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第一章 山麓河深(七)

事件シーンです。いろいろなものが吹き飛ぶので、苦手な方は避けてくださるとうれしいです。回避なさった方のために、次回の冒頭に貧血にならない程度の事件のあらましが書いてあります。よろしくお願いいたします。

 私たちが盃華楼の向かいの路地に隠れていると、さっきの男たちが店から出てきた。辺りを見回し、探している。

 おかみが扉から顔をのぞかせ、いちばん背の高い男に話しかけた。男は首を横に振り、地面を這うような低い声で言った。

「いや、あの馬鹿力だ。俺の肋骨をきしませやがった」

 おかみが呆れたような顔をして、招き入れるように手を振った。男たちはおかみと数語言い合っていたが、一人、二人と盃華楼に戻っていく。最後の一人が中に入ると、扉が閉じられ、鍵が掛けられる音が聞こえた。

「もう、大丈夫だろう」

 仲興が辺りをうかがいながら、路地を出る。

「戻るのか」

 伯文が袖についた土を払いながら言った。

「しかたないだろ。明日だ、明日」

「また同じことになりそうな気もするがな」

 二人の声を聞きながら、私は盃華楼の隣の建物を見つめた。

 小さいが奥行きがあって、窓も等間隔についている。入ってすぐの辺りは食事を出す店になっているのだろうが、奥に客を泊める部屋がありそうだ。

「あの店がどうかしたのか」

 仲興が私と並んで、店を見上げた。

「わからない。店の妓女が気にしていたんだ」

「どの女だ?」

「灰色の目の人だよ。……『山麓』で会ったあの男も、同じ目の色をしていた」

「それを早く言えよ!」

 私たちは素早く道を渡り、店に近づく。薄い木戸は閉まっていたが、明かりが漏れていた。中からは人の声がする。

「今度は入り方に気をつけろ。いきなり鸚鵡の話はだめだ」

 仲興が私たちを振り返った。

「すまん、さっきは血迷ったのだ」

 伯文が珍しくうなだれる。

 仲興が肩を竦めた。

「行こうぜ。あんな小さな店じゃ、血迷うような妓女も雇ってないだろう。裏から回るか」

 その時だった。

 太鼓を破るような音がして、光が走った。思わず顔を覆う。腕に何かが当たった。木戸の破片だ。

 顔を上げると、店の中が見えた。

 煙の匂いのする中、椅子が散らばり、机が壊れていた。床には人が倒れているのが見える。

 中から、老人らしき人影が現れた。仙人のように髪と髭を長く垂らしている。白い髭は、暗がりの中で浮かび上がって見えた。

「怪我はありませんか」

 私は老人に駆け寄ろうとした。

 老人が立ち止まった。

「近寄るでない」

 その言葉と、ほぼ同時だった。

 老人の体が金色に光った。まばゆさに一瞬、目を閉じる。

 目を開けると、老人は、いなくなっていた。

「消えた?」

 仲興が呆然とした声で言う。

「そんなことはありえない……はずだ」

 伯文が感情を抑え込んだような、切れの悪い発音で言った。

 私たちが立ちすくんでいると、店の中から体格のいい男が駆けだしてきた。手に持った蝋燭が風に揺れ、今にも消えそうだ。

「おい! 老人がいただろう。どこに逃げた」

 つかみかかりそうな勢いだ。私は左半身を引き、拳を握る。

「消えました。光を放って」

「嘘だろ」

 男は青ざめ、首を振った。背後には扉が吹き飛んだ店があった。

「賊だ」

 仲興が震えているのが、声でわかった。

 私はもう一度、拳を握り直す。掌に爪が食い込むのを感じた。

「少年を、泊めませんでしたか。鸚鵡を連れた、目の色が灰色の、色白の男です」

「鸚鵡はわからないが……目の色が灰色の男は泊めた。まさか、こんなことに」

 どうやら、この男は店の主人らしかった。苦い薬でも飲んだように、唇を歪ませている。

「いつまでいたんです」

「一刻ばかり前だ。そそくさと出ていって」

 店の主人は地面にしゃがみ込み、燭台を土に置くと頭を抱える。

 その横を、誰かが通り過ぎた。頭から血を流している。怯えた目でこちらを見ると、習慣のように会釈をする。

「ああ、おやじ。おれは、家に帰るよ」

 連れだって歩く女が、殺される鳥のような声で、医者に行かなきゃだめだ、と叫んでいた。そういう彼女も着物が血で染まっている。

「医者はこの道の突き当たりだ」

 向かいの建物から、そう叫ぶ声がした。

 その声につられたように、店の中からぞろぞろと人が出てきて、列になって道を奥へと歩いていく。食事の客、泊まり客、使用人らしき、薄汚れた袴子の男。

 誰もが血を流していた。

 最後に出てきたのは、腕から多量に血が出ている男だった。

 すぐにでも止血しなければ危なかった。私は駆け寄って、彼の腕に手を伸ばす。だが、そのまま棒立ちになった。

 男には、肘から先がなかった。

 私はこめかみに冷たい物を押し当てられたように目がくらんだ。

 男はぼんやり前を向いたまま、傷をかばうこともなく列に加わる。

 私はその場に座り込み、襟を押さえた。胸を圧迫するような息苦しさがあった。

「息を吸うのだ、陸洋」

 肩を叩かれて、ようやく深呼吸する。震える膝を押さえながら立ち上がる。

「あなたもお立ちください」

 伯文は店の主人にも声をかけた。

 仲興が、はじかれたように店の中に駆け込んだ。

 彼を追って中に入ると、店の壁が赤くなっているのがわかった。血だ。

 椅子の殆どは背がなくなっている。円卓は足が吹き飛ばされて、折れていた。床には割れた黒酢の瓶が落ちていて、店全体に、匂いが満ちている。

「人の店を、こんなふうにするのかよ」

 仲興が歯ぎしりをした。

「役所に届けよう。これは明らかな被害だ。放っておいてはいけない」

 伯文がまっとうなことを言った。

 私は言葉がなかった。

 店に入ってきた主人は、黒酢の瓶のかけらを、黙々と拾っている。

 私も手伝おうとした時、店の外が騒がしくなった。松明を持った役人が、調べにきたらしい。

「出るぞ」

 仲興が私の袖を引いた。

「でも、このままでは」

「俺だって許せない。でも、親に面倒かけたくないだろ」

 仲興はそう言うと、私たちを裏口のほうにおしやった。

「どのみち、俺たちにできることはほとんどないんだ」

 脳裏に、手を失った男のことが浮かんだ。彼の止血すらできなかった私に、何ができるというのだろう。

 情けない気持ちになりながら、私はうなずいた。


 憂鬱な気持ちで橋を渡り、気がついたら周家の前まで戻っていた。だが、三人とも中に入ろうとはせず、誰からともなく「山麓」に向かって歩きはじめた。

「そういえば、学長、うちまで何をしに来たんだろうな」

 気持ちを振り払うように、仲興が明るい声で言った。

「陸洋を見込んで頼みたいことがあると言っていたな」

 伯文も、いつもの調子で応える。

「見込み違いじゃないかな。たぶん」

 私は小さな声で言う。仲興が驚いたようにこちらを見た。視線をそらすと、話はそれきりになった。

 しばらくして仲興が、そうだ、と言って、近くにある肉包店から蝋燭を借りてきた。

「前に学長が地下に入るのを見たんだ。『山麓』に回廊があるだろ、その下の板を外してさ。そこなら、朝まで過ごせるかもしれない」

 な、と言って、仲興は私をのぞき込んだ。

「おい、元気出せよ」

 何も言えず、ただ、精一杯の笑顔を作ってみせた。私を見ていた仲興の顔が引きつる。私は、きっと、ひどい表情をしているに違いなかった。

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