第五章 異形漂流(六)
玄安について四日目。
私は目に付くところだけ布で拭き、船を下りた。
商人に紛れて城壁の中に入り、市場に行く。
刃物を扱う店を覗き、手の平に収まるくらいの刃物を買った。
次は、金物屋に入る。
底の深い鍋を探し、その中で一番小さいものを買った。
あとは木の箸が買える程度の金が残ったが、手元に残しておくことにした。
船に戻り、眠る時にかぶる厚手の布に鍋を包む。
芋の山から十個ほど取り出し、塩を紙に取り分け一緒に入れた。
包みを厨房に隠し、夜を待つ。
その晩は、ひどく細い月が上がっていた。
その月が西に沈むのを待って、厨房に忍び込む。
荷物を持ち、そのまま出ていこうと思った。
視界の端に、眠っている老人が入った。
数日、一緒に飯を炊いた徐さんだ。
ここで眠っているのは、炉の燃えかすに火が付いて、火事になるのを警戒してのことだった。
私は彼に近づき、さよなら、とだけ言った。
老人は寝ぼけたように寝返りを打った。
「行け」
老人のくるまった布の中から小さな声がした。
頭を下げ、荷物を背負うと、私は船から出た。
東門を入るとすぐ露店があった。
ちまきから湯気があがり、道に並べられた椅子に腰掛けた人々が語り合っている。
上手く行った。そう思った時、不意に、仲興の言葉が脳裏に蘇った。
〝商人は使用人を大切にする。〟
振り返り、はっとする。
思えば、呂と徐さんは私を助けてくれたのだ。
役人が来た時には、とんでもない湯気を立てさせた。
その後も飯炊きを任された私は、街に出ることなく働いた。
船に守られていたのだ。
私は港の方に小さく礼をした。
それから、通りを西へと進み始めた。
玄安の大通りは東西に伸びている。
通りにそって店が建ち並んでいた。
すでに閉まっているものもあったが、そういった店の前には露店が出ている。
だが、にぎやかなのは大通りだけのようだった。
一本奥の道は闇に飲まれていて見えない。
河底に沈んだ巨木のような、朽ち果ててとらえどころのない闇だ。
通りがにぎやかな分、闇が街の不安という不安をすべて飲み込んでいる。
通りを抜け、西門を出ると、辺りは闇だった。
私は足早に玄安から遠ざかる。
城内から漏れる光が遠のくのは怖かったが、ゆっくり歩いていくのも闇に長く留まるようで怖い。
城内から続いている土の道を足の裏でたしかめるように歩いていると、不意に左脇から誰かにつかまれた。
声を上げる前に口を押さえられ、引き寄せられる。
もがいて相手の袖をつかんだ。
冷たい布が指先に触れる。
絹だ。わずかに刺繍もされている布らしい。
――役人か。
そう思って目を閉じる。
背後で、声がした。
「私です」
聞いたことのある声だった。
振り返ると、闇の中で朧気に男の目と笑った歯が見えた。
「欧の若旦那。私でさあ。程適です」
呆然と眺めていると、彼は私の手に丸い物を押しつけた。
「お預かりした帯玉でごぜえます」
しばらく言葉がなかった。
帯玉を握りしめ、懐かしい暖かみを感じると、私は程適を抱きしめた。
程適も私を抱き留める。
「旦那、ああ、よかった。旦那。ほんとうに、いろんなことがごぜえまして」
「いろんなこと?」
「ええ、旦那たちが周家の船に襲われたあとでごぜえます」
私は、聞かせてほしい、と頼んた。
私たちは、二人並んで歩き始めた。
仲興が周家の使用人に捕まるのを、程適は建物の陰から見ていたのだという。
彼は安家に走り、事情を話した。
「安家のご主人は、周家のご主人と約束をしていたのでごぜえます。周の若旦那がいらっしゃったら引き留めて、すぐに周家の船に知らせるように。役人などに捕まる前に周家で保護をして事情を聞き、万が一、お役所に引っぱり出されても、弁明する手を考えるためだったそうで」
周家の船は、私たちが書庫に入った直後くらいに安朱に入っていたのだという。
あの本は私たちを書庫に留めておくため、前日のうちに探しておいたものらしい。
仲興と伯文は周家の者が保護し、華都に連れ帰った。
取り残された程適は安家で働いて、華都への船賃を稼ぐことにした。
「でも、ずっと気になってやして。帯玉が」
再び私の腰に下がった帯玉は、ずいぶん重く感じた。手で撫でると、厳がそこにいるような気がした。
「旦那の、おまもりでごぜえましょう? 私あ、気を感じやした。強い、暖かいやつを。この帯玉は旦那に返さなけりゃなんねえ、そう思って、玄安に来たんでさ。服は、安家のご主人が着て行ってかまわねえってんで」
祈りを込めると言った厳の顔を思い出す。
帯玉を握りしめると、頑固な厳の声が聞こえてきそうだった。
しかし、いくら頑固な厳の気がこもっていたとしても、帯玉ひとつのためにここまで来てくれたのは奇跡的なことだ。
「ありがとう」
口に出すと、短い音になってしまった。
足をとめ、星明かりの中、程適の肩を探す。
抱きしめると、彼は驚いたように、旦那あ、と囁いた。
私より背の低い彼を抱え込むように両腕を回し、額に顎をつけ目を閉じる。
程適は手や肩よりも、背中の方が暖かかった。
着物にはさまざまな匂いが染み込んでいた。
薬や、香辛料の匂い。
ただ、髪にはまだ、華都の香に似た匂いが残っている。
不意に淋しさがこみ上げた。今までになく辛い気持ちになった。
そばには程適がいるというのに。
「どうしました、旦那」
答えずに彼をしっかりと抱きしめる。涙が頬に流れた。
顎に伝う前に慌てて袖で拭う。
――淋しかった。
脳裏に浮かぶのは、河を一人でさかのぼる自分の姿だった。水の色も、櫂の音も、すべてが淋しい。
「ああ、安心なさったんですね」
程適が私の胸に顔を埋めた。
それから、まだ安心するには早いです、と現実的なことを言った。
私たちは互いの腕を解くと、星に光る河面を眺めながら西へと歩き続けた。
道がよく見えない夜に歩くのは危険だったが、玄安に役人がいる以上、なるべく今晩中に遠くまで逃れなければならない。
空の藍色が次第に薄くなって来た頃、一息入れることにした。
背後の玄安はすでに小さい。
木陰に隠れると、持ってきた芋を河の水でゆで、塩をつけて食べる。
だが、食事をしただけで眠りはせず、翌晩まで歩き続けることにした。
「行軍みたいなもんでさあ」
程適がおどけたように言った。




