第四章 郷愁別離(一)
どのくらい経ったかわからない。
河はどこまでも暗いままだった。
最初見えていた先生の蝋燭も見えなくなり、外の明かりも届かなくなる。
どこが水でどこが壁なのかわからない闇だった。
「流されるしかないな」
伯文が船の中に櫂を上げた。
水の流れは速く、時折、ごぼごぼと濁るような音がする。
どこかによどみがあるのか、滝はないのか、全くわからない。
「蝋燭を一本でも点けておくのだったな」
伯文が、また、つぶやいた。
私は、そっと上に手を伸ばす。
手はすぐに、天井に届いた。「山麓」付近よりも天井が低くなっているらしい。
隣では、ずっと、すすり泣く声がしていた。
「ごめんね」
使用人に囁くと、彼は激しい音を立てて鼻をすすった。
「私は欧陸洋だ。君のこと、なんて呼べば良い?」
「程適でごぜえやす」
「わかったよ、程適。さっきまで、こいでいたのが孫伯文だ。それから、いちばん前にいたのが、周仲興」
仲興が少し離れたところで、よろしくな、と言った。使用人は答えなかった。
「年はいくつ? 私たちは十六だけど」
すると、少年はようやく、涙声で、同じです、と言った。
「いくつから、『山麓』で働いているの?」
「五つからでごせえやす」
「五歳で家から出てきたの? 故郷はどこ?」
「村を出たのは、三つの頃で。ずっと東の、小さな村だったそうでさあ。学長先生が旅先で捨て子だったのを助けてくれました」
懐かしむような声だった。
「でも、覚えてないです。しばらく、青東の街にある、宿屋に預けられておりまして。そうしたら、先生が戻っておいでになって、塾をやるから働かないかと。他に行くところもねえし、と思って」
「青東か。ずいぶん東の方だよな。海に面していたっけ」
仲興はそう言うと考えこむようにうなった。
「そうだ。名産物はあれの干物だ」
手を打つ音が聞えた。
「ほら、たとえば」
仲興は、干物になる魚の名前を次々とあげる。
「そうでさあ。汚れた手で干してある魚を触っちゃいけないって、よく怒られたんで」
ほんの少し程適の声に暖かさが戻った。私はほっとして、軽くうなずく。
「学長も干物を食ったのか」
仲興がまた、問いかけた。
「ええ、魚はお好きでさあ。特に南方の河でとれる魚がお好きで」
私は仲興の声がする方をちらりと見た。
闇の中で何も見えなかったが、衣擦れは聞こえた。
周家では南方のものも扱っている。そして周家ほど揃う店はない。
程適が魚を買いに来るなら、きっと周家だろう。
仲興のことだから、それを知っていて話をしているのだろう。
南方。
河の先を眺めた。「山麓」の位置からして、この河も南に向かって流れている。
「魚料理なら、俺の母も得意だ。あとは、そうだ、鴨の料理」
「鴨は、先生はお好きじゃありません。専ら、魚か豚でして」
「華都の魚は釣らなかったのか? 運河にもいるだろう」
「いいえ、先生は船は苦手でさあ。青東にいた時、一緒に船遊びをして転覆させたほどで」
程適が笑った。
「その後は、小さい私が船頭でさあ。『山麓』の椅子を運河で運んだ時も、学長先生は、こっちにこげばよいか、あっちにこげばよいか、と私に聞いたもんです」
「この船は使ったことがなかったんじゃないのか」
「その時は材木屋の船で運んだんでごぜえます。この船は一度も使ってません。私が大きくなったら、これでどこか行こうと、学長先生はよくおっしゃって」
昔を懐かしむような声を聞きながら、私も仲興もうなる。
船が苦手な学長と、得意な程適と、一人では運べない船。
「ねえ、程適」
私は彼のいる方に頭を傾けた。
「先生は、仙人について何か言っていた?」
程適は戸惑ったように、はあ、と言った。
「仙人ですか? いいえ。儒教の先生ですもん」
「じゃあ、灰色の目は? どうして、目が灰色だとか、言っていた?」
すると、程適は沈黙した。
「ばか」
仲興に脇腹を小突かれる。
辺りは水の音ばかりになり、人の息づかいも聞こえない。
「灰色の目の者は、学長先生に近づけちゃいけなかったんだ」
しばらくして、程適はそうつぶやき、口を閉じた。




