第八章 清玄真人(九)
三人の道士は相変わらず扉の外に控えている。
私は暗い階段に身をひそめ、ため息をつく。
楊淵季に何かあるとは思っていた。
それが、天君の血縁であるということだろうとも。
しかし、そんなに近い関係とは思わなかった。
何を聞いても驚かないつもりだったし、何があっても楊淵季は楊淵季であるとわかっていた。
が、すぐに言葉が出なかったのも事実だった。
あれから数刻ほど、部屋に入ろうとするたびに鸚鵡に妨害された。
夕食の時間になっても鸚鵡は暴れ続け、結局、私は暗い階段で食事をした。
果敢に部屋の中へ食事を運んだ少女も、鸚鵡に蹴飛ばされながら出てきた。
楊淵季の様子を聞くと、窓際にたたずんでいると言う。
私たちは階段で少し話した。
少女はまだ十四歳くらいで、華都のことを聞きたがった。
露店や酒屋の話をすると、笑いながらひどいところ、とつぶやいた。
私の食事が終わると、少女は部屋に入り、楊淵季の食器を取りに行った。
だが、鸚鵡にひどく蹴られて中に入れず、私の食器だけ持って出ていった。
彼女がいなくなると急に空気が冷たくなったように感じた。
暇つぶしに階段を降り、扉の外にいる道士たちを観察してみる。
四六時中見張っているわけではないだろうと思ったが、いつまで経っても立ち去る気配がない。
しばらく階段で耳を澄ませていたが、何も変化がないのを感じて、もう一度部屋に上がってみた。
すでに日が暮れたためか、鸚鵡は静かに机にとまっていた。
明かりのない部屋は真っ暗だ。
藍色の夜の光が窓から入っていたが、寝台に横たわっている楊淵季の姿を認めるのがやっとという感じだ。
私は華都の夜を思い出した。
家では蝋燭が灯っていたが、広間や受験を控えた兄の部屋ばかりで、あとは何もない闇だった。
暖かくなると星を見上げ、寒くなると何もせず寝台に上がった。
そんな生活をしていて、日々、悩みがつきないように感じたのはなぜだろう。
手探りで椅子を確かめ、腰掛ける。
実際、考えてみれば大した悩みではない。
学友が成績の善し悪しで派閥を作ろうと、同じ官吏登用試験を目指す子どもという、狭い集団の中の話に過ぎない。
たとえ、私が官吏登用試験に落ちようと、気まずくはなるだろうが、官僚集団という一握りの人々から外れたに過ぎない。
華都では、官僚ではない人間の方が多いのだ。
官僚集団の外が、そんなに怖いところだろうか。
楊淵季の方から衣擦れが聞こえた。
目の前を人影が過ぎり、窓辺に立つ。
私も立ち上がり、月を見上げた。
「さっきまで見張りの様子を見ていたんだ。彼ら、ずっといるんだね」
楊淵季は驚いたようにこちらを眺めた。
「……迷惑をかけたな」
「らしくないこと言うね」
「……俺も見張りの様子を見てくる。おまえは」
「行くよ」
私たちは部屋を出て、足を忍ばせ階段を降りた。
扉の向こうでは話し声が聞こえた。
昼間見せるのとは違う、屈託のない声だ。
酒や肴の話だった。
一人が、話ばかりじゃ酔わないな、と言い、他の二人が笑う。
ふと、仲興と伯文のことを思い出した。懐かしかった。
今すぐ会いたくなった。
昔のように、肉包を「山麓」の庭で食べながら。
華都に戻るためには、天君の鏡のからくりを解いてしまわなければならなかった。
学長の事件は楊淵季の言ったように、見えない縄と学長の自演で説明できることなのかも知れない。
確かに、学長には天君を恐れる理由がある。ここから逃げ出していたのだから。
一方で、私の中に、学長の自演であってほしくない、という思いがあった。
あの学長が学生をだますようには見えなかったからだった。
学長は天君が危険な存在だと知りながら、楊淵季を「山麓」で匿おうとした。
多分、楊家からも。
それに、武偉長の事件のとき、刺客の姿は見えなかった。
何虎敬のときも、勝手に体が浮いて処刑された。
もし、ものを見えなくする方法があるのなら、学長が自演しなくても、首ぐらい絞められる気がした。
夜中になって、三組の足音が近づいて来た。
それらは扉の前で立ち止まり、見張りの道士たちと話している。
どうやら、交代して、夜も眠らず見張るつもりらしい。
私たちは小さく溜息をつき、部屋に戻ると横になった。
「ねえ、淵季」
隣に転がっている楊淵季が、何だ、と言って寝返りを打った。
途端、足が思い切り腹に当たる。
呻いていると、謝る声が聞こえた。
「いや。別にいいんだ。私たちに寝台一つじゃ、どのみち狭すぎるよ」
「すまん。お互いに図体がでかすぎるよな」
「たしかにもっと小柄でよかったと思うよ。それはそれとして、こういうものはないのか」
「何だ」
楊淵季が怪訝そうに言った。
私は口ごもり、二度、曖昧にうなる。
「ばかげているけれど、つまり、人が透明になる薬だとか、着物だとか」
ため息が聞えた。
「あのな、ここを何だと思っている。妖怪の城じゃないんだぞ。薬はまっとうな医薬品だ。消すのは姿ではなく病気だけ」
「でも、あの透明な紐を使って生地を編んだら、透明な着物が出来るんじゃないか」
「冗談じゃない」
「どうして」
「確かに透明な着物はできるだろう」彼が起きあがり、私を覗き込んだ。「だが、決定的なことを忘れている。着物は透明でも、中にいる人間は不透明だ。そんなもの着たって、素っ裸の人間が見えるだけだぞ」
「あ、そうか。……ごめん」
小さく謝ると、彼はぶつぶつ言いながら横になった。
「それにあの透明な糸は、そうそう簡単に編めるようなものじゃないぞ。束ねてよりあわせ、紐状にするのがやっとだろう」
「扱いが難しい糸なのか」
「そうとも言える。つまり、糸自体が非常に細いんだ。透明だしな。飛華洞で作っているはずだが」
「細くて透明と言っても、触ればわかるだろう」
「まあ、想像がつかないかも知れないがな。猫の毛の一万分の一程度の太さだ」
「一万分の一だと? そんなもの、できるのか」
「できるよ。もう少し、いいものができるかもしれない。ここは、そういうところだ」
「まるで道術だ」
すると、肩を小突かれた。
「冗談はやめろ。ともかく、そんな細くて透明な糸、扱うのは並大抵じゃない。そうしてできたのが、何も着ていないように見える着物じゃ、作りがいもないだろう」
彼はそれきり何も言わなかった。
しばらくして、寝息が聞こえてきた。
彼の呼吸は風に揺れる絹のようだ。
ふと、計り知れなく細い糸が生み出される時もこんな音を立てるのではないかと思った。
その晩は見えないほどに細い糸と、それを自らの呼吸で生み出す楊淵季を夢に見ながら眠った。




