第一章 山麓河深(四)
通りを走っていると、空気が風になって頬に当たった。その冷たさに、日頃の不安がよみがえり、脳を駆ける。
確かに私は出来損ないだ。兄たちのように、素直に役人になりたいとも思わず、授業でもよそ見をし、露店で肉包を買い食いする。
――あの欧家で唯一の出来損ない。
露店の明かりが目にしみた。視界は霞み、呼吸も苦しい。
立ち止まり、膝に手を当てて呼吸を整える。
目の前に、茶が差し出された。
「落ち着けよ。陸洋」
仲興の声だった。
「ごめん。ああでも言わないと、おまえ、学長に全部話しちゃうだろ。優等生だからさ。俺、華都の商売を乱すやつは自分の手で捕まえたかったんだ」
私は黙って茶碗を受け取り、香りのある茶をすする。
顔はあげられなかった。
「泣いているのか」
仲興がのぞき込もうとした。
「そっとしておけ」
伯文が私の前に立ち、そう言った。
私はうつむいたなな、露店の明かりが地面に映るのを眺める。光は暗闇の中で濁って、境界線がはっきりしない。明かりの一部は引き裂かれたように闇に飲まれていて、その先には、すったばかりの墨のような光がある。河だ。
川に落ちた光は、妖怪でもはらんでいるかのように揺らいでいた。
いつもは振り払っている不安が、頭をもたげた。
出来損ないの私が「山麓」でよい成績を上げたところで、官吏登用試験には受からないかもしれない。試験には最後に、皇帝陛下との面接試験があるからだ。陛下は、私が実はまじめでも素直でもなく、出来損ないだと見抜いてしまわれるだろう。試験に落ちた者は今まで欧家にはいない。ならばもう、私は家族とみなされないのかも知れない。
そうなったら、私はどうやって生きていくのだろう。
「おい、大丈夫か」
伯文が私の肩をつかんだ。いつの間にか、私は震えていた。
「ごめんな」仲興が済まなそうに言う。「出来損ないだなんて言われたの、初めてだったんだろ。衝撃を受けたのはわかるよ。ごめん。俺は、いつも母さんに言われているんだ。だから、とっさに他の言葉が浮かばなくてさ」
声は少し笑っている。
私はうらやましかった。出来損ないといわれても、笑っていられる仲興が。
どんどん暗い気分になって、黙り込んでいると、不意に背中を叩かれた。
私はつんのめって、仲興にぶつかる。仲興は慌てて支えようとしたが、無理だった。
二人して地面に転がり、見上げると、伯文が何事もなかったように立っていた。
「おまえか? 伯文」
仲興が土を払いながら立ち上がる。
「いかにも、私だ」
「いかにもじゃねぇ。どういうつもりだよ」
「背後に隙があった。夜道は背後に気をつけねば」
「うるせえよ! おまえこそ、今度から夜道と背後に気をつけろ!」
「夜道は滅多に歩かん。だが、仲興の言うことももっともだな。用心しよう。これからは、おまえが私の背後で辺りを見張ってくれ」
「ふざけるなよ! おまえ、からかって……」
私は、こらえきれず笑い出した。
「何だよ、陸洋。泣いてたと思ったら笑いやがって」
「よいではないか。……もう、大丈夫だな」
伯文を見ると、珍しく優しい目をしていた。私は恥ずかしくなって、小さく、「大丈夫だ」と答える。
「さて、宿場街はあちらだな」
伯文は大儀そうに頭をかき、ゆっくりと河の向こうを指さした。
大通りに面したひときわ広い運河に、街の明かりが映っていた。その光が誘うように見ずに揺らいでいる。
繁華街の建物に目をこらすと、楼閣の二階に人影が見えた。戯れるように押し合い、時に寄り添っている。
「橋を渡ろう。あの先に犯人もいるさ」
仲興が橋の向こうを睨みながら言った。