ」
レキはそう言うが、こころに納得した様子はない。
「でも、それって本当にお兄のやりたいことなの? ううん。料理もお兄の好きなことだけど、一番はそうじゃないよね?」
「…………そうだな。確かに、こころの言う通りだよ」
「でしょ! やっぱりそうでしょ? お兄は剣術の練習してるときが一番生き生きしてるもん!」
「でもな、こころ。ゲームはゲームだ。実際に身体を動かす立ち合いとは違う」
「どう違うの? VRじゃなくてXRだよ? XRは乗り物を使ったり、身体動かしたりして楽しむものだよ?」
「だからってなぁ……」
ゲームは安全性が保たれており、扱う武器もXR技術で投影されたものだと聞いている。
それでは、やはり実際のものとはかけ離れたものだ。ゲームである以上、先ほどプレイしたものと同じく別の要素がかみ合ってくるため、求めている手触りはとは違うだろう。
「……こころも一緒に行くのか?」
「私は案件がかかわってるから、その辺り調整がつくまでまだ当分先なんだー」
「そうなのか……」
「ね? 一回やってみようよ! もしかしたらお兄も楽しめるかもしれないじゃん! もしそれでも面白くなかったら、やめればいいんだから。何事もチャレンジ! チャレンジだよ! 私もお兄に楽しんで欲しいし!」
「でもな」
「ねえねえ」
「だってさ」
「ねえねえ」
「…………」
「ねえねえねえねえ」
「…………わかったわかった。こころがそこまで言うなら、やってみるよ」
「そうそう! その意気だよその意気!」
こころはぱあっと明るい笑顔を見せる。
その顔には、本当に心の底から楽しんで来てほしいという思いがこもっていた。
「こころ、ありがとうな」
「えへへ」
レキは満面の笑みを見せてくれる妹に、礼を言う。
こころは普段から物足りなさを感じているのを見て、心配してくれていたのだ。
そう、ここまでなら、仲のいい兄妹の話で終わるのだが。
「――それで? 良い話の裏っ側に隠したお前の魂胆は一体なんだ?」
「えっ!? いや、あの、別にっ!? ここここここ、こころちゃんには魂胆なんてまーったくこれっぽーっちも全然ないですよなのですよ!? ただ純粋にお兄のことを思ってですね!」
「ほう? お前に下心があることを、お兄ちゃんが見抜けないとでも? いまお前の水月は水面を棒で掻き回したように乱れているぞ」
レキがそんな風に冗談めかして言うと、こころは目を泳がせて顔を背けた。
そんな妹に、レキは容赦なく視線を合わせて圧をかける。
やがてこころは観念したのか、人差し指の先と先をツンツンして。
「いやー、あのね? その、もしよかったらなんだけど、島内で使えるポイントを溜めてね? 高額なオーガニック食品を送って欲しいなー。なんてどうでしょうお兄さま……」
目をパチパチとしばたたかせて、訴えてくる。
その様子を見て、レキは聞こえよがしに大きなため息を吐いた。
「やっぱり何かあると思ったんだよな」
「だってオーガニックだよオーガニックだよ! オー ガ ニッ ク! お金いっぱい貯めなきゃ食べられない! 超高級品! 有機栽培! 無農薬! ふんがー!」
「そのうち案件で島に行くんだからお前だって食べられるだろ?」
「そうだけど! それまで何ヶ月も待たなきゃならないんだよ!? その点、お兄がいまから行けば、すぐにでも食べられる! そんなこと考え付く私ってほんと天才!」
「そもそも俺がそこに行ってポイント稼げる保証はないだろ?」
「おおっとぉ! それどの口が言うんですかねぇ! お兄がさっきゲームで倒したのは人間の限界を超えた、ソキルの最! 強! N! P! C! そんなものすごーい相手なんだよ!?」
「いや人間の限界超える程度いまじゃ別に珍しくもないだろ。アシストスーツとかもあるんだし。そもそも背中にジェットを積むような相手はこの世にいない。ゲームの中の話でもあるし、現実とは勝手が違う」
「そういう問題じゃなーい! おかしい! お兄はおかしい! 前々から思ってましたけどー! っていうかジェットってなに!? え? つまりお兄はフィルズを空飛ばすまで追い詰めたってこと!? そんなのもうチャンバラゲームじゃないでしょ!?」
「だから他のゲームだって言ってるんだ……まあ、現実にもゲームみたいに飛ぶ奴がいないわけじゃないけどさ」
「それどこの現実なの!? 異世界から来てない!?」
こころはひとしきり叫んで狂乱したあと、やがて騒ぎ疲れたのか大人しくなる。
「それで? お兄のお答えはイエスでオーケー?」
「ん。俺が先に行って勝ちまくって、ポイント使って美味しいものを沢山送ればいいんだな?」
「やったー! お兄だいすきー!」
こころはそう言って満面の笑顔を見せ、飛びついてくる。
「やれやれ、まったく現金な妹だよ」
そこが、妹の可愛らしいところでもあるのだが。