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第一章 山麓河深(五)

 私たちは無言で橋を渡った。この橋は華都でいちばん長い。橋を支える柱は人の背丈の三倍もある。だが、河面から見えているのは、私の背ほどしかない。これだけ河が深いのは、華都の下にある地下水脈から水がわき出ているせいだとも噂されていた。

 橋を渡りきると、通行人のほとんどが酔っぱらいだった。仲間との話に興じている者や、一人でぼんやりしている者もいた。

 中には、仲興の着物をちらちら見ている者もいた。

「ぼうずたち、酒を飲むのかい」

 不意に、二人連れの酔っぱらいが近づいてきた。仲興の着物に手を伸ばしている。恵利に施された刺繍をなでると、男はかすれた声で笑った。

「いい物、着てるじゃねぇか」

 大きな声だった。千鳥足で前方を歩いていた男たちが振り返る。通りがざわめいた。うかがうように見回すと、背後にも立ち止まって聞き耳を立てている男たちがいる。

 私は目の前の男の着物を見つめる。

 刺繍はないが、生地はいい。どこかの商家の者だろう。どうりで、「いい物」だと見破ったわけだ。仲興の着物は古びているが、刺繍の糸の色は鮮やかなままだ。よほどよい糸を使わなければ、こうはならない。ただし、知っている者でなければ気づかないことではある。

「おい、金があるならくれよ。おまえらが持っていたってしょうがないだろう」

 男が仲興の顔の前に掌を差し出す。

 私はとっさに仲興と男の間に体を割り込ませた。

 男がじろじろと私を見た。

「あんたには用がないぜ」

 まるで、私には金がないだろう、と言っているようだった。

 私は赤面する。大臣家とはいえ、子どもが多すぎる我が家では、着物はお下がりと決まっていた。上の兄から下の兄まで着たせいで、私の着物はすっかり色が抜け、かつて薄水色だった生地も、灰色になっている。

 男はあざけるような笑みを浮かべ、顎をさすっている。

 逃げ出したかったが、いつの間にか着物の帯を後ろからつかまれていた。仲興に違いない。私は、息を吸い込んだ。腰のあたりで拳を握り、震えないように足を踏ん張ると声を出す。

「酒くらい、自分の金で飲んだらどうです」

 私の声が、辺りに響いた。酔っぱらいは、一瞬、驚いたように首をそらしたが、次には私の襟を乱暴につかんだ。

 反射的に私はその手をつかみ、外させる。男の指先は紫色になり、震えていた。これ以上、力を込めてはいけない、そう思ったが、加減ができない。

「皆様方、早くお帰りになったほうがよろしいですよ」

 突然、きまじめな、はっきりした発音の声が聞こえた。

 隣を見ると、伯文が私と並んで立っている。

 思いがけず、私の腕から力が抜けた。男が慌てて私の手を払う。

 伯文は男に一礼すると、告げた。

「早くお帰りください。鸚鵡の声が聞こえたら、特に急がねばなりません。賊が出る合図になっておりましてね」

 伯文は袖の中で腕を組んだまま、男へと一歩進み出る。

 気圧されたように、男が一歩退いた。

「この繁華街には賊に襲われた宿屋があるでしょう。襲われたことを隠しておるでしょうがね。だが、私たちは探しております。どなたか、お聞きではありませんか。鸚鵡の声のする宿を」

 伯文が辺りを見回す。ざわついていた男たちが黙り込んだ。辺りは急に静かになり、楼閣の二階から見ていた女たちも、客を部屋に入れ、窓を閉めた。

「賊は光を放って消えてしまうそうです。物の怪か、仙人か、追いかけようがないようではありますが、ともかく賊の近くには鸚鵡がいる。しかも、その鸚鵡は籠に入っていません」

 かご。

 この期に及んで、まだ、伯文はそこにこだわっている。私は頬を緩めた。同じ気持ちだったのか、帯をつかんでいた仲興の指の力も緩んだ。

 伯文はまだ、話を続けている。

「今日、華都に鸚鵡がおりましてね。しかし、行方が知れない。どこぞ、繁華街にでも出るかと探しておる最中でございます。どなたか、鸚鵡をご覧になりませんでしたか。光を放つ賊を、招き入れる鳥を」

 私たちの周りから、どんどん人がいなくなった。

 去る人の中から、ささやき声が聞こえた。


 (はい)()(ろう)か。今朝だ。鸚鵡が。


「鸚鵡をご存じの方は」

 まだ大声を上げて通りに呼ばわっている伯文の口を押さえ、背後の仲興に目配せすると、私は店と店の間の路地に逃げ込んだ。

「ありがとう。助かったよ」

「かまわぬ。陸洋はばかに力が強いから気をつけるのだな」

「はっきり、馬鹿力って言ってくれていいよ」

「怪力あたりで手を打ったほうがよいだろう。しかし、これからどうする。皆、逃げてしまった」

「たぶん、伯文のせいだけどね……」

 意外、というように、伯文が私を見た。私は曖昧に笑みを返す。

「まあ、よい。どうやって賊を探したものだろうな、仲興」

 伯文が振り返る。私も仲興を見た。

 私たちは思わず言葉に詰まる。

 仲興は泣いていた。目を開けたまま、さらさらと涙を流している。

 怖かったのか、そう聞こうとしたら、伯文が私の口元に手をかざした。

「やれやれ。まあよい。なにか当てはないのか、陸洋」

「ええと、盃華楼に行ってみようよ」

「なるほど。大きな店なのか、仲興」

 伯文の問いに、仲興が目元を袖で拭いた。

「でかいよ。行ってみるか」

 まだ涙が残っているのか、仲興が鼻をすすって言った。

「では、行こう」

 伯文が通りに出ようとした。仲興が伯文の帯をつかむ。

「どこへ行く気だ」

「だから、盃華楼に決まっているだろう」

「おまえな。その店がどこにあるのか知っているのか?」

 仲興が尋ねた。

 伯文がこちらを見た。私は首を横に振る。

「ああもう」仲興は伯文の帯から手を放して、大きなため息をついた。「おまえらな。場所くらいわかってから動けよ」

 ほつれていた前髪を掻き上げた仲興は、ちまたを賑わせる遊び人のようだった。思わず見とれていると、頭をはたかれる。

「行くぞ。ここまで来たんだ。綺麗な女も見て帰ろう」


 通りに出ると、辺りは閑散としていた。先ほどの伯文の演説が効いているらしい。左右に立ち並んだ店は、多くが酒屋だった。二階の欄干からは女が身を乗り出して通りを見下ろしている。皆、不満顔だった。客が逃げてしまったからだろう。

「若い人たち、こちらにいらっしゃらない?」

 しなを作った女が手を振った。目が合うと笑顔になり、手招きをする。左頬のえくぼが夜の黒さを吸い込んでいた。

「妓女だ」

 仲興がつぶやいた。

 私たちが店に入ると思ったのか、女は部屋の中に向かって呼びかけた。と、昔風にゆったりと高く髪を結い上げた女が現れた。白い歯がふっくらした唇の下で微笑んでいる。

 不意に、女が顔をあげた。彼女の目に月の光が入った。青い瞳の女だった。

「この辺りは西方出身の妓女がいる。料理も、少し変わったものを出すそうだ」

 仲興が足元の土を蹴った。

「酒場だからな」

 興味がないように伯文が楼閣を見上げ、私の腕を引く。

 仲興が先頭に立ち、私たちは誰もいない通りの真ん中を歩いていった。

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