第二章 仙鏡宿鬼(一)
私たちは扉から出て、座り込む。
「塾の下に河が流れているなんて反則だぜ」仲興が舌打ちした。「きっと、地下水脈の一つだな。学長、わざわざここを選んで塾を建てたのかな」
「しかし、河の上など、地盤が弱いだろう。建物も湿気を含んでよくない。選ぶ理由があるとは思えんな」
伯文が少し怒ったような口調で言った。
耳を澄ますと、扉の向こうで水の流れる音が聞こえる。河の位置は、ちょうど学長の寝室の真下にあるから、部屋の中にいても床板の間から水音が聞こえるかも知れない。伯文の言うとおり、選んで住むには非常に住みにくい場所だった。
とはいえ、学長がわざとここに寝室を設けたであろうことは、見当がついた。
――ここは逃げ道がある。
さっき、学長はそう言っていた。逃げ道というのなら、わからなくもない。学長の寝室の真下にあるのは、一刻も早く逃げ出すため。しかし、それだけ急いで一体何から逃げるつもりなのか。
学長の温厚な顔を思い浮かべ、ため息をつく。敵を作るような人には思えない。あの学長を嫌う人がいるというのなら、見てみたいくらいだ。
「何かやったんだよ。学長は」仲興が膝を抱え、背を丸めた。「俺、店の奴に聞いたことがある。黄徳志は二十歳以前は何をしていたか誰も知らないんだ。本人は、あちこち旅をしていたと言っているらしい。二十一歳の時、知り合った人の家に泊まり込み、手伝いをした。そうしたら、知り合いが増え、帝国中の知識人たちにも伝ができた」
「ずいぶん、いい家の世話になったのだな。塾が開けるほど、知識を得られるとは」
伯文が感心したように言った。
「いや、知識ははじめからあったらしい。それで、いい手伝いになったんだよ」
「はじめからだと? 学長が、帝国中の知識人から学んだのではないのか」
「違うんだ。帝国中の学者が、黄徳志の知識に感服したんだ」
私も扉から背を離し、仲興に顔を近づける。
「まさか、そんなこと」
「あるんだよ、陸洋。もちろん、古典の暗記などは帝国の学者の方が上だ。だが、天文や地理については誰も及ばない。天気を予測し、田に稲を植える日を教え、水星や金星と太陽、火星の位置まで正確に答えたそうだ。噂は静かに広まった。天文なんて、本当は役人の仕事だからな。でも皆、作物を植えたり、魚を捕ったりするのにいちばんよい時期を知りたかった。だから、どんどん黄徳志の噂は広まって、やがてあちこちに招待されるようになった。黄徳志は商人になりすまして渡り歩いたって、うちの使用人が言っていたよ。三十歳を過ぎる頃にはお礼としてもらった金が貯まって、晴れて『山麓』を開き、最初から華都の知識人みたいな顔をして住んでいるってわけだ」
私はゆっくり瞬きをした。ずいぶん長い間、目を見張っていたらしく、目尻がひきつるように痛む。
「知識人に化けるとは、上手い手だな」
伯文が水の泡でも弾けるような声で、ぽつんと言った。
「ああ。甘いのをよく分かってるよ。知識人だというと、すぐ、素性が確かで偉い人だと思うのを利用したんだ」
仲興が苦々しげに唇を歪めた。
「二十歳以前に、学長が悪いことをしたと?」
私が口を挟むと、仲興が疲れたように額に手を遣った。
「他に考えられるか?」
「いずれにせよ、考えたくもない話だな」
伯文は大きなため息をつき、頭を振った。
私は蝋燭の火が揺らぐのを見ながら、学長のことを考える。
――生きていたとは思わなかったよ。
学長は、そう言っていた。灰色の目の少年を前から知っていて、死んだとでも思っていたかのように。
「なあ」
仲興が天井を仰いだ。
岩がむき出しになった天井は、光のせいで凹凸が大きく見える。
「明日、使用人に聞いてみようぜ。四六時中一緒にいるんだ。学長の秘密の一つや二つ、知っているだろう」
「賊のことを調べる方が先だぞ」
伯文のまじめな声に、仲興はうさんくさそうな視線を送る。
「わかっているよ。もういい、寝よう」
仲興は素早く蝋燭を吹き消した。辺りは暗闇に飲まれ、急に平衡感覚を失う。
「明日、学長より早く起きよう。見つからないうちにここを出ないと」
私は手探りしながら身を横たえ、ささやいた。
「そうだな」
仲興と伯文から同時に、返事があった。
その晩は寝付けなかった。寝返りを打ちながら夜が開けるのを待ち、板から薄く陽がさしはじめると、仲興たちを起こして外に出た。回廊を渡り、台所の窓から外に出る。通りはすでに露店が開いていた。仲興が肉包を三つ買い、一つずつ私と伯文にくれる。私たちは「山麓」の塀にもたれて座ると、そろって肉包をかじりはじめた。
「昨日も賊が出たってよう」
隣の店で、下町訛りのある男が、和え物を皿に盛りながら言った。
「そうらしいな。今度は夜だって。河向こうの盃華楼だとか」
客は懐から小銭を探り出して卓に投げると、皿を受け取る。
「いや、盃華楼のそばにある小さな店だ。かわいそうに、ようやく商売が上手くいきだした時だったってよ」
「また、光って消えたって?」
「例の賊だな。店の主人の言うのには二人組だそうだ」
男は代金を懐にねじ込んだ。
「へえ、男と女か?」
「さあ。老人と、覆面をしたやつらしい」
「ひどい怪我人が出たっていうじゃないか。やったのは覆面のやつか」
「そうれが、老人だというんだ」
男が苦虫をかみつぶした顔で言う。
老人、と聞いて、私は顔を上げた。あの老人が、椅子の背をすべてもぎ取るような力を持っているようには見えなかった。
仲興が肩を叩いた。眉を寄せ、首をかしげている。
伯文も怪訝そうに男を見上げた。
「ずいぶん力のある老人だったのか」
客も、不思議そうに目を細める。
「違うよ、お客さん。べつに老人が壁を蹴破ったりしたわけじゃないさ。呪文を唱えてね、黒い土みたいなものを、袋から、こうざあっと」
男が膳でもひっくり返すように腕を振った。客は頭を下げ、皿を抱える。
「こう、床にまいたそうだ。それで、呼ばわった。少年がいるだろう。連れてこい」
「少年? そっちの商売か」
「なんの商売だい。ともかく、店の主人はそれで賊だと気がついた。くだんの少年は、少し前に出ていったばかりだったらしい。店の客が、鸚鵡を連れているのを見たとか見ないとか」
「鸚鵡か。いい鳥だな」
「だろう。どうも、その少年は地方の役人の息子だと言ったそうだ。実際はどうだか。賊はそいつが目当てだったんだからな。いないとわかると、覆面のやつが、店の蝋燭から火をとって、老人に渡したんだ。老人はまた呪文を唱え、火を床に投げた」
「火事になったかい」
「そんなもんじゃないよ、お客さん。突然、ぜんぶが弾けたように、飛び散ったんだ」
私は、手のなくなっていた男を思い出し、身震いする。確かにそのくらいのことがなければ、あれほど酷い怪我はしないだろう。
「しかし、そんなことできるものなのかな」
客は和え物の皿を抱えたまま、呆然とつぶやいた。
「だからさ。仙人だって噂になってるんだ。まったく、狙われたくないね。そういう偉い人には」
その時、別の客がきて、男を呼んだ。男は新しい客に向き直り、聞かれるままに値段を答えはじめた。
そっと仲興を見やると、彼もこちらを見ていた。伯文が目配せした。私たちは肉包を口に押し込み、立ち上がった。
通りをぶらぶら歩き、木陰で立ち止まる。仲興が木にもたれ、伯文が大儀そうに腕を組んだ。
「仙人を、この目で見るとはなあ」
仲興が空を見上げる。つられて見ると、綺麗な朝焼けだった。
私は、うう、とうなり、首をかしげる。
確かに、仙人らしい姿だった。白髪に長い髭、そして怪しげな術。しかし、仙人といえば人の来ない山の中に住み、草を摘みながら道術の修行に励んだ結果、なるものではなかったか。昔の帝国の話に出てくる仙人は、不思議なことはしたが、都で店を吹き飛ばしたりはしなかったようだ。
第一、私はこれまで不可思議な道術を使う仙人を見たことがなかった。だから存在していると言われても、実感はわかない。もちろん、目の前で老人が消え失せたことは事実だったが。
「小さい旦那」
河から仲興を呼ぶ声がした。周、と名の入った船に乗った男が手を振っている。
「珍しいものでも入ったか」
仲興が河岸で身を屈め、船の荷を見た。途端、紙を弾くような音がした。男の頭の上に鳩が止まっている。通信用だ。
「違いますよ。昨晩、家を抜けられたでしょう。おかみさんが怒っていますよ。学長先生がいらっしゃったのに、逃げたって」
男が呆れたように腰に手を当てた。それから、ちらりと私を見て、これは欧の若旦那、と頭を下げる。私は会釈を返し、木陰に隠れた。
「学長の用事はなんだったって?」
「さあ。欧の若旦那がこちらだと聞いていらっしゃったようで。家に一度、お帰りになった方がいいですよ。おかみさんがとても心配していらっしゃいます」
「心配ないと言っておいてくれ。それからな、うちに老人と覆面のやつが来たら、気をつけろよ」
「賊ですか」
男が舌打ちするのが聞こえた。
「そうだ。俺たちは昨晩、賊に遭遇した。やつらを捕まえるまで、帰らないから」
仲興が強い口調で言う。
私は慌てて仲興を止めようと、木陰から飛び出す。伯文と肩がぶつかった。互いに、おまえがとめろ、と視線で言い合ったが、決着がつかなかった。
男も仲興を止めていたが、結局、押し切られたらしく、船を岸から離す。
「何かあったら、必ず呼んでくださいよ」
男はそれだけ言って、河に漕ぎだしていった。引き留めたい気持ちだったが、笑顔で手を振っている仲興を見ると、できなかった。
「戻るか」
諦めたように、伯文が肩を落とした。




