第八章 清玄真人(十)
翌日も朝から書庫での講義が詰まっていた。
書庫に向かう途中、見張りの道士たちの顔を観察する。
昨日と同じ者たちだ。
私たちが目覚める前か、朝食の最中に交代したらしい。
彼らは相変わらず口数が少なかった。
特に楊淵季との会話を恐れている。
書庫に着くと、真翠淵が歴史の本を開いて待っていた。
「では、百代目の天君の話から始めましょう」
気分が重くなった。
一万年前からだと、一体何百代、天君が続いているのかわからない。
それをずっと聞いているのなら、まだ、詩の暗唱をさせられた方がましだ。
楊淵季が席を立った。
「私は儒学を学ぶ者。仙人に興味はない。もしあなたに出来るのなら歴史以外の講義をしてくれませんか」
嫌味が混じったようなひねくれた口調だった。
どこかで聞いたことがある。
訝っていると、しばらくして思い出した。「山麓」の詩の先生だ。
わずかに数回聞いただけで、あの口調をすっかり真似られるようになったらしい。
「光の塔を見たでしょう。清玄真人」
「楊淵季とお呼びください。塔は見ました。ただ、それが仙人が作ったものかどうかは知りません。発達した文化がかつてここにあったのかも知れない。だからといって、歴史書をすべて信じるのはどうでしょうか。古の人が迂峨過都を天君に任せたなどという証拠は、どこにもないはずです」
真翠淵は顎を引き、彼を眺めた。
それから、楊淵季の瞳の奥をうかがうように見る。
本が閉じられた。
「少し待っていなさい」
彼女が書庫を去る時、裳は優雅に波を描いていた。
海よりもずっと優しい、河のさざ波だ。
ぼんやりしていると外で道士と挨拶する声が聞こえた。
「おい、陸洋」
呼びかけられて我に返る。
今なら、『術覧』を見ることができる。
私たちは目配せして席を立ち、本の箱を開けた。
「その記事だったら、確か二十七巻にあったはずだ」
楊淵季は次々と本を取り出し、二十七巻を見つけ出した。
そして、神経質な手つきで紙をめくる。
「あった。これだろう。我が龍鳳洞が誇る医療は、代々、林家に受け継がれてきたものである。かつて我が島では生まれた子供が育たずに死に、老人がなす術もなく放置された。林家は一切の悪霊を封じる保育室を作り、早産の子供を大男にする方法を確立した。何より、林家の道術で優れたものは、体内の妖怪を退ける切開手術である」
「それだ」
覗き込むと、例の人体解剖図があった。
文字も学長の本と同じように四角い。
「学長のは、これを写したものだったんだ」
「いや、これは、龍鳳洞の医者が使っている小冊子の写しのようだ。記録者は何光秀。前の天君の孫だな。何虎敬の伯父上にあたる。彼も医者だったが、龍鳳洞の林氏には及ばなかった」
「林香葉か」
「ああ、俺の祖母だ。元々、龍鳳洞の侍女だった人で、天君の健康管理をしていた。天君には馬という夫人がいたのだが、馬夫人は鏡で殺された。そのあと、妻になった人だ。確か、学長の手術をしたのもその人だった」
本を私に押しつけ、彼はそばにあった黒い箱を開ける。
中には同じ大きさの紙が重ねて置かれていた。
「これが医療記録だ。確か、三百三十三代天君二十四年」
「三百三十三代?」
「今の天君だ。現在が三百三十三代天君六十年。ええと、二十四年と」
箱の紙を右手で整えながら、それらしいものを左手で選び出し、目の前に近づけて確かめている。
手に脳がついているか、脳が二つあるような器用な動きだった。
見とれていると、これだ、と言って一枚を差し出した。
見ると、頭を切り裂いた図が鮮明に描かれている。
うっとこみ上げるものをこらえ、わきに添えられた漢字を見る。
こちらの文字は丸く、馴染みやすい文字だ。
「それが、高隆志が十歳の頃に受けた手術の記録だ。……何度か、同じ手術を受けているようだな。何故だ?」
楊淵季は細かく読み込んでいたが、私はなるべく見ないようにして医者の欄を確かめる。
「本当だ。林香葉とある」
「そういった脳の手術をやれるのは、龍鳳洞しかない。……それにしても、なんで何度も?」
まだ、淵季は記録を読んでいる。
ちらりと目を遣ると、記録は数枚の紙が綴られていて、全てが高隆志の手術を記したものらしい。
そのうちの一つに、白玉、という文字が見えた。
「白玉、か」
楊淵季が懐から、形見だと言っていた白い玉を出す。
「まさか、な」
「それが関係あるのか」
「え? いや」
「でも、林香葉がいなくなったから、もうこんな手術はできないのかな」
「できるさ。真翠淵がやる」
「彼女は医者なのか」
「ああ、とんでもなく自尊心の高い、意志の強いお偉いお医者様だ。母を含め、天君の娘は全員、学校を出て医者になった。あんなに尊大な医者だったかどうかはわからないけどな」
うんざりしたように天井を見上げている。よほど彼女が気に入らないらしい。
はたから見れば彼らはよく似ている。特に強情なところなど、二人とも同じだ。
「思わないか。あんな偉そうな医者に診療されてみろ、いいところも、何だか出来損なったような気がするだろう」
そう思わせるところも、おまえとそっくりだ。――そう思ったが、言ったらおしまいのような気がする。
私は笑いをかみ殺しながら医療記録を彼に返した。
「何だよ」
「いや、その。記録は優しい字だけど、本の文字はやけに角張っているな」
「当たり前だろう。記録は手書きだが、本は印刷だ」
印刷、というのは初めて聞く言葉だ。
怪訝に思っていると、楊淵季が気がついたように、ああ、とつぶやいた。
「木に文字を彫ったものがたくさんあるんだ。それを、木枠にはめて墨をつける。その上から紙を乗せて擦るのだ。手で書く手間が省けるし、文字を写し間違うこともない。学長の本もそうだったのか」
うなずくと、じゃあ、医者の小冊子そのものだったのだろう、と言った。
「真翠淵もあの本を使っているのかな。手術をする場合」
楊淵季が、あの女の話はいい、と鋭い口調で遮った時だった。
本棚が動き、彼女が戻ってきた。
本を箱に押し込み、慌てて席に戻る。
彼女はちらりと私たちを眺め、『術覧』の箱を開けると本を綺麗に入れ直した。
「証拠が欲しいと言いましたね」
箱に紐を掛けてしまうと、彼女はこちらに向き直った。
「天君の許可が出ました。古の人がこの地を託したという証拠を見せましょう」
そして、端に置かれた本棚の本を取り出すと、棚の奥を何度か押した。
途端、本棚が動いて金属製の小さな扉が現れる。
更にそこの扉にも指を押し当てる。
鍵の外れる音がして開いた。
同時に部屋の中に明かりが点く。
入ってみると、一面真っ白な部屋だった。
飾り棚も白い。
棚には石がいくつも置かれていた。
置物が少ないせいか、何も置いていない一角もあった。
置物はさまざまだ。
ある物は指でつまめるくらい小さく、あるものは一抱えもあるくらい大きい。
どのようにして作ったのか、各面が完全に四角い金のかたまりもあった。
銀もある。こちらは完全な球体だ。
水晶の中に指先ほどの球体が数個、浮いているものもある。
球体は円をつぶしたような形の線上を動いていた。
真ん中には太陽のように黄色い球体があった。
「龍鳳洞の宝物室です」
真翠淵は楊淵季を手招きし、水晶らしき石の前に立たせる。
手の平に乗るくらいの小さなものだ。
近づいてみると、どの面も四角い。
中には赤い煙が蠢いていて、龍のような形を作っていた。
「手をかざしてみなさい」
「古の人の気が感じられるなどというのは」
「そんなものではありません。あなたに天君の資格があるのなら、印が出るはずです」
「出なければ?」
「あなたは、天君になれないということになるけれど」
真翠淵が顔をしかめた。
「じゃあ、手をかざして印とやらが出なければ、俺を解放してくれますか。欧陸洋もだ」
珍しく、淵季の表情が明るくなった。
「そんなはずはないけれど。……いいでしょう。では、印が出たら?」
「そのときは俺が天君になります」
それを聞いて、私は慌てて楊淵季の肩をつかむ。
「やめとけよ。おまえ、ただでさえ、天君の孫なのに」
「ここの天君は代々継ぐもんじゃないんだ。俺はな、不敬罪のかたまりみたいな人間なんだ。帝国でも、迂峨過都でもな」
「でも、万が一ってことが」
「俺みたいなのを選ぶ国があるものか。じゃあ、先にどんな印が出るか教えてもらいましょうか」
真翠淵は私と淵季を交互に見ていたが、困ったように頬に手を当てた。
「その方がいいでしょうね。あなたにあとで言い訳されるのは嫌だから。……文字が出るのよ。天君であるという文になるわ」
「わかりました。やりましょう」
楊淵季は、石の上に、掌を広げてかざした。
その時だった。
石の中で蠢いていた煙がいくつかに分かれ、文字を形作り始める。一つは「汝」、二つ目は「為」、三文字目が「天」、四文字目が「君」。
汝、天君たり。
文字は更に変化し、我は汝に国を託すという文を描き出す。
「うそだろ」
楊淵季は手をかざしたまま、呆気にとられている。
「わかったでしょう」
溜息をつくように、真翠淵が肩を下げた。
「これは、天君となる者が必ず触れなければならない宝石です。この石は生きている。そして、天君にふさわしい者が触れるとこのような文字を示します。これが、即位、つまり天君として皆に認められた状態になれば、文字は消え、金色に輝くそうよ」
楊淵季は目を見開き、薄く唇を開いていた。
が、瞬きを二度すると、真翠淵を睨む。
「あなたがやっても同じことになるかも知れない」
彼女は動揺することなく、手を伸ばした。
「では、やってみましょう」
石からはすでに文字が消えていた。
彼女が手をかざしても、赤い煙は揺らぐばかりで文字にならない。
「天君の資格がないものはだめなのよ」
楊淵季はじっと石を眺めていたが、やがて、顔をしかめる。
拳が強く握られていた。
「俺は道士ではない。道術など、一つも使えません。このまま、俺が道術など使わなければ、どうなります?」
「本当に使えないのか、自分自身に聞いてみなさい。あなたは何を道術と言うのか。そして、迂峨過都では何を道術と言うのか。その道術は、あなたには使えないのか」
真翠淵が彼の袖をつかんだ。
彼はそれを振り切り、部屋を出ていく。
私は石を見つめた。と、龍の形をした煙と目が合ったような気がした。
龍はいざなうように首を振っている。
私はそっと、石に手をかざしてみた。
龍が動いた。いくつかに分かれ、文字を描き出す。
一つは、「汝」だ。
背筋に冷たいものが走った。が、首を何かに押さえられたように、目を逸らすことが出来ない。
煙は文字を次々に描き出し、短い一文を作った。
汝は国を滅ぼす。
私は首にまとわりついた冷気を払うように手を振り、部屋を飛び出した。
書庫では、真翠淵が歴史の講義を始めようとしていた。
彼女は私に座るように言い、宝物室の扉を閉めると、本を読み始めた。




