渡り廊下でのおしゃべりと、マラソン大会準備
10、消灯後の渡り廊下
消灯時間、11時。この時間になると、寝室の蛍光灯と廊下の電気が消され、生徒は寝る支度を始める。就寝時間の12時には、自習室の電気と、寝室のスタンドライトを消さなければならない。これも「暗黙の了解」。
11時15分。私は「渡り廊下」に出てきた。渡り廊下とは、三つの建物 ―「中学生寮」、「高校一・二年生寮」、「受験生寮」―から成る女子寮を三階部分で繋ぐ、屋外回廊のことだ。屋根も壁も無い、スチールの手すりだけの廊下に、夜の冷たい風が吹いている。昼間は残暑でも、夜はすっかり秋の気温だ。
この時間に、他の寮へ尋ねに行く学生はほとんどいない。渡り廊下は、無人になる。
暗闇の中、目を凝らしてみると、廊下の端で、手すりに肘をかけている人影が見える。リカだ。彼女は紺色のネグリジェを着ていた。髪と服が闇に溶けて、顔、腕、足首だけがぽっかりと白く浮かび上がる。
私が近寄ると、リカは髪を悠になびかせて振り向いた。月明かりが、一瞬だけ髪に反射して刃のように光る。
「来てくれないかと思った」
と、リカは嬉しそうに微笑んだ。
「話って何? ここは寒いから、用があるなら早くして」
戸惑ったような表情をしながらリカは思い切ったように言った。
「さやかちゃんの様子はどう?」
「最悪」
「そう……。やっぱり、私のせい?」
「当たり前じゃん!」
つい、声が大きくなった。
リカはさほどショックな様子は見せなかったが、黙りこんでしまった。仕方が無いので私の方から話しかける。
「……何で、武なの?」
「え?」
「何で武なんて格好悪いのを好きになったの? と言うか、あんた、本当に武が好きなの?」
突然リカは、夢見るような笑顔になった。
「武君は、素敵な人よ」
目、腐っているよ。と言いたかった。まあ、それを言ったら、さやかの目も腐っていることになってしまうのだけれど……。
「あゆみちゃん! あのね!」
黒曜石のような目が私にすがり付いてきた。
「私、知らなかったの。武君に彼女がいたなんて、本当に、私は知らなかったの!」
リカは私のひまわりプリントのついたパジャマの袖をヒシッと掴んだ。
「さやかちゃんには、本当に悪いことをしたと思っているの。……許しては、もらえないだろうけど……」
リカがこの学校に来てから三週間しかたっていない。武とさやかの関係を知らなくても確かにおかしくは無い。
私はリカの手をゆっくりと袖から放しながら、
「で?」と言った。
「私、さやかちゃんに謝る!」
「待った! それは、止めて」
それでは、さやかがあまりにも惨めじゃないか。リカが謝ったところで、武の心はすでにさやかからリカへシフトされているのだ。元には戻らない。
「わかった。リカに悪気があって武と付き合い始めたわけじゃないのは、理解したよ」
リカは安堵した表情を浮かべる。
それにしても……、
「どうして武を好きになったの?」
リカは少しはにかむと、
「好きになるのに、理由が要るの?」と聞いてきた。
さぁ……? 確かに「恋は盲目」と言うけれど、武の見た目の悪さに気が付かないほど、リカは目が悪いのだろうか? 彼女自身はこんなに綺麗なのに……。
秋の夜風がリカの髪を再び扇のように広げた。
11、日曜日
日曜日の昼食後、朝子先輩と一緒に私は学校外に出た。快晴の空の色が水田に映り、視界は青一色。
「気持ちがいいですね」
私は歩きながら朝子先輩に言った。地図とにらめっこをしながら、先輩は私の隣を歩いている。
突然、先輩の体がグラリと揺れた。
「先輩! 気をつけて!」
私は朝子先輩の腕を思いっきり引っ張った。
「いたたた。あゆみ、握力強いね。」
「もう少しで水田に落ちるところだったじゃないですか! 地図を見ながら歩くのは止めてください!」
コースを歩き始めて、1時間近くたっていた。
「さっきの角を曲がったところに給水所を置こう。道も結構広いし。」
「そうですね」
「さてと。ゴールになる丘はあと少しだし、商店街に寄ってく?」
「はい!」
先輩は地図をたたんだ。下見の時よりも早いペースで私達は商店街の方へ歩いた。
ドラッグストアとスーパーに寄った後、小さな喫茶店に寄った。南フランス調の明るい黄色と青のお皿が壁いっぱいに展示されている、お洒落なお店、『プロバンス』。この店の窓から覗くと、日本の水田も、南仏のオリーブ畑に見えてくるから不思議だ。
私はミルフィーユ、朝子先輩はカフェ・エクレアを注文した。
「貞子のことなんだけど……」
突然、朝子先輩が話を切り出した。「言いにくいことをこれから言わなければならない」という顔をしている。私は少し身構えた。
「貞子先輩がどうかしたんですか?」
「あゆみの学年の『編入生』を貞子が呼び出したって話、聞いた?」
「はい。リカのことですね?」
「あの子、リカっていう名前なんだ?リカの様子はどう?」
「さあ……」私はリカとの接触を避けている。渡り廊下でリカと話した時以来、挨拶すらろくにしていない。
「貞子がね、リカに『髪を切れ』と命令したそうだよ。だけど、リカはそれを頑固にも断ったらしい。……なかなか勇気のある子だね」
リカに勇気があるのか、それとも本当は、ただ単に貞子先輩の怖さを知らないだけじゃないのか……? そして、寮の内側世界がどうなっているのかも知らないだけではないのか?
私はリカがこの学校にやって来て早々、二度の過ちを犯していることに気が付いた。一度目は、彼女持ちの男子を奪ったこと。二度目は先輩に逆らったことだ。
「ごめんね、あゆみ」
「え?」
突然すぎて、朝子先輩の言った「ごめん」という言葉が、謝りを意味しているのだと気が付くのに時間がかかった。何で謝るの?
「今、私達の学年の女子達、うまくまとまっていないんだよ。幾つかのグループごとに決裂している。貞子達が、あゆみやその下の学年の女の子達を『呼び出し』とかで脅しているのを、私は何とかしたいのだけど……」
朝子先輩は、私と同じように中学生の時から寮に住み続けている。中学あがりの寮学生達は皆、プライドが高い。寮内で起こる様々な問題は、学生達自身だけで解決しなければ気がすまなかった。学校や先生、親達に口出しをされるのを嫌った。その為、いじめなどの問題にはとても神経質だ。一度いじめが発覚すれば、学校が寮という自分達の「聖域」へ進入し、調査に乗り出すからだ。
この学校の高校三年生は、受験準備の為、寮は別に用意され、寮内で下級生達と交流をあまり持たない。高校二年生が、事実上の寮の支配者だ。女王達にとって、外地からの内部調査は、自分達の王国が傀儡国家と成り下がることを意味する。屈辱だ。
朝子先輩はお茶と一緒に言葉を飲み込んでいた。やがて、吐き出すように言った。
「貞子が異常なほど、リカを嫌っているんだ。あゆみ、リカを一人にしない方がいい」
「それは……島先輩のことがあったから? そしてリカが貞子先輩に逆らったからですか?」
朝子先輩は、しばらく考えた後、「それだけじゃない気がする」とつぶやいた。
喫茶店を出た後、私達は古本屋に寄った。
朝子先輩が、「一冊30円!!」のコーナーで、好きな作家の本を見つけたと言ってはしゃいでいる間、私はお店の表に並ぶ「新刊なのに半額!」のコーナーを漁っていた。新刊と言っているくせに、去年出版された本ばかりで少しガッカリする。
ふと目をあげると、さっきまで私達がいた喫茶店に一組のカップルが近づいてゆく。男の子の顔が見えた。
オダセン!! 生徒会の仕事を休んで、女の子と二人で喫茶店に行くなんて! 許せない!
ピンクのパーカーを羽織った女の子の背中。彼女が手で髪を払うと、フードの中に隠されていた髪がユッタリとこぼれ落ちる。
リカ!?
ヒップラインを超える髪を持っている女の子は滅多に居ない。あれは、リカだ。何でリカがオダセンとデートしているんだ?!
私は身近にあった大きめの本で顔を隠しながら、オダセンとリカをもっと近くで見ようとした。
「ちょっと、あんた!!」
分厚い手に肩を掴まれ、私は振り向いた。古本屋のおばちゃんが私を睨んでいた。
「その本、買うのかい? 買わないのかい?」
迫力に負けて「買います!」と言ってしまった。店から出てきた朝子先輩は不思議そうに私を見る。
「ふ~ん。あゆみって、そういう趣味があったんだ?」
私は持っている本を見る。
『永久保存版・全国寺社事典』
全ページカラーの超豪華版写真集は、半額なのに4000円もした!
12、静香
寮に帰ると、私はすぐに静香の部屋を訪ねた。静香は私のスタディメイトだ。そしてリカのルームメイトである。
リカに会いたくない私は、静香を寝室まで訪ねに行きづらかった。幸い、私が行った時、リカは部屋には居なかった。まだオダセンと一緒に居るのかもしれない。
静香はベッドの上で、膝にノートパソコンを抱え、チャットをしていた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」と私が言う。
静香の目がパソコンの液晶から離れて私を見た。
「何? 髪に関することだったら、『歌舞伎町揚げ』ね」
私はさっきスーパーで買ったばかりの「歌舞伎町揚げ」という名のせんべいを静香に見せた。
「部屋に入って、ベッドの上にでも座っていて」
言われたとおりに静香が座っている横に腰を下ろす。
美容師志望の彼女は寮内で、ヘアカットや染髪の手助けをして「お礼」を稼いでいる。練習だといって、静香は自分の髪型を学期ごとに変える。先学期までは栗色の巻き髪を胸下まで伸ばしていたが、今学期は黒に戻し、シャギーのたっぷり入ったストレートロングにしている。
静香はパソコンに素早く何かを打ち込むと、シャットダウンしてから私の方に向いた。優しく私の髪に触れると、「どうしたいの?」と聞いてくる。
「黒くしたい」
私は染め戻しの箱を見せた。これもさっき、ドラッグストアで買ってきたものだ。
「あゆみって、脱色していたっけ?」
「……してない」
私の髪はもとから茶色いのだ。日焼けのせいもあるが、生まれつきだろう。
「何で黒にしたいの?」
「……何となく」
理由は自分でもわからない。何で、私は黒い髪にしたいんだろう。艶やかな黒髪になりたい。そう、リカのような……。私は考えを遮断した。
リカのことを考えるのはよそう。彼女はさやかのライバルじゃないか。
「あゆみの髪は綺麗だよ。もったいないと思うけどな……」
静香の柔らかい手が私の髪をゆっくりと梳く。
私は、手の中にある染め戻しをジッと見つめた。静香はせんべいを見つめている。
「まあ、あゆみが黒にしたいって言うのなら、私はそれを手伝うけど」
「ありがとう」
「夕食後、この部屋に来て」
13、憧れの女性
夕食まで、まだ少し時間がある。自習室に戻ると、机の上に白いA4サイズの紙が置かれていた。ポストイットのメモが貼ってある。千絵からだ。
『ご注文の品でございます。うまい坊はやっぱり美味かった、Thank you! 千絵』
私はA4の紙を裏返して見た。
緑の草原に、一人の女性が立っている。
青い空。
明るい寒色の中央を斜めに横切るように、暖かい栗色の線が丹念に描かれていた。栗色の髪だ。ヒップ超える長さの豊かな明るい髪が、悠々と風になびき、絵の中で舞っている。
彼女は髪をかきあげようとするかのように、左手を額にあてている。
日に焼けた、健康的な腕。
彼女の顔は見えない。後ろを向いているからだ。それでも「美しい女の子」だと、容易に想像できる。彼女の堂々とした立ち姿に、自信がみなぎっているからだ。美しくない者は、このように胸を張って立つことはできないだろう。
「あゆみが憧れそうな女の子」
自分でも具体的に思い描くことが出来なかったのに……。
私は正直に千絵の想像力と絵を描く才能に感服した。