第九章 飛華秘話(一)
「行き止まりのようじゃのう」
天君のかすれた声が廊下に響いた。
急いで背後の壁に触れ、継ぎ目がないか探す。
指先にわずかな凹凸が感じられた。
そこを押さえたまま、空いた手で楊淵季の背中をつつく。
この忙しい時に、と言わんばかりの顔で彼が振り返った。
私はどう言っていいのか迷った。
すると楊淵季が気づいたらしく、壁に手をかざす。
「万事如意」
しかし、壁は動かない。
「そこの鍵が知りたいか」
顔を上げると、天君は顔中のしわを真ん中に寄せるようにして微笑んでいた。
「言ってみろ。人は地に降りよ、だ」
「人は地に降りよ?」
私がつぶやくと、背後で重たい音がした。
振り向いて、はっとする。
壁が一部、手前に浮いている。
「これって、私が言っても開くんだ」
「声錠だと言っただろ。鍵を言うだけで開く」
楊淵季が舌打ちした。
「わかっていたけど」
頭のどこかで、迂峨過都の人間でなければ開かないのだと思いこんでいた。
「行くぞ」
楊淵季が重たい扉を開く。
だが、彼は中には入らず、立ち止まった。
冷たい空気が私の体を包んだ。
扉から漏れた光が、部屋の中に入っている。
水晶のような輝きが目に飛び込んできた。
目の前には巨大な氷の岩があった。
岩は深い青を飲み込んだような色だ。
それが、奥まで続いている。
「逃げられんよ」
振り返ると、天君が背後に迫っていた。
「氷河期というのを知っておるか。古の人の伝説は本当でな。かつて大地は冷たかった。それが暖かくなり、周りの氷はすべて溶けた。迂峨過都の中にある、これを除いてな」
天君が手を伸ばした。
私は、立ち尽くしたまま動けない。
楊淵季が私と天君の間に体を滑り込ませた。
「欧陸洋。これで溶かせ」
手の平に何かが押し込まれた。
瞬火の箱だ。
震える手で火をおこし、氷に近づける。
「そんなもので逃げ道が作れると思うのか」
天君の声に、私は肩を震わせた。
「ばか、早くしろ」
楊淵季に蹴られて、氷に火を当てる。
火は、氷を少し溶かしただけで、滴った水を浴びて消えた。
辺りはまた、凍えるほど冷たくなった。
「子どもじゃな。まだ、子どもじゃ」
天君の笑い声が聞こえた。
その時だった。
楊淵季が私を押しのけた。
そして天君の腕をつかみ、氷に押しつける。
「何をするの」
真翠淵が叫び、楊淵季を引き離そうとした。
「うるさい! あなたもだ」
楊淵季は彼女の背後に回り、氷の部屋に押し込む。
「何をしているんだ、淵季」
彼はうるさそうに私を眺め、腕をつかんだ。
「おい、まさか、私まで」
「いい加減、受験勉強で空になったその頭に血液を送ってやれ」
「何だって」
「逃げるぞ」
廊下を戻り始めると、天君の怒鳴る声が聞こえた。
「氷が離れぬ」
振り返ろうとすると、とめられた。
「氷はな。濡れた方が、ものに貼りつきやすいのだ」
彼は涼しい目で、ただ、前方を眺めていた。




