第二章 仙鏡宿鬼(二)
「山麓」の堂に入ると、すでに数人の学生が席についていた。私たちも席に座り、始業を待つ。
学長が、前の扉から入ってきた。
「新しい仲間を紹介します」
その言葉に、堂がざわついた。
私は灰色の目の少年のことを思い出し、身を強張らせる。
「入りなさい」
学長の声を合図に、あの少年が入ってきた。壇上では、いっそう背が高く感じる。
彼は最初うつむいていたが、皆の正面までくると、顔を上げた。
彼の灰色の目を見た途端、仲興と伯文が立ち上がる。私は彼らの襟首に手を掛け、座らせる。
少年がこちらを見た。
目が合うと、彼はにこりと笑った。
「楊淵季です。よろしくお願いいたします」
私は思わず見とれる。皇帝陛下を侮辱した時のような厳しさはどこにもない。はっとして、周りに鸚鵡がいないか探す。だが、いなかった。
「欧陸洋の隣の席が空いているから座りなさい。彼がいろいろ教えてくれるだろう」
彼はうなずき、会釈をして席についた。彼の灰色の瞳に気づいたのか、学生たちがざわついていた。
私は楊淵季の様子をうかがう。
この男は仙人らしき老人に狙われている。行く先々で事件も起こっている。
しかし、こうして横顔を見ていると、日焼けを知らないような白い肌も、儚い印象の灰色の瞳も、整った鼻筋も、とても狙われるようなことをした人物のものだとは思えなかった。
「こいつか」
前の席の仲興が、振り返って私の袖を引いた。
「ああ、うん」
「そうか」
仲興が喧嘩相手でも見るように、楊淵季を睨む。慌てて彼の目を手で覆った時、学長が出て行き、詩の先生が入ってきた。
「そこ、何をしている」
先生に叱られて、仲興が私の手を払った。先生は私たちを眺めてから、楊淵季に視線を移す。先生の目に、不審の色が浮かんだ。
「今度の新入生は異形か」
そう言い、じっと楊淵季の顔を見つめる。
先生の言葉に、私は腹の底で不満が蠢くのを感じる。
先生は賊と灰色の瞳の少年について、噂を聞いているのかも知れなかった。そうだとしても、異形という言い方は、悪意があるように思えた。だいたい、異形というのは、羽が生えていたり、掌に目があったりするのを言うのではないか。瞳の色が違うくらいで、使う言葉ではない。
「君は、詩をどこまで覚えているのかね」
新たな標的を見つけたというように、先生は片頬にだけ笑みを刻む。
「多少は勉強してまいりましたが、先生のありがたいお教えが必要でございます」
楊淵季は絵の手本のように笑い、答えた。
先生がひるんだようにのけぞった。が、すぐに眉を寄せて告げる。
「では、私が題を言うから、その詩を暗唱してみよ。まずは、最初の詩だ」
楊淵季は立ち上がった。
「関関雎鳩、河の洲に在り。しとやかな淑女は君子の好逑」
程良い音程の声が堂に響き渡った。
それから、先生が指示した詩を、彼は一文字も間違えず暗唱していった。
しかし、三百五篇あるうち、三百篇目以降の詩を指示されるようになると、楊淵季は突然、口ごもるようになった。
「なんだ、降参か」
先生が、にやりと笑った。
「申し訳ありません。最近ようやく学問を始め、ここまでしか存じません。先生のご指導を渇望しております」
先生はしばらく興味深そうに楊淵季を見つめていたが、不意に手を打ち鳴らしてうなずいた。
「久しぶりによい学生に出会った。君ながら主席で合格するのも夢ではなかろう」
「めっそうもございません。不勉強な学生は、ただ先生に教えを請うのみでございます」
嘘をつけ、と私は心の中で舌打ちする。三百五篇のうち、数篇を残して覚えるなどということはない。そこまで行けば、嫌でも最後まで覚えてしまう。
この男はたぶん、すべてを暗唱できるはずだ。だが、先生の機嫌をはかって途中でやめたに違いない。
先ほどまでの好印象が失せ、嫌な気分になった。
「よろしい。今日はここまでにしよう」
詩の先生が、また、手を打ち合わせて言った。
私は耳を疑った。今まで、この先生が講義を早く切り上げたことなどなかったはずだ。周りの学生も、様子を見て、しんとしている。だが、詩の先生が堂から出て行くと、空気を揺るがすような歓声がわいた。
瞬く間に楊淵季の席の周りは、学生で一杯になる。
「どうやって詩を覚えたんだ」
一人が尋ねた。
「なに、これさ」
楊淵季は悪戯っぽく笑ってみせ、懐から布を取り出す。着物と同じ、薄い水色の布に、詩がびっしりと書いてあった。
「題を聞いてから詩を探して読み上げただけだよ。最後の方は面倒になってしまったけどな。別に出来がいいわけじゃない。それより、この辺りでいちばんうまい露店はどこだろう。肉包か、うどんか」
学生たちはまた歓声を上げ、大通りから一本入ったところにある、だとか、「山麓」のはす向かいがいい、などと口々に言った。話題が果物になると、うさんくさそうに眺めていた仲興までもが輪に加わった。
私は席を立ち、廊下に出た。
口の奥が苦かった。楊淵季が暗唱している間、あのような布きれを取り出すのを見たことはなかった。
それなのに、あんな嘘をつく理由は、一つ。
優等生だと思われるのを避けるためだ。
優等生が学友に悪く思われる時期を、私は知っている。一つは試験前、一つは成績発表の時、そしてもう一つは初めて出会った時。
官僚を目指しているせいか、学生たちは派閥を作る練習をしている。誰が同格で、誰が違うのか。違う者は劣っていようと優れていようと蔑む。ただし、優等生には一応尊敬の眼差しを向け、劣等生には哀れみと親切を施す振りはしている。
彼は単に、手っ取り早く皆と馴染みたかっただけだ。しかし、詩の先生への印象も悪くしたくなかった。落としどころが、あの布を隠し持つことだというわけだ。
それにしても、なぜ、彼は塾に来たのだろう。
もし彼が今まで塾に行っていないのならば、家に書物があることになる。書物には、詩と同時に解釈も載っている。だから、書物で学んですべて覚えているということは解釈も理解しているということだ。塾で学ぶ意味がない。
考えながら回廊を歩いていると、背中を叩かれた。振り向こうとした途端、腕をつかまれ、中庭に引きずり下ろされる。滑っていた足を踏ん張り、腕を引っ張り返す。相手がつんのめるように立ち止まるのを待ち、勢いよく振り向くと、灰色の瞳が見えた。
どうして、と問いかける間はなかった。
「断れ」
楊淵季は私の襟をつかみ、睨む。
「何が」
私は呆気に取られ、彼の端正な顔を覗き込んだ。
「部屋の話だ。いいか、学長がじきに話を持ってくる。俺を、おまえの家で預かるようにという話だ。断れ。俺はおまえの家の世話にはならん」
「君、何かあったの?」
「急いでいるのは学長とおまえのせいだ。おまえ、気が弱いだろう。学長は何がなんでもおまえの家に頼もうと思って、みんなの前で話をするはずだ。大臣家の息子が、学友の世話を嫌がったなんて言われたら」
それは困る。
「今、困ると思っただろう。それにつけ込んで、だ。でも、断れ。どんな理由でもいい。こんな嫌味な学友と一緒にいられるか、でも、家に病人がいる、でもいい」
「じゃあ、君が賊に狙われているから、でもいいのか」
私は体を引き、彼の手から襟を引き離すと、じっと見つめる。
楊淵季が目を見張った。瞳がはっきり見え、そこに中庭の桃の木が映っている。
「巷じゃ、噂だよ。鸚鵡を連れた少年がいるところに、賊が現れる。……今日、鸚鵡はどうしたんだ」
「欧陸洋」
彼は低い声で呼び、顎を引くと目を細めた。
「賊のことは黙っていろ。死にたくなかったらな」
私は体を強張らせる。綺麗なのに、すごんだ顔が怖いなんて反則だ。
「でも、ご家族も心配しているだろ」
「楊の家は関係ない。俺は養子だ。楊家にはちゃんと別に息子が三人もいる」
何も言えないでいるうちに、楊淵季は袖を翻して階段を上がり、去っていく。
ぼんやり見送っているうちに腹が立ってきた。
「何だよ」
私は追いかけようと、階段を上った。
目の前に、短い袴子をはいた少年が立ちはだかった。
「おまちくだせえ、旦那、ここは走っちゃいけねえところで」
東方訛りの少年は使用人らしかった。
私は立ち止まり、堂の方を見遣る。楊淵季が他の塾生と一緒に前の扉から出ていくのが見えた。同時に、仲興と伯文が後ろの扉から出てきて、こちらに走ってくる。
「ああ、旦那方、ここは走っちゃ」
「おい、大丈夫か。急におまえがいなくなったから」
「楊淵季が戻ってきた時、もしや一緒に出ていったのではないかと思ってな」
彼らは使用人を押しのけると、私の腕を引きながら堂に連れていく。堂にはもう誰もいなかった。
「楊淵季はどうしたんだ」
「うまい肉包屋に。紹介してやるっていう奴がいてさ」
仲興が窓の方に顔を向ける。
窓からは、ちょうど楊淵季たちが門から出ようとしているのが見えた。
その時だった。
塾の塀の向こうで何かが光った。
私の脳裏を昨晩のことがよぎった。
「淵季!」
とっさに窓から飛び出し、駆け寄る。
楊淵季のそばにいた学生たちが驚いて散った。
瞬間、赤い光が走る。光は小さな部屋ほどの大きさに膨れ上がり、飛び散る。突風を頬に感じた途端、背の高い楊淵季ごと吹き飛ばされた。
「もっと堂の方に離れろ!」
仲興の怒鳴り声が聞こえた。二人は走って来て私たちの腕を引き、塀から遠ざけるように引きずった。しりもちをつきながら横を向くと、隣で楊淵季が呆然としていた。
どうしたのだ、と声をかけようとした時、ようやく通りで悲鳴がしているのに気がついた。
振り返ると塾の塀がなくなっている。その向こうにあったはずの露店もない。ひどく燃え上がる炎が見えるだけだ。
突然、頬を殴られた。
「逃げるんだ。立てよ!」
仲興だった。
私たちは弾かれたように立ち上がり、堂に向かって走り出した。
窓から堂に入ると、学長が庭に飛び出していくのが見えた。
通りの人が、露店が吹き飛んだ、と叫んでいた。
背後に震えを覚え、肩を押さえる。が、震えはとまなかった。
私が震えているのではなかった。
振り向くと、楊淵季が青ざめていた。
「火薬だ」
そうつぶやき、震えている。
火薬? それはなんだ?
訳がわからないまま通りに視線を戻すと、学長がこちらを振り向いていた。離れている私にもわかるくらい、腕が震えている。見守っていると、唇が動いた。
火薬だ。
学長は、頬を引きつらせながら、そう言っていた。
参考文献
『詩経国風』 白川静 訳注 一九九〇年 平凡社




