第五章 異形漂流(二)
翌朝、また空腹が我慢できなくなった。
腹が空いているのに、激しい睡魔にも襲われていた。
運河の脇を流れている水路に入り、野の草を少し食べる。
それから、人目に付かない葦の影に船を入れて横たわる。
河の底に飲み込まれるような眠気が頭を包み、手足を麻痺させ、意識を途絶えさせた。
夢を見た。
母と妹が泣いている。
厳が慰めているが、二人は顔を上げない。
私は手を伸ばした。
だが、透明な壁があって、彼女たちには届かない。
困っていると、顔見知りの少女が現れた。
幼なじみで、小さい頃は、いつも私をしかり飛ばしていた子だ。
優しいところもあるのだが、あの気の強さには、私ごときではどうにも敵わない。
――大丈夫、絶対帰ってくるから。
怒ったように彼女は言った。
彼女があんな言い方をするときは、本当は、不安ではちきれそうな時なのだ。
――まったく、馬鹿なんだから。
精いっぱい、強がった声。
それでも、彼女は母と妹の肩を、慰めるように抱いている。
私は心の中で彼女の名を呼び、頭を下げた。
……そこで、夢から覚めた。
あたりがやけに明るかった。
葦の陰ではない。
そう気づいて辺りを見回す。
船には乗っていたが、水路ではなかった。
河幅が広い。
運河だろうか。いや、違う。運河よりも広い。
中州があるから、運河ではない。
船は大きな河の真ん中を流されていた。
力一杯漕ぎ、岸に寄せようとする。
空腹で力が入らなかった。
腹がぐうぐうと鳴った。
でも、食べ物などない。
「うるさい。ちょっとは黙っていろ」
つぶやいて、ひたすら水をかく。
岸はなかなか近づかない。
次第に腕の力もなくなってきた。
辺りを見回し、一番近い中州に船を寄せ一休みする。
眠りが浅かったのか、頭が重い。
手を伸ばすと、草にあたった。
それを引きちぎると、目の前にかざす。
見たこともない草だったが食べられるような気がした。
河の水で洗って口に放り込む。
ひどくあくの強い草だ。
しかし、吐き出す余裕もなく飲み込んだ。
眠気を押さえ、もう一度岸に向かって漕ぎ出そうとした時だった。
引き裂くような痛みが体のそこから突き上げた。
船底に倒れ込み、体を丸める。
痛みは体を突き破るように腹を打った。
神経が容赦なく刺激され、自分が発している声が悲鳴なのか、うめき声なのかもよくわからない。
頭がぼうっとして、何か脳の裏の方で叫んでいるようにも聞こえた。
額に汗が浮かび、鼻先や指が冷えてくる。
悪寒が背筋を駆け抜け、髪が逆立つように震えた。
腹の辺りは熱いのか冷たいのかわからない。
鼓動が激しい。
心臓が腹にも一つあるかのように、体中が脈打っている。
船は激しく揺れた。
私がのたうち回っているのかどうか、自分ではわからなかった。ただ、塩に藻を混ぜたような匂いだけが鼻をつく。
――気持ちが悪い。
いっそのこと気を失ってしまいたかった。
だが、もうろうとした意識はなかなかとぎれない。
痛みのあまり足をばたばたと動かしながら寝返りを打つと、空が見えた。
見たこともない丸い雲が高く立ち上っている。
船は転覆しそうなくらい揺れていた。
腹を抱え体を丸める。
腐った匂いのする風が吹き込み、次第に肌がただれるように痛み始めた。
太陽がやけにまぶしい。
不意に、船が何かの陰に入った。
瞬きをして暗さに目を慣らすと、男たちが大きな船の縁からこちらを覗き込んでいるのが見えた。
すぐに、船の上に縄が投げ込まれ、麻の着物を着た男が一人降りてきた。
男は頬と腕に傷跡があった。
「生きてますぜ」
男は上に向かって呼びかけた。
――助かった。
無理に体を起こそうとした時だった。
男が突然足をあげ、私の胸を踏みつけた。
鋭い視線をくらって、やっと悟る。
賊だ。
胸に置かれた足を手で払おうとしたが、出来なかった。
男はかがみ込み、私の首を強く押さえる。
足が降ろされた。
途端、懐に手が入れられ、学長の本と、龍鳳山のことを書いた紙、それに小銭が取り出された。
「ついでに着物も持ってこい」
上の方から声がした。
私を押さえ込んでいた男は答えもせず、帯を手早く解き、着ているものをすべて奪うと、それらを帯でひとまとめに結んだ。
「使えそうな男か」
「まだ子供だ。食あたりも起こしてるな。でも、背がでけえから、悪かないぜ」
「そいつも連れてあがれ。薬だ」
何かが船に投げ落とされる音がした。
すぐに口に何か苦いものを放り込まれ、河の水を流し込まれる。
咳き込むと、口を手で塞がれ、上を向かされた。
「上がれ。貴族の使用人として売れるかも知れねえ」
――売る?
思わず耳を疑う。
そんなことあるだろうか。
使用人というのは、仲介が仕事の者に紹介してもらって雇うものではないのか。
いや。
その時に、確か、男に紹介料を払うはずだ。使用人の身元は男が保証する。しかし、その男が嘘をついていたらどうなるか。
私はふと、欧家に売られる自分を想像した。南方の農家の出で、少し教養があるなどという紹介で。
――冗談じゃない。
私は勢いよく船の中を転がった。
「何をしやがる、この餓鬼」
男が慌てたように声を上げた。
無理に起きあがって両手を回し、体の均衡を保とうとする男を突き飛ばす。
同時に私も水に落ちた。
おぼれるように泳ぎながら舳先にしがみつく。
水に浸かった下腹部がねじれるように痛んだ。
血の上った頭と冷やされた体が不自然で、意識が遠のきそうになる。
私は必死で船をつかんだ。
船は河の中央へ、下流へと流され始めた。




