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第八章 清玄真人(六)

 私は周囲の本に視線を這わせた。

 書庫は数人が入れるくらいの広さしかない。

 その真ん中に置かれた机からは、本をしまってある箱の文字が見える。

『天文総覧』と『(じゆつ)(らん)』が白木の箱で三箱ずつあった。

 それぞれには墨で分類が書かれている。

『術覧』の場合、一つは、工部。一つは理部。

 最後の一つに目を遣った時、手に取りたい衝動にかられた。

 箱には「医部」と書かれている。

 学長が持っていた本も、医学の本だった。――老人を若者にし、不美人を美人にする術などに長けている、そう書かれた医療の本。

 初めて見た時は胡散臭いと思ったが、ここならば、ありそうな気がする。

 中には、(しん)(こう)(えん)の名が、そして、もう一人の(こう)(りゆう)()の名もあるかも知れない。

「欧陸洋」

 呼ばれて顔を上げる。

「話を聞いていますか」

 真翠淵の灰色の瞳が、疑うように覗き込んでいた。

 彼女の肌は白く綺麗だった。

 十代の娘と言ってもおかしくないくらいみずみずしい。

 私は目元に血が上るのを感じ、首をすくめた。

 よく考えれば、こんなに近くでよその女を見たことがない。

 整った眉は弓形を描いていたし、唇と目には知性が宿っている。

 真翠淵の灰色の瞳に心配するような色が浮かんだ。

「よく学びなさい、欧陸洋。清玄真人は天君となられる方です。あなたはその補佐をするのよ」

 慌てて横を見ると、楊淵季が相変わらず、つまらない、と言うように頬杖をついていた。

「清玄真人? では、その方が天君になればよい。私は楊淵季だ。他の何ものでもない」

 私は呆気に取られた。

 同時に、天君がどうこうという驚きを失う。

 今のはまるですねた子どもだ。

 思わず吹き出しそうになり、状況が悪いと息を詰める。

 楊淵季と真翠淵は睨み合い、お互い、殴れるものなら殴ってみろ、という顔をしていた。

 どうも、この女の前に出ると彼は子どもっぽくなる。

 かつて、「山麓」で初めて出会った頃、楊淵季にはやけに大人びたところがあった。

 詩の先生の嫌味にも動じなかった。

 迂峨過都でも何虎敬のような偉丈夫と話していて一歩も引けを取らなかった。

 それが、この女が相手だと、どうだ。

「山麓」でも、決して助けを求めようとしなかった楊淵季が、甘えているようにすら見える。

 二人はどんな関係なんだろうという興味が、胸の底から湧いてきた。

 彼らに親子関係はない、と私は判断する。

 年齢も不釣り合いだが、親子間で、名でも呼び名でも同じ字、つまり「淵」を使うことはないはずだ。

 帝国では子が父や祖父の名や呼び名の文字を使うことは禁忌だ。

 ただ、親子のような近さではないにしろ、わざわざ華都から連れてきて天君になれなどというのだから、薄くではあれ、血縁関係にあるのではないか。

「ここまでにしましょう」

 真翠淵が溜息をつき、視線を逸らした。

 楊淵季は立ち上がり、本棚に向かって言葉を掛ける。

 すると声錠が外れ、本棚がずれた。

 すぐ外に、道士が待ちかまえている。

 私は外に出ずに、『術覧』の箱に近づき、手を伸ばした。

「興味があるの」

 薄い香の匂いが空気に漂った。

 振り向くと、真翠淵が微笑んでいる。

「ええ」

 彼女は、そうなの、とつぶやき、『術覧』の箱に手をかけた。

 柔らかそうな肩が私のそばにある。

 不思議な気持ちだった。

 楊淵季によれば、天君が一番殺したいと思っているのは私のはずだ。

 真翠淵は天君の娘だというが、私に対する殺意は感じられない。

「医学に興味があるの」

「ええ」

 箱はすでに紐が解かれ、蓋を取られていた。

 中には青い布張りの表紙が見える。

 あの本がないかと思ったが、『術覧 巻二十一 医部』などと書かれているだけだった。

 私は内心ため息をつく。

 これは、細かく見る必要がありそうだ、と覚悟を決めた時、鸚鵡が書庫に入ってきた。

 顔を上げると、本棚の陰から楊淵季が覗き込んでいる。

 いつになく不安そうな顔だ。

「戻るぞ」

 わかったと答え、真翠淵にまた本を見せてくれるように頼む。

 彼女は箱に蓋をしながら、小さく笑った。

 やはり、敵意があるとは思えない顔だった。

「あの子を守って。最後にはあなたを頼って来るだろうから」

「楊淵季が?」

 真翠淵の指先は、箱を結ぶ黒い紐を弄んでいる。

「なぜ、あなたのような人を迂峨過都に上げたかわかる?」

「どうしてですか?」

 首を傾げると、彼女はうつむき、眉を寄せた。

「彼は私たちに決して本心を語らなかった。天君になるともならないとも言わない。こちらに着いてからは食事もとらず、知識ばかり身につけて」

「しかし、彼は学問に対する理解は早かったでしょう。優秀な男です」

「だから手に負えないの。叱りようがないのよ。洞内の道士と話すこともない。新しく天君になったとしても、最初の数年は皆が天君の道術を疑っている。力で押さえ込まなければならないのに、彼には洞内に仲間もいない。話しかける者があれば、昨日私にしたように威圧的な態度を取る。誰もが彼が優秀だとわかったけれど、協力しようとは思わないでしょう。それでは、天君になってから危ういのよ」

「彼は威圧しているんじゃありませんよ」

 たぶん、自分の内部にある感情を抑え込もうとしているだけだ。

 見られたくないから。

 かつての私と同じだ。人前で泣くことすらできなかった。

 そうできる周仲興に驚きもした。

 彼女は、そう、とつぶやき、長いため息をついた。

「あなたを龍鳳洞に入れたのは、ここまで追ってくるような友だちなら、心を開くかも知れないと思ったから。心は開いたけれど、逆効果だったみたいね」

 そして、半ば諦めたように笑った。

「あの子が反抗的になったのは、あなたと一緒につかまってからよ」

「おい、陸洋ってば」

 再び楊淵季が呼んだ。

 私は袖の中で腕を組み、真翠淵に礼をすると書庫を出た。

 外には道士が三人立っている。歩き始めると、彼らも一緒について来た。


 書庫を出ると、すぐに長い階段がある。

 一人通るのがやっとという階段だった。

 前後を道士にはさまれて下りていくと、小さな踊り場に出る。

 そこから右の扉を開けると、細い廊下が伸びている。

 道士が扉を開ける間、階段で待っていると、不意に冷たい空気が足元をかすめた。

 階段の奥からだ。

 見下ろしてみるが、階段の奥は闇に飲まれている。

 不意に、後ろから、お進みくださいませ、という声がした。

 気がつくと、すでに扉が開いていて楊淵季の姿が見えない。

 もう一度階段を見下ろしてから扉を出ると、楊淵季が苛々した顔で廊下に立っていた。

「どうした」

「いや、あの階段は、どこに続いているのかと思って」

 すると、あれか、と顔をしかめる。

「さあな。ずっと下りていくと、扉が一つある。(せい)(じよう)だろうが、鍵はわからない。おまえらは知っているんだろ」

 話しかけられた道士たちは緊張した顔になって、存じません、と答えた。

「本当に?」

 すると、三人とも顔を伏せ、(おび)えたように唇を結んだきり黙ってしまった。

 仕方なく廊下を歩き始める。

 まるで葬列のような静かさだった。

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