第一章 山麓河深(六)
盃華楼は大通りに面していた。二階の簾は閉まっていて、明かりもない。店の扉は薄く開いていたが、通りからは中はうかがえなかった。
「ここだろ」
仲興がけだるい声で言う。
「ここだな」
伯文が二階の欄干に掛けられた額を見上げる。
仲興が扉を押した。
中に入ると、中年の女が笑顔を向けてこちらに歩いてきた。目は仲興の着物を見ている。ひとしきり値踏みしたあと、女は笑顔を見せた。
「どうぞどうぞ。どんな酒が好みですか。それから、どの子が酒をお注ぎしましょうかね」
奥にはたくさんの客が妓女を抱きかかえるようにして酒を飲んでいた。中年の女が呼ぶと、三人の妓女が出てきた。瞳は一人が青く、一人は茶色かった。
私はもう一人の女に見入る。綺麗な灰色の目をしている。
あの少年と同じ目だ。
「おや、そちらのお方は、この子が好みかね? じゃあ、おまえ、相手をおし。新入りにはもったいないお客だよ。さあ、こちらへどうぞ」
言われるままに、奥へと入ろうとする。と、後ろから帯を引っ張られた。
「ばか。ここのおかみは金を取るのがうまいんだ。あっちの席は高いんだよ」
仲興の声に、慌てて立ち止まる。
「来たことがあるのか?」
「うるせえ。ここだけだよ。使用人に連れてきてもらったんだ。学長には秘密だぞ」
私はうなずいて、我が家の使用人、厳の顔を思い出す。彼では、とてもこんなところに連れてきてくれそうもなかった。
「こら、待て、伯文」
仲興が甲高い声で呼んだ。
見ると、伯文も妓女についてふらふら歩いている。見たこともないようなくつろいだ表情だ。仲興が腕をつかんで引き戻し、おい、と言った。
「何してるんだよ、おまえは」
「間近で見ると、綺麗な女も悪くないな」
伯文の鼻の下は、まだ伸びている。
「じゃあ、今まではどんな女が良かったんだよ」
仲興は伯文に顔を近づけて睨んだ。
「おまえな。そんなために来たんじゃないだろ」
「ああ、そうだったな。そうだ。役目を忘れてはならぬ」
急にまじめな表情に戻ると、伯文は店のおかみに向き直った。仲興と私が、あ、と同時に声を上げた。仲興は伯文の口元に手を伸ばそうとし、私は背後から羽交い締めにしようとした。
だが、間に合わなかった。
「私は酒を飲みにきたのではありません。鸚鵡を見ませんでしたか」
店にいた男も女も、いっせいにこちらを見た。
「うわ、言った」
仲興が肩を竦める。私は伯文の腕を引き、扉へ戻ろうとした。
すると、入り口付近に座っていた男たちが立ち上がった。こちらに歩いてくる。
「鸚鵡だって。ぼうや」
背後から、おかみの声がした。振り返ると、おかみの顔から、すっかり表情が消えていた。化粧だけが浮き上がって見える。まるで白い石に落書きしたみたいだった。
そんなことを思っているうちに、おかみが男たちを呼ぶように手を振った。
「鸚鵡なんて知らないね。客じゃないなら出ていってくれ」
男たちはすぐそばまで来ていた。まくった袖からは、私よりも二回りも太い腕が見える。
「店を出よう」
仲興が男たちの間をすり抜けようとした。だが、男たちは間をつめて、仲興を通すまいとする。
「待て、ここで鸚鵡のことを聞くのではなかったのか」
伯文がいつもの調子で言った。
「話を聞ける状態だとは思えないよ」
私は答えて、男たちを押しのける。仲興が伯文の腕を引っ張り、すばやく男達の間を抜けた。
二人に続いて、男たちの間を通り抜けた。
店を出ようとした瞬間、灰色の瞳の女と目が合った。
彼女はすぐに視線をそらし、窓の外を見た。隣の建物が見えている。
灰色の目の女は、その建物を、じっと見ていた。
「行くぞ」
仲興の声を聞いて、私も店の外に出た。
次回、事件シーンです。血などが苦手な方はとばしてください。次々回に次回のさらっとしたあらすじをつけます。