プロローグ
少女は空と同じ色をしている。
青を胸に吸い、白を指先に絡め、黒を脳の奥におさめて、その手に光を握る。
山頂を渡る風は鸚鵡より鋭く鳴き、雪は大地を覆い尽くす。
朝は山のすそまで朝焼けに染まり、夜は枕の中まで寒気が入る。
空は、この小さな国にとって、隙間鳴く編まれた籠のようなものだった。
十分な空気を人に与えず、それでいて、人をできるだけたくさん国に閉じ込めておこうとした。
そんな空を突き刺すように、光の塔は立っている。
光の塔は、日が昇れば琥珀色に輝き、日が暮れれば藍色に沈み、月の明かりで金色になる。
人々は、塔を見上げて祈った。
空がこれ以上、大地に降りてこぬように。
大地が今よりも、空に近づかぬように。
彼らの自由は、空と、小さな地面との間にだけあったのだから。
光の塔は、何者も寄せつけなかった。
ただ空に向かって、先端を突きつけている。雲すらも塔を避けて巻いた。
少女はその日、光の塔の侍女になるのだと告げられた。
そうであるから、空と同じ色にならねばならぬと言われた。
建統元年八月。
宇王朝では、その年である。
少女達の国は、宇王朝から見て、はるか南西の山地にある。
建統元年といえば、ちょうど、宇王朝が帝国というにふさわしい領土を手に入れたばかりの頃で、まだ、周囲の国々と交流をもつ余裕はなかった。
交流というよりは――西方、北方の異民族が攻めてくるので、その対応に明け暮れていた、というところだ。
とても、西南部の小さな国のことまで、気が回らなかったのだろう。
しかも、少女のいた小国は、大国の目を避けていたようでもある。
それは、この小国の支配者にして、この国唯一の仙人、「天君」の意志であった。
さて、光の塔の侍女になるのだと告げられた少女は、茶を飲まされた。
可口茶である。
可口というのは植物の葉だ。
葉をもんで湯を注ぎ、飲みやすくするために肉桂と砂糖を加え、茶色く濁ったものを可口茶という。
天君が目の前で入れた可口茶を、少女は飲みほした。
勇気がでる茶である――そう、天君は言ったと、後に宇王朝の都で見つかった本に書き記されていた。その本の名を、『医療小冊』という。
可口茶を飲みほした少女は、すぐに視界に違和感を覚えた。
少女がいたのは、洞窟の中の、岩を削ってできた小部屋である。小さな窓から入る明かりは乏しく、昼でも蝋燭を使っていた。
可口茶の効果が表れてくると、少女には蝋燭の炎が龍のように伸びて見えた。
体が熱くなり、指先には震えが走る。
「安心せよ」
少女には、天君の声が聞こえた。
天君は懐から白い布に包まれたものを取り出し、机に置いた。
「宝刀じゃ」
天君がうやうやしく掲げ、少女に手渡す。
少女は宝刀を握りしめた。
衝動的に鞘を払い、刃を確かめる。
刃はくもりなく研がれ、蝋燭の光が揺揺と映っている。
きれいだと思った瞬間、少女の体から、震えが去った。
「宝刀は、こう持つのじゃ」
天君が少女の手を握り、筆を持つような形に指の位置を直す。
「やってみせよ」
天君は少女から離れると、手刀で机を打った。
少女は刃を見つめたまま、宝刀を机に突き刺してみせる。
「そう、そのように、殺せ」
天君がカラカラと笑った。
「はい。おおせのままに」
少女は答えた。
天君は微笑み、どの言語とも違う発音で数節、唱えると、少女に布をかぶせた。
少女は宝刀を持った手を、目の前まであげてみる。
しかし、壁が透けて見えるだけで、腕は見えない。
「これは、おまえを透明にする仙術だ」
天君が、ぽん、と手を打った。
「さあ、行っておいで」
少女はうなずき、部屋を飛び出した。
少女は洞窟から出て、門番の横をすり抜け、大通りへと走り出す。
そして、西の空を仰いだ。
西の空には、光の塔が見えている。
光の塔は、ここに人が住み始めた頃、すでにあったと言われる。
一面銀色に光る塔には誰も登ることができなかった。
階段も、屋根もない。
上に行くほど筆先のように細くなり、さらに、足も置けないほどの小さな段差を経て、三角にとがっている。
何の役にも立たない、だからこそ、この国にはなくてはならない塔でもあった。
塔の東西を見ると、さらに高いやぐらが見える。
こちらは天君が作ったものだ。
少女は大通りから路地に入り、やぐらの入り口に立った。
そして、高さを確かめるように天を仰いだ。
――この高さでは、最上階は霧に巻かれてしまう。
少女は、そう思った。
やぐらの入り口こそ木で隠れていたが、見張り台となる上端は、街のどの建物よりも高くそびえていた。
やぐらの四方には、巨木が生えている。
中央には、さらに二回り太い木が植えられている。
そして、人の五十倍ほどの高さに育っていた。
丸太のようにしか見えないその木には、人の髪で作った縄がくくりつけられている。
その上に板をしいて床にしてあった。
床は、上の階に梯子をかけるための足場と言った方がよいだろう。
一階から二階、二階から三階……と、長い梯子が中央の木に沿って取りつけられていた。
梯子を、少女はまず九階まで上った。
それから静かに床に降り立ち、十階の気配を確かめる。
天君の言うとおりであれば、あの女がいるはずだった。
女は、いた。
少女は足音を忍ばせて十階に降り立つ。
女は、手すりに腕を乗せ、長椅子に座っている。
女の名は、馬英鈴という。
女は七十六歳になったばかりだったが、見かけは五十程度にしか見えない。
肌の張りも、頬の血色も若かった。
当然だ。
馬英鈴は、この国の統治者、つまり天君の妻である。
天君は馬英鈴に仙薬を与えた。不老の薬、しわを消す薬。
若さばかりでなく、何もかもが馬英鈴の思いどおりになった。
やぐらの最上階で椅子に腰掛けて物見がしたいからと、床を補強するよう求めたのも彼女だ。
しかし、馬英鈴にも恐れるものがあるのを、少女は知っている。
少女がつま先立つと、北西に洞窟の入り口が見える。
先ほど飛び出してきた洞窟だ。
あの中に、馬英鈴の居所もある。
三十五年ほど前から、馬英鈴は天君と共に洞窟に住んでいた。内外を守る六十人の道士、そして、馬英鈴と天君の給仕をする三十人の侍女と共に。
三十人の侍女のうち、一人は少女の母である。
母は天君に信頼され、共寝し、子をなした。
馬英鈴は、そうして生まれた少女たちを恐れた。
少女は息を吸い込み、宝刀を構える。
「馬夫人」
憎悪を込めて、その名を呼ぶ。
馬英鈴は辺りを見回した。もちろん、少女の姿が見えるはずもない。だが、天君の妻という立場上、状況を読むのもはやかった。
「天君の差し金なのね。姿を現しなさい。ここなの?」
馬英鈴が乱暴に手を払う。少女は被っている布に触れられないよう、飛び退いた。
その時、甲高い鳴き声を上げて、虹色の鸚鵡が飛んできた。
少女は思いきり宝刀を振り下ろす。
何度も、何度も。
しかし、その刃は馬英鈴をかすることすらしない。
だが。
突然、足音がした。
少女が顔を上げると、少年が立っていた。髪はなく、頭に十字の縫い傷がある。
少女には見覚えがあった。
一か月前のことである。
洞窟の中で、少女の母に頭を切開されていた少年だ。
少年は頭の中で出血し、洞窟に担ぎ込まれた。医術を受け持っていたのは、少女の母だった。
少女の母は、手早く少年の頭の中から血を取り除くと、しみじみと少年をみた。
「この子にしましょうか」
そして、頭の傷を縫う前に、少年の頭に白い玉を埋め込んだ。
少年はその後、身元引受人であった何光秀の元に戻っていった。
同じように、少女の胸にも、白い玉が埋め込まれた。
少年は短剣の柄をにぎりしめ、少女がしていたように、何度も何度も振り下ろした。
馬英鈴の血が飛び、金切り声が、空気の薄い空に散っていく。
ちょうど、少女が振り下ろしたのと同じ回数、馬英鈴を刺したあと、少年はぴたりと動きを止めた。
少女は宝刀を握ったまま、もはや肉の塊になった馬英鈴を見る。
昨日まで、少女は馬英鈴に殴られていた。殴っている時の目は、憎しみと言うより、少女たちを恐れているように見えた。そして、少女たちの存在を打ち消すように、殴り続けたのである。
少女は、心の中で、安堵の息をついた。
ふと、階下で足音が聞こえた。
梯子の方に目を遣ると、一人の男が登ってくるのが見える。
「何をしておるのだ! 高隆志!」
男の叫び声が、やぐらの天井にこもって響いた。
少年がびくりと体を震わせ、ゆっくりと男の方を振り返った。浅黒く、四角い少年の顔が、戸惑いの表情を浮かべたまま、静止している。
「何光秀さま……わ、私は、な、に、を……」
少年の手から短刀が落ちた。手に着いた血の出所を視線で探っている。
と、少年の視線が止まった。
見えないはずの、少女を見ている。
少女はとっさに視線を外した。
そして、少年の視線は、馬英鈴の死体にたどり着く。
少年は、がたがたと震えだした。
床を流れる血は、少女の方にまで迫っていた。
少女は透明になる布をつかんで後ずさり、身を翻すと、梯子を下り始めた。
洞窟に駆け戻った時、少女の鼓動はひどくはやかった。
しめった石の階段で足を滑らせ、数段落ちる。
透明な布ごと手をついて、這い上がる。
ようやく自分の部屋の前にたどり着いた時には、全身に冷たい汗が流れていた。
少女は目の前の岩に向かって呪文を唱える。
岩が動き、子どもがひとり入れるくらいの穴が現れた。
少女はその中に潜り込む。
岩が、音を立てて閉じられた。
辺りは、闇だった。
一、二、三……。一段ずつ数えて上って、十三段。
少女は再び、呪文を唱える。今度は、少女だけが知っている、少女の部屋の扉を開けるための呪文。
岩戸が開き、階段に光が差し込んだ。
少女は、ふ、と息を吐き、一歩、部屋に踏み入る。
が。
「おかえり」
しわがれた声に、少女は立ちすくんだ。
目の前には、天君が真っ白な髭を撫でて立っていた。
「おおせの通りにやり遂げました」
ひざまずいた少女に、天君はにやりと笑った。
「ぬしの宝貝とつながったか。汚れし少女よ」
一瞬、少女は天君の言葉が聞き取れなかった。
頭の中で何度も反芻し、意味をとらえた途端、少女はかっと顔が熱くなるのを感じた。
命令したのは天君ではないかと言いたかったが、言葉が出ない。
ただ、わななく体を手でおさえつけ、うつむくことしかできなかった。
天君は少女の横をすりぬけると、いともたやすく、少女しか知らないはずの呪文を唱えた。
「今日のことは誰にも言うな。そなたがここにいたいのならな」
天君はそう言い、透明になる布を少女から取り上げると、さらりという衣擦れだけを残して去った。
扉が閉じると、少女は、声を上げて泣いた。
そのあとも、少女は宝刀を振るい続けた。
翌年、高隆志は、宝刀の導きのまま、何光秀を殺した。
少女の母は天君の妻になった。
宇王朝では、建統三年にあたる年。
何光秀が死んだ翌月、少女が洞窟の宮殿の長い廊下を歩いていると、壁づたいにささやき声が聞こえた。
「ねえ、見た? 知淵。私の宝貝、あっという間に、あの男をばらばらにしたのよ」
知淵、とは少女にとって二番目の妹の呼び名だった。
少女は耳を澄ます。
もう一つの声が、言った。
「聞いてるって、悠淵姉さん。私の宝貝だって、心臓をぐさって貫いたんだから」
悠淵は、一番目の妹だ。
妹たちも、宝貝を使って人を殺している。
少女は肌が粟立つのを感じ、両腕で体を抱えるようにして部屋に戻った。
少女の心の変化を察したのだろうか。
その年、少女の母は、何度も少女の胸を開き、白い玉を入れかえた。
少女は、高隆志との距離が離れていても、宝刀を使えるようになった。
もはや、二人が目を合わすことはない。
その頃からだ。
少女は、大船団を夢に見るようになった。
天君が狂った時、この地を滅ぼすためにやってくるという、異形を乗せた船を。
昔話に聞くだけの船団を、少女は何年も待っていた。
だが、船団は来なかった。
来るはずもない。
仙人の住むこの国は、大陸の奥にある山の中にあったのだから。
少女はとうとう、心に決めた。
光の塔に背を向け、この国から出て行くことを。