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第四章 郷愁別離(八)

 昼になると、また、軽い食事が運び込まれた。

 私と伯文は目配せをして、外に出ていないので腹が減らない、と告げた。

「安朱まで来たのですから、街を見てみたいものですな」

 伯文が大人びた口調で言い、ゆったりと腕を組んだ。

「安朱には大したものはないよ」

 張が顔をしかめた。

「ご謙遜を。安朱といえば、大貿易港。面白くないはずがありましょうか」

「華都に比べれば」

「都は貿易港とは言えません。運ばれてくる物は華都で消費されるものが多く、特に産出するものもない。ただ、文化が集まる、そういうところです。布にしても果物にしても、作っているのは華都以外の場所なのですから。安朱は珍しい布の産地だとか」

 話を聞いているうちに、だんだん張の顔が赤くなってきた。

 伯文が口を閉じ、じっと見つめる。

「あなたがたは客人だから今まで黙っていたが、突然やってきて、安朱見学をさせろとか布がどうとか、少しは遠慮というものを身につけなさい。全く呆れたものだ、事件に巻き込まれておきながら、何を街に出たいなどと」

 張は怒ったように目を見開き、机を叩いた。

 仲興が呆気に取られたように張を見上げた。

 張は構わず机を叩き続ける。

 だが、怒っている割には声が低く、外を気づかうように小さい。

 とめようとする仲興の肩をそっと押さえ、様子を見守っていると、張は最後に、大きな舌打ちをして扉を出ていった。

 私は伯文に視線をやった。

 彼は視線で、そうだ、と言ってよこした。

 張は私たちを安家に留め置き、監視するつもりだ。

「何をしているんだよ」

 仲興が伯文の胸倉をつかんだ。

 私は二人を引き離し、伯文とうなずき合う。

「旦那方、どうしたんで」

 程適が不思議そうに首を傾げた。

 伯文は黙っていた。

 安家がこれだけ親切だった真意を探ろうとした、などと言えば、仲興がもっと怒りそうだ。

「あのう、旦那方には言わなくてもわかることだかわかんねえけど、私はさっぱりでさ」

 抑えた口調だったが、わかんねえ、の辺りにとがった音が混じった。

 伯文はやはり黙っている。

「程適」

 呼ぶと、彼は精一杯胸を張ってこちらを見上げた。

「旦那方は、頭がいいかもわかんねえけど」

「私は、殺人の疑いをかけられている。でも、実際には何もしていない」

 私はゆっくりした口調で話し始める。

 今の状況が、いちばん理解できないのは程適だろう。

 私が、勢いで巻き込んでしまったのだから。

「私が見たものは、君が事件当時見たものと変わらない。昨日、仲興がここのご主人に話した通りだ。けれど、私は楊淵季と一緒に自習室に駆け込んだために、殺人の仕掛けを片づけたのではないかと疑われているんだ」

「疑われている? 旦那が? 隣の部屋に何があったんです」

「いや。自習室に何もなかった。だが、役人は信じないんだ。疑いを晴らすには、あの老人を連れて戻るしかない。だから河を下った」

 程適は少し顔をしかめ、何か言いたそうにしたが、困ったようにうつむいた。

 私は彼を見つめ、話し続ける。

「他の人には、私にそういう事情があろうと、人殺しが捕まるのが怖くて逃げたのだと見えかねない。いや、多くの人がそう思うだろう。だから、警戒をしているんだ。誰かが私を捕まえようとしているのではないかとね。ここに来てからもそうだ」

「あれは、どう見たって不思議な事件で。役人方だって、よもや、旦那が視線で学長先生を殺したなんて、思わねえでしょう」

 程適は私をうかがうように見上げた。

「確かにそれは思わないだろう。しかし、何らかの仕掛けによって首を絞めたとしたら」

「それは不可能でさあ。隣の部屋が灰色野郎の鏡に映っていたんですぜ。道術じゃなきゃ」

「いや、そっちはできるんだ」

 鏡が二枚あればいいこと。

 鏡で見えるものは見る角度によって違うこと。

 それによって、例えば学長が自習室の真ん中で倒れていようと、角度を合わせれば廊下の鏡を反射して映ること。

 私が一つ一つ説明する。

 程適はしばらくぽかんとしていた。

「ええと、お待ちくだせえ。あの、じゃあ、どうやって学長先生の首をしめたんで?」

「それがわからないから困っているんだ」

「そのあたりは、旦那方じゃなくてお役人の仕事のような気がしまさあ」

 程適は眉を寄せ、眉間を指先で掻いた。

「そうだけど、役人にとっては私たちが犯人だと考えた方が理解しやすいんだ」

「でも、役人方も河を下って行きなさった。あの灰色の目を捕まえるためでしょう」

 灰色の目。その言葉にだけ、ひどく恨みがこもっていた。

「確かに、あの老人たちを捕まえるためだ。ただし、本物の仙人だったら、みすみす役人の船に追いつかれると思うか」

「それは難しそうですが」

「どんな時でも役人は迅速に書類を書かなければならない。論理的な報告書を求められる。いつまでも捕まらない仙人を追いかけているわけにはいかない」

「でもまあ、それが仕事なんじゃあ」

「効率的じゃないだろ? いつまでも報告が上がらないんじゃ、上司に叱られるだろうし。じゃあ、どうするか。話は簡単だ。華都に戻って、こう言う。老人に話を聞いたが、欧陸洋が一人でしたことだとわかった。老人たちは利用されただけだ、と」

「は?」

「あとは、例えば、こういう仮説を立てて私を責めるんだ。おまえは隣の部屋に駆け込んだ時、死んだ振りをしていた学長の首を絞めて殺したのだろう、と」

「ちょっとお待ちくだせえ、何のために、学長先生が死んだ振りなんて」

「それも、『山麓』の経営が上手く行かないだとか、誰かに狙われていて死んだことにしたかったとか、適当な理由を作るんだ」

 程適は軽く身を乗り出し、私の顔に何か大きなものでもついているかのように覗き込んだ。ちらりと伯文に目を遣ると、苦い顔で腕を組んでいる。

「それが、役人なんだよ。程適」

 まだ信じられないのか、私を眺め回し、また、体をねじって伯文を見つめた。伯文は仏頂面を返し、仲興も俺は知らないという顔をしている。

「旦那は、どうしてそんな、役人を目指しておられるんで」

 程適は私の方に視線を戻し、首を傾げた。

「それしか、人生を知らないからだ。私の父兄は役人なんだ。世間から、尊敬を集めている人たちだ。そういう家の子供はね。生きているだけでは家族ではない」

 私は苦笑した。

 程適はやはり、わからないというように唇を薄く開いている。

 私は続けた。

「子供は家族予備軍で、他の家族と対等ではない。皆、自尊心が高いんだ。家族の自尊心を満たすような地位を得てこそ、ようやく家族だと認められるんだよ。私は、父や兄と家族になりたい。できることなら、一緒に食事をしても、話をしても、後ろめたいところのない高位高官に就きたいんだ」

 程適は目を丸くして、私を見つめていた。

 彼の黒い瞳には、私の悩みが滑稽に映っているのかもしれない。

 ほんとうにばかばかしいとは思う。なぜこんなことを真剣に悩まなければならないのかとも思う。果たせなければ、最悪死ぬしかないと思い詰めるところまで。

 鼻の奥がじんとする。目が熱いような気がした。


 扉を叩く音がした。


 顔を上げ、扉にいちばん近い私が顔を出す。

 安家の主人だった。

「先程は張が失礼をしたようで。何かございましたかな」

 主人は少し驚いたように私を覗き込んだが、すぐに笑顔を作る。

 私は黙って曖昧な笑顔を返す。

「ああ、失礼。昨晩うかがった鸚鵡ですがね」

 後ろ手で扉を閉めると、軽く腕を組み、私たちを見回す。

「運河の上を南に飛んでいくのを見た者があります。あのままだと玄安(げんあん)に至るはずだが」

 背後で衣擦れが聞こえた。

 振り返ると、伯文がこちらに近づいてくるところだった。

 伯文の足取りはとても静かで、無駄がない。

「玄安というと、運河の南の果てですな」

 役人が会話するような落ち着いた口調で告げると、丁寧な仏頂面のまま、主人の表情をうかがっている。

 私は思わず目を背けた。

 役人になったばかりの一番下の兄も、よく、あんな、感情をうかがわせない顔をするからだった。

「そこは、どんな町なんでしょう。もしや、仙人の国がある、ということでしょうか」

 主人の目から何を読みとったのか、伯文は言葉をいだ。

 安家の主人を見上げると、唇は結んだまま目を細めている。

 が、突然、大声で笑い始めた。

「いやいや、仙人など、雲にでも乗ってどこへ行方をくらますのかわかりませんぞ。まあ、知識をつけておいてはいかがかな。我が家には書庫がありましてな。帝国中から集めた本がたくさんあります。どうです、書庫をご覧になるかな」

 伯文が私の袖を軽く引いた。

 罠だと言いたいのだろう。

 私たちの様子に気がついたのか、安家の主人は私の肩を押さえ、背後の伯文を見るように首を反らした。古株の使用人が新入りを試す時の顔だった。

「私たちにはどうもわからないものも多いが、役人を目指す学生さんにはわかるでしょう。一つ、教えを請いたいものですな。なに、食事代ということでいかがかな」

 明らかに罠だった。

 書庫は蔵のようになっているのだろう。その中に私たちを閉じこめ、そのまま引き渡す。

 顔を上げ、軽く主人を見つめる。

 主人は何も知らない、と言うように眉を上げて見せ、また伯文に視線を戻した。

「よろしいでしょう」

 伯文の、自尊心を抑え込んだ声が部屋に響いた。

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