第三章 華都脱出(六)
部屋に戻ると二人はまだ、かみ合わぬ会話を続けていた。
「ここを出よう」
二人の間に割り込んで、会話をとめる。仲興が頬を強張らせた。
「見つかったのか?」
「じきに見つかる。どこか、いい場所があるか」
仲興はしばらく考えていたが、薬湯でも飲んだような顔をして、膝に手を掛けた。
「あるにはあるけどな。ただし、長居はできない。人通りの少ない路地があるんだ」
「食事を持ってきたから、そこで食べよう」
私たちはそれ以上何も言わず、ただ目配せをしただけで部屋を出る。
木陰を移動しながら裏門から抜けると、仲興が先頭に立った。
彼は体を傾けてやっと通れるような路地ばかりを進んだ。が、運河の細い支流に突き当たると右にも左にも行かず、立ち止まった。
私は黙って抱えていた器から、餅を取って差し出す。
仲興が餅を眺めた。
「小麦粉の生地に、みそとねぎを巻いたものだよ」
「そうか、では一つ」
伯文が餅を頬張った。ねぎがしゃりしゃりと音を立てる。
仲興はまだ、餅を見つめていた。
不安がよぎった。彼のような、大商人の家ではこのような簡単なものは食べないかも知れない。
「うまいぞ」
伯文はすでに食べ終え、指についたみそをなめている。
「よし!」
仲興は、一際鋭く餅を睨んでから、餅をつかみ、控えめにかじった。中空を睨むように顔を上げ、ねぎを噛む。やがて、慎重にもう一口かじると、うん、と言った。
「そうだな。ねぎを千切りにして、肉を挟めば、店でも出せそうだ。華都の料理じゃないな。どこのものだ」
「魯だよ。厳の出身地なんだ」
「みそにはもっと甘みが欲しいな」
仲興は餅を食べ終えると、器からもう一つ餅を取った。
私も一つ食べ、残った一つは伯文と半分に分ける。
「なんて言って売るかな。魯か。孔子の出身地だよな。孔子餅なんでどうだろう」
しゃりしゃり音を立てながら、仲興がぶつぶつ言っている。
「孔子餅が売り出されたら、まず私が食べてやろう。その前に、欧陸洋の殺人容疑を晴らさねばな」
伯文が冷めた目で仲興を眺めた。
「うるさいな。わかってるよ。ええと、役人に事情は話したんだったな」
「でも、役人にも疑われているんだ。私か楊淵季が殺したんじゃないかって」
役人の様子を思い出して、私は顔をしかめた。
「楊淵季か」仲興がうなった。「仙人と同じ灰色の目ってだけで、あいつは疑わしいよな」
「目だけで判断するのはやめろよ。学長だって、灰色だったんだから」
私は抗議する。
「灰色?」
仲興が慌てたようにこちらを見た。
「いつわかったのだ」
伯文が訝るように目を細めた。
「鏡に映っていたから。首を絞められて力が抜ける前に、学長は目を見開いたんだ。一瞬だけど。その時に見えた。あとから学長の目を見てみたけれど、やはり灰色だった」
「そのことは役人に申し上げたのか」
伯文が興奮を抑えるように、声を低くした。
「いや、まだ。だって」
「仙人、学長、楊淵季、と灰色の目の者の間で起きた問題であれば、陸洋は全く関係ないではないか」
伯文が首を傾げる。
「だからいやなんだ。私もだけど、楊淵季だって何もしていない」
「どうしてそのようなことがわかる」
「だって、私たちと一緒に鏡を見てたじゃないか」
伯文は口を閉じ、仏頂面になった。私の目の中をじっと見つめている。
「おぬしが実際どう思っているのかわからないがな」
そう言うと、長く息を吐き出した。
「詩の先生が言うのも、一理あるのだ。私たちは確かに鏡の中で学長が首を絞められるのを見た。だがな、私たちの目の前で学長が殺された、と言うわけではない。あくまでも鏡に映ったものしか見ていないのだ。鏡に映っていないところで何があったのかわからないのだよ。もしかしたら、何らかの理由で、学長が自ら首を絞められる演技をしたのかも知れない」
まるで、仙人の仕業ではない、という言い方だった。
「でも、道術が使えない者ができることだろうか。鏡に映っていたのは自習室だ。廊下ならともかく、あんなところ」
言いながら、頭が過熱していくのがわかる。
「落ち着け、欧陸洋。映るんだよ」
仲興が割って入った。
「え?」
「おまえが去ったあと、俺と伯文で試してみたんだ。うちの母さんが、合わせ鏡で髪を直しているのを思い出したからさ」
仲興を見ると、眉間を指でもんでいる。
「何を」
「鏡を使うんだ。二枚な」
「二枚?」
「そう。一枚を廊下に置き、一枚は堂に置く。隣の部屋に学長を立たせる。廊下の鏡に映る位置にだ」
少し考えて、私は理解する。
廊下の鏡に、学長が映る。それが、堂にある鏡に映る。堂に映った鏡を、私たちがしかるべき角度で覗き込めば、隣の部屋が見えるのだ。
鏡は、正面から鏡を覗けば自身が映る。
しかし、脇に避け、横目に鏡を見ると、正面にあるものは映らない。ちょうど私たちが横に避けた角度と同じくらい、鏡とは離れたものが映る。それも、私たちとは反対側にあるものだ。
それは、鏡がいくつあっても変わらない。
「でも、そんな大きな鏡なんて見たことがないよ」
鏡は金属を磨いて作る。だいたい、丸くて顔くらいの大きさのものが多かった。もちろん、あの老人が持っていたものは水瓶の底ほどもあって、とても大きかった。ただ、同じ物が二枚あったとしても、隣の部屋をちょうどいい角度で映し、さらに老人の持つ鏡に映すのは容易ではない。
「それが、あり得るかも知れんのだ」伯文が眉を寄せ、肩をすくめた。「吹き飛んだ廊下のあとから、大量の銀色のかけらが見つかっている。これがそのうち一つだ」
伯文が袖から取り出したのは、三角に割れた銀色のものだった。手に取ってみると、透明で固い面があり、銀色に光っている。覗き込むと、鏡のように目が映った。
「あれだけかけらがあるなら、扉二枚分くらいの大きさの鏡だったかも知れんな」
伯文の言葉を聞きながら、過熱していた頭が冷めていくのがわかった。




