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第八章 清玄真人(七)

 細い廊下は緩く曲がっている。

 それでいて、少し上り坂になっていた。

 黙って廊下を上り、突き当たりにある小さな扉の前に立つ。

 扉を開けると、暗い石の階段が見えた。

 私と楊淵季が階段を上り始めると、後ろで扉が閉まった。

 明かりのない階段は闇に覆われ、手で段差を確かめながら進む。

 部屋の扉に近づくと、薄く明かりが見えてくる。

 扉の隙間を通り抜けた日光が階段に降りているのだ。

 楊淵季が扉を引いた。

 光が目を突くように入ってきて、足元を狂わせる。

 冷たい岩の壁に手をやって踏みとどまり、扉を押さえると中に入った。

 寝台に腰掛けると、私たちは同時に溜息をつく。

 鸚鵡が楊淵季の肩から跳び上がり、机の上に降りた。

 机には茶と菓子が置かれている。

 茶は淹れたてらしく、湯気が立ち上っていた。

「陸洋。さっき、何の本を見ていた」

 楊淵季は立ち上がり、茶を確かめて一口飲む。

 それから、茶碗をこちらに回した。

「『術覧』だよ。医学の本があったから」

「医学?」

 茶を受け取りながら、うなずく。

「学長が『医療小冊』という本を持っていたんだ」

「ここの本なのか」

 淵季が菓子を一つ、口に放り込んだ。

「同じ本があるのかどうか確かめたかったんだ。あるいは、同じ内容の本があるのか。最初に人体を切り開いたような絵があって、何虎敬が武偉長の遺体に施していたような、整形らしき話も出てくる。頭を切り開くような絵も出て来るんだ。そして、実際、学長の頭には、切り開いた際に出来る十字傷が、頭にあったそうだ」

「それは、学長がここで手術を受けたからだ。脳から血液が溢れ出して、頭を開いて血管に金具を着けたんだ」

 それは、『医療小冊』に書いてあるのと同じ話だった。

「本に著者の名前はなかった。書かれていたのは、紙の裏にあった、真香淵と高隆志という名だ。麓の老人の言うのには、真香淵というのは天君の娘だそうだ。迂峨過都から逃げ出した人だという。その人が高隆志という人に贈った本だと思う」

 楊淵季が茶碗に指を伸ばし、人差し指と中指をひらひらと動かしていた。

 茶碗を差し出すと、ひったくるように受け取り、口をつける。

「知っていたなら先に言え」

「何が」

「迂峨過都から逃げ出した者がいたということだ。今、名前が出てきた二人とも、迂峨過都を脱出した者だよ。一人はずいぶん前に死に、今一人はつい一か月前に亡くなった」

「ひとつき前? まさか、学長? でも、高隆志って」

 楊淵季は渋面を作り、茶碗を机に置いた。

(こう)(とく)()。それは偽名だ。本当の名は、高隆志。れっきとした迂峨過都の道士だよ。ここを脱出した後、天君らに探されるのを恐れたのだろう」

 だが、結果として見つかり、死んだ。

 私たちは視線を逸らし、黙り込む。

 学長が見つかったのは、楊淵季が訪れたせいもあるのではなかろうか。

 天君たちは彼を探していた。

 何らかの事情で彼も一人で華都へ出てきたのだろうが、結局それが学長には災いした。

 彼を責めることはできない。

 私も華都を出る時、友人を巻き込んだ。

 二人は(あん)(しゆ)で保護され、一人はまだ、迂峨過都の麓で私たちを待っている。

 突然、楊淵季が笑うように息を吐き、窓を開けると窓枠に手をついた。

「俺の両親は、もう死んだ。父は地方に赴任している時に。母は、俺を生んですぐ。産後の肥立ちが悪くてな。あとは祖父と、使用人のばあさんが育ててくれた。だが、その祖父も、俺が十歳のときに亡くなってな。各地の親戚を転々としたんだ。祖父が俺に学問をさせろと遺言したせいか、親戚は俺に元役人だった人とか、官僚を出したことがある家だとかを紹介してくれた。俺は、けっこうよくしてもらっていたと思う。それに、これでも、星を見て種まきの時期を探ったり、畑に(うね)を作ったりするのは上手かったから、重宝されていたんだ。そこに天君が現れて、近所の家を二軒、火薬で吹き飛ばしたんだ。俺は、もうその家にいられないと思った。親戚のつてを頼りに住む場所を探していたら、華都の政治家が俺を養子にするのと引き替えに、近所の家を建て直すのに十分な金を出すという。俺は承知した」

 それでは、人身売買じゃないか、と私は思う。

 ただ、その言葉を彼に告げるのが辛くて、黙っていた。

「それが楊家だ」楊淵季が()(ちよう)気味に笑った。「珍しいもの好きな養父らしい。(わざわい)をまねくまがまがしい少年というのを、見てみたかったんだろう。金を出してもらいながら、俺も往生際が悪くて、楊家の養父に会ってないんだ。華都の宿をあちこち、逃げ回るように移動していた。どうせ、好奇心を満たすことしか期待されていないと思うとな」

 帰ってもしょうがない、そんな言葉が聞こえたような気がした。

 楊淵季はうつむいて目を閉じてた。

 何かを考えるようでもあり、ただ、絶望しているようでもあった。

 私は、華都に帰ったときのことをうれえた。

 話を聞いて、彼の養父が誰だかわかったからだった。

 私の父のように、表側から政治を扱う人物ではない。

 政治の裏側を取り仕切る人物だ。

 その人について華都にはありとあらゆる噂が広まっている。

 冷酷な人物で機嫌が悪いと戯れに使用人を斬るとか、酒の肴に裸の男女に相撲をとらせただとか。

 ……地方から美麗な少年を探し出して買い、刃向かうようなところがあれば殴り殺して運河に沈める、とか。

 地方から楊家を訪ねてきたものの、態度が反抗的だったために家に入れてもらえず、行き場をなくして華都の劇団に入ったという触れ込みの俳優もいる、という。

 すべて周仲興から聞いた、ただの噂話だ。

 でも、火のない所に煙は立たぬという。

 実際に、楊家にはすでに世に知られた養子が三人いて、全員が色白で美しく、優秀であり、試験に合格して官僚となっている。

 兄たちが楊家の息子たちについて話していたのを、聞いたことがある。

 同僚として申し分ない人たちだという。

 申し分ないということは、そつがない、ということでもある。

 機転が利いて、養父の期待に十分応えられる人たち、ということでもある。

 そのあたりを、淵季は知らないのだろう。

 知っていれば、逃げ回るなどということはしなかったに違いない。

 知っていてしたというのなら、ばかか、肝が据わりすぎているかのどちらかだ。

 ともあれ、今のままでは、逃げ回った彼を楊家が迎え入れない可能性は高い。

 学長が私の家で面倒を見させたがったのは、天君から守るだけでなく、逃げ回ってしまった彼を一時的に保護させるつもりでもあったのだろう。

 いくら彼の養父が怒っていたとしても、大臣の家に殴り込みにくるのは無謀がすぎる。

 学長がその間に自ら楊家に赴いて、話をつけるつもりだったのだろう。

 その学長は、もういない。


 それでも、私は淵季を連れて帰りたい。

 あんなに生意気だった男が、こんなところでくさっているのを放っておくなど気味が悪い。

 楊家が彼を受け入れないのなら、私の家で面倒を見ればいい。

 事情を知れば父も兄も嫌がるだろうが、大臣が学長の言葉に背いて息子の学友の面倒を見なかった、などという外聞が悪いことも嫌うはずだ。

 交渉の余地はある。

 

「おまえ、『医療小冊』という本を見たんだよな。書いてなかったか。林家のだれが、医術に長けているとか」

 突然、淵季が言った。

「ああ、えっと。(りん)(こう)(よう)、だったかな」

 私は、慌てて記憶を探った。

「その人は、真香淵の母親だ」

「え? でも、同じ『香』の字が」

「帝国では禁忌だ。だが、ここではたいてい、第一子は親の一字をもらっている」

「え?」

 私は頭の中で、姓字を並べた。林香葉、真香淵……。

「気づいただろ。俺は」

 淵季は相変わらずうつむいたままだった。

「戻れない。ここから出られないのだ。俺は」

 ため息が聞こえた。

「俺は、天君の長女、真香淵の息子だ」

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