第八章 清玄真人(八)
真香淵が天君の娘であることを捨てるために迂峨過都を出たのは、二十七年前になる。
当時、すでに今の天君は統治を始めて三十年近く経っていた。
宇帝国は後呉国を滅ぼして十年ほどしか経っていなかった。
真香淵もまだ十代だった。
彼女は船を持ち出し、麓に逃げた。
河を下り、玄安を経て、安朱、華都と北に逃げた。
この間、街の商人の助けを受けたり、地方史に興味のある商人に迂峨過都の話をしたりして暮らした。
華都に辿り着いた真香淵は街をさまよった。
酒店で働いたこともあったが、その瞳のために噂になり、天君の追跡を避け、すぐに店を去った。
逃げ出して八年ほど経った冬、華都の郊外でたたずんでいると、女が一人やってきて声をかけた。
それは道の向かいにあった家の使用人で、主人が中に入れろというので迎えに来たという。
そこは役人の家で、主はまだ若かった。
使用人が真香淵を紹介すると、主は書物から顔を上げ、外は寒いからここにいるように言った。
真香淵は家事をするようになった。
料理や洗濯、主の父親の世話。
主は彼女を妻に迎えようとした。
しかし、真香淵は拒んだ。
彼女はひどく怯えていた。
鳥の鳴き声に眉を寄せ、風の音や雨の気配に体を震わせるほど。
主が何度も理由を問いただすと、彼女は答えた。
殺人者の国から逃げてきたのだ、と。
追っ手が来るかも知れないと知り、主は余所者として居候しているよりも妻として家族になった方が安全だと諭した。
じきに、彼女は主と結婚し、妻となった。
静かな生活は二年間続いた。
ある朝、家に痩せた鸚鵡が飛んできた。
鸚鵡は家の者を威嚇し、真香淵以外の者を部屋から追い出した。
数刻して、鸚鵡と共に出てきた真香淵はひどく顔色が悪かった。
よろめきながら主とその父を呼ぶと、こう話した。
自分には妹が三人いる。
二番目の妹が、自分と同じように国を逃げ出した。だから、保護してほしい。
主が承諾すると、真香淵は、鸚鵡に華都にいると言う言葉を覚えさせ、空に飛ばした。鸚鵡は妹と共に帰ってくるはずだった。
が、一月の後、鸚鵡だけが戻ってきた。
妹の死を覚悟した真香淵はふさぎ込み、食事もとらなくなった。
彼女の腹の中には、子供がいた。
主たちは毎日食事を運び、慰め続けた。
そのうち、主は皇帝の命で遠方に行くことになった。
鸚鵡は異国の歌を歌い、使用人がそれに合わせて踊った。
真香淵がようやく元気を取り戻した頃、都から遠く離れた地で、主が死んだ。
悲しみで弱る体の力を振り絞って子供を産むと、真香淵も死んだ。
「そうして生まれたのが俺だ。母は、俺の名か呼び名に『淵』の字を使うように遺言した。俺の半分は帝国の血だが、もう半分は迂峨過都の血だ。天君の子どもは、母をはじめとして娘が四人だけ。母は死に、二女と三女も若いうちに死んだ。母以外、子どもがいるものはいない。だから、天君や真翠淵に変に期待されている。恨まれてもいる。俺は、ここにいなければならない。出ていっても、天君に追われるだけだ」
ふと、地下の河を思う。
何も見えず、ただ、流されるだけの船。
その船に楊淵季がたった一人で乗っている姿が思い浮かんだ。
行く先が不安でも、その河を下らなければならないと思っている。それ一つしか進み方がないのだと。
その河の隣には、もしかしたら大きく豊かな河があるのかも知れない。
官僚の世界のそばに庶民の多様な暮らしが広がっているように。
「陸洋、なんでここに来た」
「え? 仙人とおまえがいると思ったから」
「俺だって、おまえが来るかもしれないとは、少しは思った。でも、来るはずがないと思った。……俺は、ここにいなきゃいけない」
声をかけようとした時だった。
紙をはじくような音がして、窓枠に水滴が落ちた。
木にしみた水滴は次第に広がり、丸い染みを作る。
「でも、本当は、おまえたちのいる『山麓』に帰りたい」
肩が震えていた。
手を伸ばすと、鸚鵡が飛びかかってきた。
楊淵季を隠すように羽を広げると、私を扉の方へ追いやる。
「欧陸洋、欧陸洋」
とうとう外に出ると、鸚鵡がそう連呼するのが聞こえた。




